第139話 俺たちが、勝った
十九番が、球をまたいだ。
梶は動かなかった。そこまでは合っている。
左足の外側が、球を縦へ押し出す。梶の足が出た。
届かない。半歩、足りなかった。
十九番が縦へ抜けていく。白線のすぐ内側だ。ベンチからは、二つの背中が同じ速さで遠ざかっていくのが見えた。
左足が振られる。
速い球がゴールの前を横切った。九番が飛び込む。額に当たった球は、枠の上へ飛んでいった。
ゴールキックだ。
スタンドが二度、続けて鳴った。抜かれたときと、枠を越えたときとで、鳴り方が違った。
氷の袋が、走の足元に落ちていた。いつ落としたのかは、分からなかった。
「またいでからだ!」
届いたかどうかは分からない。梶は振り返らなかった。
鬼塚が一度だけ、走のほうを見た。何も言わずに、顔をピッチへ戻す。
走は立ったままでいた。座れ、とは言われなかった。
「そこ! 替わったばっかりだ! 何本でも行け!」
真ん中で、都築が手を振っていた。
梶の背中が、その声のほうを一度向いた。向いて、すぐ戻った。
財前が梶の肩を押して、何か言っていた。梶がうなずく。うなずき方が速すぎた。
*
二本目は、すぐに来た。
十九番が受ける。白線に張りついたままだ。梶が距離を取った。
またいだ。
梶の足が、先に出ていた。左足の外側が球を押し出した場所に、その足がある。
球が梶の足に当たって、内へ跳ねた。財前が拾って、大きく前へ蹴った。
「いまのだ!」
走は叫んだ。喉の奥に、ざらついたものが残った。
叫んでから、椅子の背をつかんだ。立っているのに、身体のほうが前へ行こうとする。
白線の内側で、梶が片手を上げた。走にでも、財前にでもない。自分の立つ場所は、そこだと決めている手だった。
眞鍋が隣で画面を見ていた。
「向こうのベンチ、二人立ちました」
「入るのか」
「立っただけです。いつ入るかは、分かりません」
「東さん」眞鍋が続けた。「いまの、東さんが教えたやつですか」
「梶がやった」
「東さん、座ってください」眞鍋が言った。「見えません」
「座らない」
「はい」
三本目、十九番は球を止めたきりだった。またぎもしない。縦へも出ずに、球を後ろへ返した。
梶も動かなかった。動かないまま、一歩だけ前へ詰めた。
走の口から、息が漏れた。
またげば止められる。またがなければ、出せない。
内は、この男の足にない。
「十九! 内!」
都築の声が変わった。十九番は、白線から離れなかった。離れられないのだ。
「一人入りました」眞鍋が言った。「回数は、あと二度です」
*
尾張が押し返しはじめた。
海は真ん中から動かない。都築も、真ん中から出てこなかった。海が持っても詰めに来ない。中央で両手を広げて、そこに立っている。
尾張の右の中盤が、内へ入って球を受けるようになった。右の外に、誰も立っていない時間ができた。
梶が、海のほうへ何か言った。それから財前のほうへも言った。
ベンチまでは何も聞こえない。口が動いたのが見えただけだ。
財前が顎を引いた。海が一度だけ、梶のほうへ顎を振った。行け、に見えた。
梶が上がった。
速い。
球が右へ出る。梶が受けて、そのまま縦へ運ぶ。相手の左サイドバックが追いつくより先に、梶はもう上げていた。
クロスは高く上がって、相手のセンターバックの額に当たった。跳ね返った球が、中央まで戻っていく。落ちたところを、相手の中盤が拾った。
梶は、まだ上がったままだった。
相手が運んでくる。十九番が、空いた右へ流れてきた。
財前が横へ出て、そこを埋めた。球を外へ蹴り出す。
「梶!」財前の声は、ベンチまで届いた。「戻れ!」
梶が戻る。走は座らなかった。
二本目のクロスは、その少しあとだった。
海が中央で拾って、右へ出す。梶はもう走り出している。
受けて、白線の際まで運んだ。相手の左サイドバックが並んだ。それでも梶は止まらなかった。
ゴールラインの手前で、上げなかった。低く、後ろへ折り返した。
相手のセンターバックは二人ともゴールの前にいた。上がってくる球を待って、下がっている。キーパーは、梶の側のポストへ寄っていた。
レオは、ゴール前へ入っていかなかった。
ペナルティマークのあたりで、足を止めている。
球が、そこへ転がってきた。
レオが右足を振った。
ネットの鳴る音は、ベンチまで届かなかった。それでも、揺れたのは見えた。
二対一。
「二対一!」
出た声は、自分で思っていたより高かった。
走はベンチを出た。白線の手前で、第四の審判が横から腕を出す。その腕の内側で、走は止まった。
拳を二度、下へ振り下ろした。
真ん中で、都築が両手を腰に当てて立っていた。そこから動かなかった。
相手が前へ出てきた。
眞鍋が画面から顔を上げた。
「三人目が入りました。回数は、あと一度です」
「後ろは」
「二人残しています。さっきまでは三人でした」
尾張は下がった。海が真ん中に立つ。財前が梶の後ろに入る。
放り込みが続いた。跳ね返す。拾われて、もう一度来る。
海は、真ん中から一度も動かなかった。落ちてくる球の場所に、いつも先にいた。
入ったばかりの選手が、エリアの外から打った。低い球だった。鷲尾は倒れずに、足を伸ばして当てた。こぼれを財前が外へ蹴り出す。
走の声は、もうピッチの半分までしか行かなかった。それでも出した。
梶は、もう上がらなかった。
相手の左サイドバックが外を上がってくる。梶はそれについて、自分のゴールの近くまで下がった。上げてくる球の前に足を出して、タッチへ逃がす。
相手のスローインになる。それでいい。
十九番が、最後にもう一度またいだ。
梶は足を出さなかった。出さずに、球の押し出される場所へ身体ごと入った。十九番が芝に落ちる。審判は片手を下げて、そのままにした。球は、梶の足の下に残っていた。
そのあとだった。エリアの少し外で、笛が鳴った。
海が後ろから足を引っかけていた。
都築が球を置いた。
「壁、一枚足りないぞ!」都築が尾張の壁へ言った。「教えてやってるんだからな!」
尾張の誰も、それには答えなかった。鷲尾が手で位置を直させる。壁が一人ぶん、横へ動いた。尾張の選手が一人、壁の後ろの芝へ寝転がった。
都築が、それを見て一度うなずいた。
都築が蹴った。
球は壁の上を越えて、落ちてきた。
バーに当たった。
その音は、ベンチまで届いた。
跳ね返りへ、九番と財前が同時に飛び込む。財前の足が先に触って、球は白線の外へ転がり出た。
走は声を出そうとした。出なかった。口だけが動いた。
笛が鳴った。
*
走は走った。
白線を越えて、芝の上へ。脚は残っていない。腿が上がらないまま、上体だけが前へ行く。転びそうになって、二歩で立て直した。
最初にぶつかったのは財前だった。正面から来て、走を抱えたまま二人で一度回った。
「上で泣け言うたやろ」
「上では泣かなかった」
「いま泣いとるやろ」
財前の顔は、汗なのか何なのか分からなくなっていた。海が後ろから、二人の首をまとめて抱えこんだ。
レオが横から入ってきて、輪が一度ぐらりと傾いた。四人で、たたらを踏んだ。
「九点! おれ、この大会で九点!」
「数えてたのか」
「数えるよ!」
鷲尾が走の頭に手を置いた。
「勝った」
走はうなずいた。頭に置かれた手が、一度だけ重くなった。
鬼塚はベンチの前に立ったままだった。芝へは出てこなかった。
*
梶は、ゴールの前に一人で立っていた。走はさっき白線を越えたときの倍の時間をかけて、脚をひとつずつ前へ置いて、芝の上をそこまで歩いていった。
「梶」
梶が振り返った。鼻の頭が赤かった。
「一本目、抜かれたっす」
「二本目から止めた」走は言った。「あと、上がってくれた」
「……はい」
「ありがとう」
梶は息を吸って、吐いた。それから、自分の左の腕をさすった。走がつかんだところだった。
「東さん。右、返します」
「受け取った」
梶は顔を下へ向けた。肩が一度だけ上下した。走は何も足さなかった。
*
人のあいだを通って、都築が来た。
「なあ」都築は走の顔を見て言った。「前半に言ったやつ。もたせなくていい、ってやつ」
「言った」
「意味、あとで分かった」都築は笑っていなかった。「腹立つな。やってることは同じだろ」
「勝ったのは、こっちの二人目だ」
「悔しい。めちゃくちゃ悔しい」
都築が、そこでようやく笑った。
「二年だろ、あれ。聞いてないぞ」
それから走の胸を、手の甲で一度叩いた。
「今日はな」
言って、行った。行きながら、もう味方の誰かに何か喋っている。
*
表彰は、思ったより早く終わった。
名前を呼ばれて、走は列から一歩前へ出た。首に何かをかけられて、また列へ戻った。それで終わりだった。
かけられたものは、走ったあとの身体に冷たかった。
写真のとき、係の人が二列に並べと言った。梶が、いちばん端へ行こうとした。
レオがその腕を引っぱって、真ん中へ連れ戻す。財前が後ろから梶の肩を押さえて、そこで動けなくした。
「俺、途中からっすよ」
「黙っとけ」
前の列がしゃがむ。走は梶の隣にしゃがんだ。レオが後ろで、鷲尾の両肩に手を置いて背伸びをしている。
列の端に鬼塚がいた。写真のあいだ、一度も動かなかった。
スタンドの声は、まだ頭の上から降っていた。今度は、その下に立っていた。
*
宿舎に戻ってから、走は廊下へ出た。
最初に、アカネにかけた。
「勝った」
「勝った?」
「優勝した。決勝、二対一」
アカネの声が、途中で止まった。
「……えっ。優勝? 全国の?」
「全国の」
「うそでしょ」
「ほんとだ」
アカネが大きく息を吸った。吸って、そのまま黙った。
「なんか言えよ」
「言えない」アカネは言った。「待って。順番がある」
「順番」
「あたしから先に言う」アカネは早口になった。「できた。鶏むね。柔らかいの、できた」
「できたのか」
「できた。厚み変えて、漬ける時間はそのままにした。一個ずつ変えたの。えらいでしょ」
「えらい」
「でしょ」
「食わせろ」
「呼ぶって言ったでしょ」アカネは言った。「呼ぶから。……それで、優勝は?」
「優勝した」
「二回言わなくていい」
「二回言いたい」
アカネが笑った。走も笑った。笑うと、喉が痛かった。
「優勝と、鶏か」
「並べないでよ」
「並べる」
「……まあ、いいけど」アカネは言った。それから小さい声で、おめでとう、と言った。
*
母は、呼び出し音の途中で出た。
「走?」
「優勝した」
「……え?」
「全国。優勝した」
電話の向こうで、椅子の動く音がした。母が誰かを呼んでいる。父の声が遠くから近づいてきて、受話器の近くで止まった。
「……よかったな」
それだけ言って、父はすぐ母に替わった。
「どこで勝ったの」
「決勝」
「それで、何対何だったの」
「二対一」
母は、同じことをもう一度聞いた。走はもう一度答えた。点の入り方だけは、三回言った。
二度目のときも、母は一度目と同じ場所で「まあ」と言った。
「あんた、風邪ひいた?」
「潰した。声」
「なんで」
「ずっと出してたから」
少し、間があいた。
「すごいねえ」母は言った。「走が勝ったんだねえ」
「俺たちが、勝った」
母は、それきり何も言わなかった。
洟をすする音が聞こえた。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるだろ」
「お父さんが泣いてるの」
遠くで、違う、と言う声がした。
それから、母はいつもの声に戻った。
「ごはん、何食べたの」
「まだ食ってない」
「食べなさい」
「食う」
電話を切って、走はそのまま廊下の床へ座り込んだ。脚が震えた。
震えたまま、走は笑った。




