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『親に夢を諦めさせられて医者になった俺、転生して今度こそ本気でサッカーをやる』  ~最新スポーツ医学で"90分落ちない身体"を設計し、世界一のサイドバックになる~  作者: 猫の飼い主
第七章 右は、二人で一試合

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第140話 六週間

 梶はメダルを首にかけたまま眠っていた。顎の下で紐がよじれていて、寝息のたびに胸の上で小さく持ち上がる。


 走のは外して枕元に置いてある。海の布団はもう畳んであった。終わりの笛が、まだ耳の奥に残っていた。思い出すと、また笑いそうになった。


 走は右足を先に畳へ下ろした。


 痛かった。


 顔を洗って歯を磨いても、まだあった。階段は手すりを持って一段ずつ下りた。食堂の入口まで来ても、まだあった。


 走は入口を素通りした。廊下を突き当たりまで歩いてロビーへ出る。帰りの荷物がもう壁際に積んであった。荷物の山を過ぎてソファの手前まで来たところで、ようやく薄れた。


 洗面所。食堂の入口。今朝は、ロビー。


 走はソファに腰を下ろしてノートを開いた。朝の一歩目の行に、ありと書く。その後ろに、ロビーまでと足した。


 反対の隅でトレーナーが氷の箱に蓋をしていた。


 ノートを閉じるまでに、少しかかった。


 走は立って、そこまで歩いた。


「朝は」


「……食堂を過ぎても、残りました」


「どこで薄れた」


「あのソファの手前です」


「帰ったら、外で撮ってもらう。監督とはゆうべ話してある」


 バスの時間を言うのと同じ声だった。


「何か写れば、写ったと書く。何もなければ、何もないと書く」


「はい」


「朝飯はちゃんと食ってくれ」


 食堂に入ると、梶がまだ首から下げていた。味噌汁の椀の上でメダルが揺れている。


「おはよう」


 走が言うと、財前が飯をかき込む手を止めた。


「ええ声やな」


「お前もな」


「梶。飯のときくらい外せや」


「外したら、夢だった気がするんすよ」


 レオがスマホを梶の顔の前に突き出した。昨日の写真がもう回ってきている。真ん中で梶だけが目をつぶっていた。


「夢ちゃうけど」財前が言った。「寝とるな」


 写真の中の走は、梶の隣で口を開けて笑っていた。


   *


 帰りのバスで、レオは乗って十分で歌いはじめた。昨日の応援席がくり返していた節だった。


 二十分たっても財前は止めなかった。途中からは自分も歌っていた。財前の音程は一つずつずれていて、レオが笑い出した。笑いながらまだ歌っている。通路の向こうで眞鍋がタブレットを構えていた。録っているらしい。


 窓の外を、行きと同じ防音壁が流れていく。


「東も!」


 走も歌った。つもりだった。レオの声に隙間風みたいな音が一つ混ざっただけだった。


 走は歌うのをやめて隣の海に言った。


「帰ったら、撮る」


「分かった」


 三十分たっても、誰も寝なかった。


   *


 名古屋へ戻って二日後の午前、トレーナーの車で整形外科へ行った。クラブが選手を診てもらっている外の病院だ。


 駐車場でトレーナーは書いてきた紙を走にも見せた。朝の一歩目がどこで薄れたか。押して痛む場所。走が言ったことだけが、言ったとおりに並んでいる。


「今朝は門を出るまででした」


 トレーナーはそれを紙に書き足した。


 受付でトレーナーが紙を出すと、走には問診票が渡された。いつからの欄には七月と書いた。痛みの強さは十までの数字から選ぶ。走は三に丸をつけた。


 待合の長椅子に座った。消毒と、床のワックスと、椅子の布。前の生で、いちばん長く吸った匂いだ。


 呼ばれる側の椅子は、思っていたより低かった。


 自分の番が来るまで、走は呼ばれる名前を数えていた。七つ目が、東さんだった。


 診察室の戸に医師の名前が出ていた。柏木(かしわぎ)。


 窓のない部屋だった。机と診察台と画面が一つ。四十くらいの女性の医師がトレーナーの紙を読んでいた。髪を後ろで一つに結んで、白衣の袖を肘までまくっている。


 トレーナーは戸の脇の丸椅子に座った。走は柏木の前の椅子に腰を下ろした。


「毎朝聞いてるのは、あなた」


 柏木は紙から目を上げずに言った。


「はい」


 答えたのは、後ろのトレーナーだった。


「助かる」


 柏木は紙を机に伏せた。


「立って」


 座ったばかりだった。走は立った。


「そこまで歩いて。戻ってきて」


 壁までは四歩だった。いつもどおりに歩こうとして、いつもどおりが分からなくなった。振り返るとき、身体が勝手に左脚を軸に回った。また四歩で戻った。


「今度は、痛くないほうの脚から先に出して」


 走は左から出た。右が床に着くたびに、柏木の目がそこへ落ちるのが分かった。


「座って」


 走は右脚を前へ伸ばしたまま、左で座った。


「階段は、降りるほうがいやでしょう。右だけで跳ぶのも、しばらくやってない」


 そこで柏木が顔を上げた。


「言ってないのに、って顔してる」


 走は自分の掌を見た。


「朝の記録、つけてるって書いてあった。見せて」


 走は鞄からノートを抜いた。柏木は頁をめくって朝の一歩目の行を読んでいった。めくるたびに、その一行が長くなる。


 決勝の日の頁でめくる手が止まった。走ったあと、と書いた行がある。途中で一度も思い出さなかった、とだけ書いてある。


「こっちはあてにしない」


 めくる音がいちばん新しい頁まで進んだ。


「門って、どこの」


「寮の門です。玄関から五十三歩です」


「数えたの」


「数えました」


「腱なら、動いて温まるうちに引いていくことが多い。あなたのは、引くまでが毎朝延びてる」


 柏木はノートを机に置いた。


「この脚のこの延び方は、中を見たほうがいい。その前に。押していちばん痛いところ。自分で指して」


 指を置く場所は迷わなかった。右膝の皿の内側の、少し上だ。痛むのは、指の届かない奥だった。


 柏木の親指が同じところへ沈んだ。奥で、熱いものが跳ねた。


 息が止まった。


「合ってる」


 止まっていた息が、少しだけ抜けた。


「で、何だと思ってる」


「……腱です。使いすぎの」


 柏木は、それには答えなかった。


 抜けたばかりの息を、走は吸い直せなかった。


「場所は合ってる」


 撮ってきて。左もね、と柏木は言った。


 ベルトと鍵を籠に入れて台に寝た。脚のほうから筒に入って、顔は外に残った。動かないように言われて、走は部屋の天井を見ていた。機械は金物を叩くような音で長いあいだ鳴っていた。


 そのあいだに走は頭の中で候補を並べた。腱。軟骨。皿の裏。一つずつ、消していった。最後に残ったものの名前は、頭の中でも言わなかった。


 台から降りるとき、走は左の足から床に着いた。


 診察室に戻ると画面に左右の膝が並んでいた。後ろで丸椅子の脚が床を擦った。


 柏木のペンの先が右の一か所に円を描いた。


「大腿骨の、いちばん下。まだ固まりきってない端のところ」


 左の同じところは灰色のままだった。右だけが、骨の端に沿って霧のように白く滲んでいる。


「中身が違う。腱じゃない。骨の中が腫れてる」


 走は自分の膝を見下ろした。外からは、何も変わって見えなかった。


「骨はね、使ったぶんだけ中で作り直されてる。車を通したまま道路を直すようなもの。通る車が多すぎると、直すほうが追いつかない。追いつかないところが、中で腫れる」


 知っている話だった。


「いつからですか」


「撮ったのは今日。今日の中身しか言えない」


 ペンの先が一度左へ移って、また右の端へ戻った。


「十八にしては、まだ端が固まりきってないほうね」


 走はうなずいた。


「六週間」


 ペンの先は、円を描いた端のところから動いていない。壁の時計の音が一つ聞こえた。


 はい、と走が言いかけたところで、柏木が続けた。


「走らない。跳ばない。切り返さない。十月の頭まで。そこから先は、診てから決める。歩くのは痛くない範囲で。自転車もしばらくやめて」


 後ろでトレーナーのペンが紙の上を動く音がした。


 走は十月の頭までの週を並べ、三月まではまだ時間があるのを確かめ、確かめたときにはもう六週間を三つに割っていた。熱が引くまでの二週。荷重を戻す二週。残りの二週を、どこまで縮められるか。


 机の縁で人差し指が小さく動いていた。


「あなた、いま何を数えてる」


 走は指を止めて机のノートを引き寄せた。白い頁に三行だけ書いて柏木のほうへ向けた。


「三週半で戻せます」


 柏木は先を待った。


「最初の二週で熱を引かせます。そのあいだ膝は使わずに、股関節と足首から戻します。心肺は水の中で落としません。三週目から段階を踏んで荷重を戻します」


「段階は」


「歩く。軽く走る。向きを変える。一段ごとに次の朝の一歩目を見ます。残ったら一段戻します。朝の数字は毎日トレーナーさんに出します」


 柏木は三行を最後まで読んだ。


「よく書けてる。水の中も、股関節も、いい」


 柏木は頁を走のほうへ向け直した。


「これが、よその子の数字だったら。あなた、なんて言う」


 後ろの丸椅子を、走は振り返りかけて、やめた。


「……休ませます」


「でしょうね」


 柏木はノートを閉じて走の膝の上に返した。


「六週間」


 走は、そのノートを両手で持っていた。


「……走りたいんです」


「知ってる」


 画面から、膝が消えた。


「みんな言う」


 走も、言ったことがある。


   *


 会計の番号が呼ばれるまで、走は待合の長椅子にいた。トレーナーは窓口で次の予約の紙を受け取っている。


 斜め向かいで男の子がスマホを見ていた。胸に中学の名前が入った練習着に短パンのままだ。隣の母親が、膝はどうなのと小声で聞いた。


「平気」


 座ったまま右の踵を床から浮かせている。膝の下の、脛の骨の出っぱりが、左より大きい。湿布の跡が四角く残っていた。


 走の眼が勝手に働いた。押せば痛む。走ればもっと痛む。練習はたぶん休んでいない。


 言えば、当たる。


 走は目を逸らした。


   *


 帰りの車でトレーナーは一度だけ口を開いた。信号で止まったときだった。


「明日の朝も、聞く。六週間、毎朝だ」


「はい」


 信号の向こうを自転車の高校生が立ち漕ぎで渡っていった。


 運転席の横に紙挟みが立ててあった。いちばん上の紙に、トレーナーの字で六週間とある。


 海には今夜のうちに言う。走はそれだけ決めた。


 寮の部屋に戻ると、窓の外からグラウンドの笛が聞こえた。


 走は机でノートを開いた。今日の欄に六週間と書く。横に小さく、十月の頭、と足した。


 その下に内訳を並べていく。


 骨の中の熱が引くまでの日数。荷重を戻す段階。可動域を保つ手順。膝に衝撃をかけずに心肺を保つ手段。水の中と、腕で漕ぐ自転車。毎朝の一歩目。食事。睡眠。体重。


 膝を使わずに積めるもの。股関節。足首。腹と背中。書き出してみると、やれることは思ったより多かった。


 書く手が、少し速くなった。


 戻ったときには、前より細かく切り返せる脚にしておく。


 一週目から六週目まで、欄を作った。


 五週目と六週目は、白いままだった。

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