第15話 視えてしまう
後半、試合は走の想像を超えて、熱を持った。そして、その熱を焚きつけていたのは、桐生だった。
二年前、桐生はスタンドで、仲間が競り負けるのを、ただ見ていることしかできなかった。動けない脚を、心の中で何度も呪いながら。その夏の借りを、いま、返そうとしていた。自分がもう一度輝きたい、というのではない。やっと、あの輪の力になれる。ただ、その一心だった。アカネが崩す。走が通す。桐生が仕留める。右サイドの一本のラインが、風間の異次元と、真っ向から殴り合っていた。
試合は拮抗した。風間が一枚剥がして持ち込めば、走が二枚を寄せて、ゴール前で辛うじて食い止める。走たちが右から圧をかければ、風間の側の守備が、身体を投げ出して跳ね返す。点が入りそうで、入らない。コートの外で、田舎から来た数人の親たちが、一つのプレーごとに立ち上がっては、また腰を落とす。夏の午後の光の中で、四対四の小さな戦いが、どちらも譲らないまま、じりじりと煮詰まっていった。
均衡を破ったのは、桐生の一撃だった。
アカネが相手の三人を一気に引き連れて、逆サイドへ流れる。ぽっかりと空いた右の裏。そこへ、この日いちばんのスピードで、桐生が斜めに飛び込んだ。走はその走り出しを読むより先に、もう球を離していた。二年、隣で組み続けて、指先が覚えた角度だった。転がった球と、桐生の左脚が、寸分の狂いもなく、同じ点で出会う。振り抜き。
ゴール。二対一。走たちが、優勝候補を、逆転した。
「よっしゃあ!!」
桐生が全身で喜びを爆発させた。二年間、氷のように固まっていた何かが、この一点で、いっぺんに溶けて流れ出したような叫びだった。アカネが真っ先に飛びつき、遅れてタケルがケンジがハルが団子になって駆け寄る。田舎の六人が、名古屋のコートの真ん中で、もつれ合って沸き返った。
「あたしのお膳立てだからね!」
アカネが胸を張って笑う。自分が三人を引き連れ、その裏で桐生が決めた。その連係が、彼女には、たまらなく楽しいのだ。その輪の中心で、桐生陸は仲間に揉みくちゃにされながら、笑っていた。
走もその団子へ、一歩、踏み出しかけた。去年の夏、脚が治ったあの朝、桐生と拳をぶつけ合った時のように――今日くらいは、六十八年ぶんの分別を忘れて、この子たちと一緒に、ただ跳ねてもいいはずだった。
だが、その一歩は、途中で止まった。
歓喜の輪から、たった一人、走だけが、笑えずにいた。
*
走の眼が抱き合う仲間の隙間から、桐生の左脚だけを、勝手に捉えていた。そして、視えてしまった。
膝の下、脛の上のあたり。二年前、走がこの手で治した、あの脆い場所。そこが、危険を告げる色に、じわりと灯っている。走の診断の眼だけに映る、警告の熱。連戦の蓄積が、とうとう限界の線に達していた。
二年かけて、こつこつ埋めてきた骨の継ぎ目の傷が、いま、連戦の疲労で、また薄く口を開けかけていた。さっきの、この日いちばんの踏み込み――あの一蹴りが、縁ぎりぎりで持ちこたえていた脚を、とうとう際まで押し出したのだ。あと一度、同じ強さで地面を蹴れば、傷は、こらえきれずに裂ける。走の眼には、その"あと一度"までの、紙一重の余白が、はっきりと視えていた。
いまの一撃――この試合いちばんの全力疾走が最後のひと押しになったのだ。あと一つでも、桐生があの脚で本気の加速を踏めば、炎症は、間違いなく再発する。下手をすれば、二年前より、ずっと深いところで。
だから、決めなければならない。次に、あの脚が全力で駆け出す前に。
医学的な答えは、一つしかなかった。いますぐ桐生を下げ、脚を守る。それが、正しい。前世で骨まで叩き込まれた知識のすべてが、冷たく、そう告げていた。
だが走は歓喜に沸く桐生の顔から、目を離せなかった。
試合はまだ終わっていない。二対一。優勝候補を相手に、決勝まで、残りわずか。ここで桐生を下げれば、チーム最大の攻撃力が、丸ごと消える。掴めない風間空を相手に、桐生を欠いたまま、このたった一点を、守り切れるか。
――守り切れない。
走の眼が感情を交えず、そう弾き出した。桐生を下げた瞬間、この試合の天秤は、負けのほうへ傾く。それが、見えてしまう。
つまり、桐生の脚を守れば、勝利は逃げ、勝利を掴めば、桐生の脚が壊れる。この二つは、どうやっても、両立しない。走が二度目の人生で、いちばん恐れていた形が、いま、目の前に立ち上がっていた。
他人の身体の限界を、本人より先に見抜いてしまう、この眼。それは二年前、うずくまった一人の少年の脚を、こつこつと治した、まっすぐな光だった。同じ光が、いま、人生でいちばん輝いている親友から、その輝きそのものを、奪い取ろうとしている。
あと一歩で、決勝だった。仲間は、まだ歓喜の中にいて、桐生はあんなにも、笑っていた。そのまばゆい光の真ん中で、走の眼にだけ、桐生陸の左脚が、痛々しいほど赤く、視えていた。




