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第14話 つかめない男

 準決勝の相手のエースは、風間 空(かざま そら)といった。


 ウォームアップを、走は最後尾から、じっと"視て"いた。ほかの選手なら、数分も観察すれば、癖も、利き足も、次の一手の傾向も、あらかた読める。それが走の眼だった。だが、その子だけは、勝手が違った。


 風間空は飄々とボールを蹴っていた。技術は、疑いなく一級品だ。リフティングの音の間隔ひとつ取っても、無駄がない。だが走の眼がいくら凝らしても、"次"が読めない。重心の沈み込みから、次の踏み出しを予測する。走がいつも当たり前にやっているその作業が、この子の前では、ことごとく空を切った。


 試しに、走はアップ中の風間を、頭の中で一度"守って"みた。右へ切り返すと読む。だが風間は切り返さずに、そのまま止まった。ならば止まると読む。次の瞬間には、逆足で、するりと消えている。まるで、走の読みそのものを、先回りで裏切っているかのようだった。


 規則が、ない。いや、違う。この子には、"こうしたい"という意図が、そもそも希薄なのだ。勝ちたいから仕掛ける、抜きたいから運ぶ――そういう欲の矢印が、どこにも向いていない。ただ、その瞬間、いちばん面白そうなほうへ、ふらりと流れる。だから、読めない。欲を読んで先回りする走の眼が生まれて初めて、うまく灯らなかった。


   *


 試合が始まった。


 風間空は恐ろしかった。アカネの速さとも、桐生の鋭さとも、質がまるきり違う。あの二人はまだ読める。速いなら速いなりに、鋭いなら鋭いなりに、次の一点へ向かう線が見える。だが、この風間には、その線がない。走の張った網の目を、意図もなく、するりと抜けていく。


 前半の半ば、風間がボールを持った。走は味方二人を、あらかじめ通り道に置いていた。理屈の上では、詰んでいる。だが風間は詰まされたことにすら気づかないような顔で、二人のちょうど真ん中、一足ぶんしかない隙間へ、ふっとボールを流し込み、自分もそこをすり抜けた。囲んだ二人が顔を見合わせる。何が起きたのか、当人たちにも、わかっていない。


 そのまま、風間は決めた。走たちは、先制を許した。


 だが、ゴールを決めても、風間は笑わなかった。


 喜ぶでも、味方と抱き合うでもない。決まったゴールを、少し不思議そうに眺め、それから、ふらりとポジションへ戻っていく。点が入ったことより、そこへ至る過程のほうが、よほど面白かった、とでも言うように。味方が背中を叩いても、「ん」と気のない返事をするだけだった。


 風間のベンチから、コーチらしき男がしきりに何か指示を飛ばしていた。「空、右だ! 右のスペース!」だが風間はその声が聞こえていないかのように、まるで逆の、左の狭いほうへ入っていく。そして、そこで平然と一枚剥がす。コーチが天を仰いだ。叱るでも、褒めるでもなく、ただ、諦めたように首を振っている。この子は、監督にすら、握られていない。走はそれを見て取った。


 もう一度、走は試した。今度は、風間そのものではなく、風間に渡る球のほうを読もうとした。誰が、いつ、どの角度で風間へ預けるか。供給の線を先に断てば、いくら異次元でも、足元に球は来ない。理屈は、正しかった。走はその線をひとつ、味方の身体で塞いだ。


 だが、次の瞬間。風間は塞がれた線を待っていなかった。味方がまだ蹴ってもいないのに、風間のほうから、こぼれそうな一点へ、ふらりと歩き出していた。予測して動いたのではない。ただ、そこに球が来ると"知っていた"かのように。転がった球は、吸い寄せられるように、風間の足に収まった。走の眼の奥で、診断の像が、初めて意味をなさない砂嵐になった。


 ――読めない。動きも、供給も、意図も。何ひとつ。


 走はぞっとした。


 アカネの笑顔は、"勝ちたい"の裏返しだ。桐生の飛び出しは、"仲間を勝たせたい"の塊だ。走はそうした人の欲を読み、繋ぎ、並べ替えることで、ここまで戦ってきた。だが風間空には、その欲がない。掴もうとしても、掴むための取っ手が、身体のどこにも生えていない。


 ――こいつは、支配されない。


 なぜか、そんな言葉が、胸の底に浮かんだ。誰にも、何にも掴まれない。期待にも、勝敗にも縛られず、風のように、面白いほうへ流れていく。その自由が、走には眩しく、そして、正体の知れない何かとして、少しだけ怖かった。


 掴めないのは、走だけではなかった。


 一度、アカネが正面から風間に食らいついた。これまで誰にも抜かれたことのない、あの野生の勘で。相手の重心を嗅ぎ、爪先の向きを読み、一気に間合いを詰める。だが――風間はそのアカネの読みの、さらに一枚外側を、涼しい顔で通り抜けていった。理屈で読む走も本能で嗅ぎ当てるアカネもこの男の前では、まるで用をなさない。アカネは抜かれたあと、しばらくその場に立ち尽くし、それから、くやしそうに、けれど、どこか嬉しそうに笑った。


「なにあれ。ぜんぜん、わかんない」


 強いやつがいるほうが、面白い。その揺るがない信条を、風間空という男は軽々と、限界まで満たしてみせた。


   *


 だが、走たちも、伊達にここまで勝ち上がってきたわけではなかった。


 風間ひとりが掴めないなら、風間"以外"を締めればいい。走は設計の重心をそちらへ移した。風間の周りの三人を、こちらの網でじわじわと窒息させ、風間に渡る球そのものを、細く、遠くしていく。異次元の一枚がいても、サッカーは、四人でやる競技だ。そして、こちらには、桐生がいる。


 アカネが引きつけ、その裏へ桐生が飛び込む。走の球が、通る。前半の終わりぎわ、その一本が実って、走たちは一点を返した。同点。桐生の脚は、まだ動いていた。田舎から応援に来た数人の親が、コートの外で、跳ねて喜んでいる。


 ――行ける。同点なら、まだ決勝は見える。


 走はそう自分に言い聞かせた。だが、その一方で。


 球を追う桐生の一歩に、ごくわずかな鈍りが差し始めていた。それに気づいていたのは、この歓声の中で、走ひとりだった。ほんのコンマ数秒の、踏み込みの遅れ。桐生本人は、高揚に飲まれて、気づいてもいない。だが、連戦の疲労が、いま、あの脚の底で、静かに牙を研ぎ始めている。


 風間空はゴールを決めても、笑わなかった。その一方で、桐生陸の一歩が、確かに、鈍り始めていた。

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