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第13話 最後の夏

 小学最後の夏が、来た。


 田口の爺さんが持ってきたのは、その年代の集大成となる、大きな大会の話だった。近隣の市から腕自慢の少年チームが集まる、四人制の小さなコートの戦い。二年前、決定力を欠いて泣いた、あの夏の借りがある。だが、あの頃と今とでは、まるで違う。いちばん違うのは、桐生陸が六人の輪の中にいることだった。


「今度こそ、勝つ」


 朝、車に荷物を積み込みながら、アカネが誰にともなく言った。声は軽かったが、目は笑っていなかった。


   *


 大会が始まると、走たちの右サイドは、火を噴いた。


 走が最後尾から盤面を"視て"、アカネが最前で相手を釣り、その裏へ桐生が飛び込む。二年前、あと一点が遠かったあの穴を、いまは桐生の脚が、涼しい顔で埋めていく。アカネが二枚、三枚と剥がして守備を寄せ、その死角から桐生が刺す。走は後ろで、その二枚の刃の角度だけを、静かに整える。初戦の相手も、この見えないラインの前に、面白いように崩れていった。


 二回戦の相手は、初戦とは格が違った。前線から激しく寄せてきて、走たちの右サイドを、封じにかかる。開始早々、桐生への縦パスを、二枚がかりで刈り取られた。だが――ここで踏ん張ったのが、底上げ組だった。ケンジが抜かれても抜かれても、泥くさく食らいついて相手の足を遅らせる。タケルが長身を生かして、放り込まれるボールを、ことごとく跳ね返す。個の力では、まだ及ばない。それでも、正しい位置に立ち、身体を投げ出すことなら、この一年で身につけた。走の設計は、その地味な粘りの上で、初めて回りはじめる。


 守り切った後半、走は一度だけ、勝負に出た。アカネに、あえて左へ大きく流れさせる。相手の守備が、つられて左へ雪崩れた、その一瞬。がら空きになった右の奥へ、桐生が音もなく走り込んだ。走の球が、そこへ通る。桐生の左脚が振り抜かれ、ネットが、鋭く鳴った。決勝点。格上を、一点で沈めた。


 球が足を離れてからネットが鳴るまでのあいだ、走は、息をしていなかった。鳴ってから、吸った。


 だが、走が密かに誇らしかったのは、桐生やアカネの派手さだけではなかった。


「ナイス、ケンジ!」


 いちばん足の遅かったケンジが身体を投げ出して、相手のエースから球をもぎ取っている。「おれでも、取れるんだって!」自分でも信じられない、という顔で、それでも誇らしげに笑う。のっそりしていたタケルはこの一年で頭ひとつ背が伸び、競り合いで、もう当たり負けしなくなった。「おれ、最近、跳ぶの楽しいわ」高いボールを弾き返しては、不思議そうに自分の手を眺めている。どんくさいハルは相変わらずどんくさい。だが決定的な場面で、なぜか地味に正しい位置に立っていて、「勝っても負けても、楽し〜!」と、誰より先に声をあげて笑っていた。


 遊びと、食事と、睡眠。走が何年もかけて、そっと薄く乗せ続けてきた"正しさ"が、この田舎の子たちの身体を、確かに底上げしていた。派手な才能ではない。だが、この年代でなら、じゅうぶんに通用する。ボールに触れる前に消えていくはずだった子供たちが、いま、勝ち上がるチームの、確かな土台になっている。


 この先に壁があることを、走は知っている。もっと上のカテゴリーでは、生まれ持ったものの差が、動かしがたく待っている。だが、それは今日の話ではない。今日この夏、この三人が胸を張ってピッチに立っている。ケンジが奪い、タケルが跳び、ハルが笑っている。それだけで、走には、じゅうぶんだった。


   *


 勝ち上がる。また、勝ち上がる。


 だが、一日に何試合もこなす大会では、試合そのものより、試合と試合の"あいだ"のほうが、走にとっては、本当の勝負だった。


 勝った直後、走は仲間をその場に座り込ませなかった。全力で動いた身体を、急にぴたりと止めれば、脚は固まり、次の試合で動かなくなる。だから、軽く歩かせて、身体にこもった熱を、ゆっくりと抜いていく。日陰で脚を高くして休ませ、汗で失ったぶんを、こまめに水と食べ物で補わせる。次の試合まで一時間あるなら、その一時間の使い方だけで、後半の脚の残り方が、まるで変わってくる。都会のチームがベンチでだらけているあいだ、田舎の六人だけが、静かに、次の試合の身体を整え終えていた。


 四試合目の後半、走は自分の脚に、まだ何も来ていないことに気づいた。


 周りの子が、一歩目を失っていく時間帯だ。相手の右のエースも、こちらのケンジも、朝とは違う重さで芝を踏んでいる。その中で、走の身体だけが、朝と同じ重さで動いていた。軽いのではない。朝と同じ、というだけだ。


 木登りと、飛び石と、畦道の鬼ごっこと、飯と、眠り。六年、誰にも練習だと言わなかったものが、四試合目の後半という、いちばん誰の目にも留まらない場所に、出てきていた。


 走はそれを、口にしなかった。ただ、次の球へ、朝と同じ一歩で出た。


 だが歓声の中で、走の眼だけが、ある一点を、静かに追い続けていた。桐生の、左脚。試合を重ねるたび、そこに、うっすらと疲れの影が差してくる。二年ぶりに全力で走る脚に、連戦が、一戦ぶんずつ負荷を積んでいく。まだ、痛みは出ていない。桐生本人も、気づいていない。だが走の眼には、あの膝の下が、一試合ごとに、ほんのわずかずつ熱を帯びていくのが、はっきりと見えた。


 勝てば勝つほど、桐生が輝けば輝くほど、あの脚は、少しずつ削れていく。


 だから走は一つ、手を打った。相手のエースが仕掛けてくると読むと、走はあえて正面から潰さず、球を持たない相手を、じわじわと無駄に走らせるよう、味方の立ち位置を仕込んだ。囮に食いつかせ、戻らせ、また食いつかせる。潰す気配だけを見せて、実際には一歩も削らせない。派手なタックルは、一つもない。ただ盤面を操って、相手だけが、余計な距離を走らされていく。試合の終盤、相手のエースの脚が先に上がったのを見て、走はこっそり息を吐いた。


 こちらの脚を守りながら、相手の脚を、先に削る。それはまだ、ただの萌芽に過ぎない。だがその"わざと動かして削る"という発想は、いつか走の、いちばん静かで、いちばん恐ろしい武器になる、その原型だった。


   *


 準々決勝を、勝ち抜いた。ベスト四。二年前には、指の先も届かなかった場所だ。


「あと二つ! 決勝、行くよ!」


 アカネが吠える。桐生が笑って応え、タケルもケンジもハルも、汗まみれで肩を組んでいる。田舎の六人が、名古屋のど真ん中で、優勝候補と肩を並べている。誰かの汗ばんだ腕が、走の首に回ってきた。日に焼けた匂いと、草の匂い。誰の腕か、走は確かめなかった。外さなかった。


「ソウ、笑ってる」ハルが目ざとく言った。


「笑ってない」


「笑ってるって! なあ、健司!」


「笑ってる」ケンジが、汗を拭きながら頷いた。


 走は、否定するのをやめた。


 だが、次の相手の名を聞いたとき、走の背中を、なぜか、冷たいものがひとすじ流れた。準決勝の相手は、この大会の優勝候補。そのエースが、少し、風変わりだという。


「そのエースがさ」偵察してきたタケルが首をかしげた。「めちゃくちゃ上手いんだ。なのに、点を決めても、勝っても、ぜんぜん嬉しそうじゃない。負けても、へらへら笑ってて。なんつうか……何を考えてるのか、さっぱりわかんないんだ」


 勝っても、喜ばない。負けても、悔しがらない。走の頭の中で、診断の眼が、まだ見ぬその選手の輪郭を、うまく結べずにちらついた。走がこれまで視てきた、どの型にも、当てはまらない。


 ――なんだ、そいつは。


 夏の陽が、じりじりと、コートを焼いていた。

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