第138話 ここからは、お前の右だ
ロッカーの床に、汗が落ちて点を作っていた。
走は水を一口だけ含んで、口の中をゆすいだ。飲み込むと、胃が冷えた。
「後半、外れは呼ばない」
海が顔を上げた。
「呼ばないのか」
「呼べば、お前が出る」走は言った。「内へ来られたら、俺が三枚目を越えてついていく。外が空いたら、俺が戻る」
「海。真ん中から動くな。何があってもだ」
「動かない」
「外も内もお前か」財前が言った。「その走り方、十五分もたんぞ」
「十五分だけだ」
「……十五分か」財前は自分のすねを叩いた。「その十五分は、俺も走るわ」
鬼塚が前に立った。
「十四番は、球の来る場所に立っとる。球で行くな。足で行け」
「運ぶってこと?」レオが言った。「おれ、球が来ないんだけど」
「運べば来る」海が言った。
「来るって言った! 聞いたからな!」
「あと、腹減った」
「食うな」財前が言った。
「監督」レオが顔を上げた。「一点負けてますけど、東は六十分で下がるんですか」
「変わっとらん」
それだけだった。鬼塚は梶のほうを見た。
梶はロッカーの端で、スパイクの紐をもう一度ほどいていた。結び直して、また引いて確かめている。
「梶。後半の頭から動いとけ」
「はい」
走は立ち上がった。脚の裏側が張っている。張っているだけだ。
「十五分で追いつく」
誰も返事をしなかった。
*
後半の笛の前に、相手の左には別の番号が立っていた。
十九番。前半のうちから、ベンチの前で左足だけを使って球を蹴り上げていた男だ。
走の右は、ベンチ側の白線になった。声が近い。
「十九! 縦だけでいい!」都築が叫んだ。「中は見るな! 縦だ!」
一本目が来た。
走は七番のつもりで構えた。仕掛けの前に、外の肩が落ちる。そこを待つ。
肩は落ちなかった。
十九番は受けた足のまま縦へ出て、走が並ぶより先に左足を振った。速い球がニアへ入ってくる。頭の高さだった。
鷲尾が両手を上げた。そこで球を掴んで、腕を下ろし、胸へ収めた。
「ナイス!」財前が叫んだ。
「そいつ、左しか使わないぞ!」都築が走に向かって叫んだ。「教えてやる! 得だろ!」
本当だった。本当で、役に立たなかった。
なら、いまから覚え直す。
二本目は、走が先に外を切った。
内は空けてある。十九番はそこを見もしない。塞いだほうへ、そのまま突っ込んでくる。肩と肩が当たって、それでも左足が振れた。走は足を伸ばして、球の下半分に当てた。
球は高く跳ねて、ゴールラインの外へ出ていった。相手のコーナーキックだ。
ニアで財前が頭に当てた。こぼれた球を海が拾って、走へ出す。走はそれを右の中盤へ預けて、また自分の場所へ戻った。
内へは来ない。それも一つだ。
三本目。
十九番に球が入る。走は届かない距離で止まって、相手の足元だけを見た。
球をまたいだ。
またいだ足が下りる。次の一歩が、左足の外側だった。球はそこで縦へ押し出されて、十九番はもう走り出している。
走は背中を追った。追いついて、腰を前へ入れる。十九番は避けて外へ流れ、そこから上げた。球は誰の頭も越えて、逆のタッチを割った。
またぐ。次は左の外。
二本目もそうだったか。思い出せない。三本目は、そうだった。
四本目で、走は早すぎた。
またぐ前に足が出た。十九番はまたがずに、そのまま縦へ持ち出す。走の出した足の外側を、球ごと抜けていく。
追った。追いついたのは、左足が振られたあとだった。
低い球が中へ入った。財前が九番の前へ身体をねじ込んで、足で外へ出す。タッチを割って、相手のスローインになる。
「東! お前が先に動いたら終わりやぞ!」
「分かってる!」
またいでからだ。またぐまでは、動かない。
次に受けたとき、十九番はまたがなかった。走が動かないのを見て、縦へも出ずに、後ろへ返した。
待てば、出さない。出すときは、またぐ。
都築が、前半と同じ場所へ流れてきた。走と海の境目だ。胸を叩いて、球を呼んでいる。
海は動かなかった。
「お、今度は来ないのか」
「来ない」
球が都築の足へ入った。走は芝三枚を越えて、内まで出た。
呼ばなかった。決めたとおりだ。
都築は振り向かなかった。背中で受けた球を、そのまま外へ流す。走がいま空けた芝を、十九番が走っている。
走は振り返って、全部の速さで戻った。並ぶ手前で、もう球は上がっていた。鷲尾が拳で前へ叩き出す。落ちたところを、財前が大きく蹴った。
「あと何回やれるんだ」
海だった。
「数えてない!」
「数えろ」
数えない、と決めた試合だった。
次から、都築は境目へ来なくなった。真ん中で手を振って、味方の位置を直させている。その真ん中には、海がいた。隣に、もう一人の中盤もいる。
ベンチから鬼塚の声が飛んだ。前半は一度も届かなかった声だ。
「足で行け!」
尾張が運びはじめた。
海が自分で持って、二歩、三歩。都築が詰めてくる。寄ってきたぶん、この男は球の来る場所に立っていられない。海は右の中盤へ渡して、中盤がまた運ぶ。
レオの足元に、球が入った。
二人ついている。それでもレオは前を向いた。向いたところで後ろから足を出された。球はレオの足に当たって、タッチを割った。
「触った! おれ、いま前向いたぞ!」
「見えてた!」
尾張が右から攻めるとき、外を回るのは右の中盤になった。走は続かなかった。
一本ぶんだけ、脚を残しておきたかった。
それでも一度、走は外へ張った。球は来なかった。来なくてよかった、と思った自分に気づいて、走は舌打ちをした。
相手は、走の側だけではなかった。中央で一度つないで、尾張の左へ。外から入ったクロスへ九番が飛び込む。額を先に出したのは、尾張のもう一人のセンターバックだった。跳ね返った球は、タッチラインの外へ出ていった。相手のスローインだ。
走は自分の場所へ戻りはじめた。白線の外を、誰かが同じ向きに走っていた。
梶だった。白線を挟んで、二つの足音が並んだ。目は合わなかった。
「東さん! 十九番、内へは一本も入ってません!」
眞鍋の声が、ベンチから届いた。
「知ってる!」
走は怒鳴り返した。返した声のほうが、息を使った。
球が切れているあいだに、梶がビブスを脱いだ。
第四の審判の横に立つ。
次に球が切れたら、終わりだ。
*
十九番へ、また球が出た。
走は距離を詰めた。息が浅い。脚はとっくに重い。それでも、これが最後なら、あとへ残すものがない。
十九番がまたいだ。
走は縦を切らなかった。左足の外側が来る場所へ、半歩だけ踏み込む。
左足の外側が、球を縦へ押し出した。
その球へ、走は足の裏をかぶせた。
球が止まった。十九番だけが、二歩、縦へ行った。
「行け!」
財前の声だった。
走は運んだ。白線沿いから、斜めに内へ。
相手は、さっきまで攻めていた。走の脇を、戻る背中が二つ通りすぎた。
一度、球が足から離れかけた。追いついて、爪先で押し戻す。
中央の線を越える。脚が上がらない。上げなくても、球は前へ行った。腕を振って、足をあとからついてこさせた。
尾張の右の中盤が、走を追い越して外へ出た。相手の左サイドバックが、そちらへ引かれていく。
前が空いた。
後ろの十九番は、走が球を止めた場所から動いていない。
真ん中から、都築が出てきた。
走を止められるのは、この男しかいない。都築は真ん中を捨てて、走へ寄せてくる。
寄せきる前に、走は横へ出した。
真ん中に、海がいた。
海は一つ持ち出した。エリアの外だ。前に二人いる。そのあいだを、止まらずに振り抜いた。
低い球が飛ぶ。キーパーが手を出した。正面では止められずに、身体の脇へ弾いた。
レオについていた二人は、海の足を目で追っていた。
レオだけが、キーパーを見ていた。
弾かれた球の行く先に、もう走っている。
押し込んだ。
一対一。
走は追いかけようとして、五歩で止まった。腿に手をついて、顔を上げる。ネットがまだ揺れていた。
嬉しい。
声を出そうとしたら、息しか出なかった。
レオがゴールの中から球を拾い上げて、抱えたまま走ってきた。
「暇じゃなくなった! 東! もう暇じゃないから!」
走の横を、止まらずに通りすぎていく。
海が中央へ戻る途中で、都築の横を通った。
「真ん中、留守だったぞ」
都築が足を止めた。止めて、笑い出した。
「覚えてたのかよ、それ」
都築は自分の味方へ振り返って、両手を上げた。
「今の、俺のせいだ! 次は出ない!」
*
第四の審判が、板を上げた。緑の数字が二つ、並んでいる。
気づいたのは財前が先で、走の肩を叩いた。
「東。番号出とるぞ」
「まだ走れる」
声に出ていた。
「その息でか」
走は自分の息を聞いた。ひゅう、と鳴っている。笑ってしまった。
「追いついたのに、下りるんか」
「悔しい」走は言った。「でも、嬉しい」
「ややこしい男やな」財前は走の背中を押した。「行け。上で泣いとけ」
白線まで、走らずに歩いた。向こう側で、梶が入るのを待っている。
走が白線を越えて、梶が入れ替わりに入ってくる。すれ違うところで、走は梶の腕をつかんだ。
「十九番は切り返さない」走は言った。「またいだら、次は左の外で縦だ。そこへ先に足を出せ」
「またいだら、左の外」
「内へ来られても、海を呼ぶな。海は真ん中から動かさない」
「……呼ばないんすか」
「呼ばなくても財前が来る」
「……財前さん、怒りますかね」
「怒る」
「っすよね」
審判が手を回した。
走は梶の腕を、もう一度つかみ直した。
「ここからは、お前の右だ」
梶が、走の手を見た。
「東さん。痛いっす」
走は指を開いた。
「……預かります」
梶が走っていく。走はその背中を、白線の外から見ていた。
都築が、白線のほうを見ていた。走と梶を順に見て、それから口を開けた。
「……そういうことかよ」
スタンドが鳴っていた。自分の番号なのか、梶の番号なのかは、聞き分けられなかった。
鬼塚がベンチの前まで出てきていた。
「全部使ったか」
「……まだ残ってます」
「残っとるなら、声に使え」
走は返事をしなかった。喉が、声の形にならなかった。
*
走は腰を下ろした。座ったとたん、汗が一気に噴き出した。脚が勝手に震えて、止まらなかった。
水を飲んだ。二口では足りなくて、三口目で咳き込んだ。
ベンチから見るピッチは、音が違った。芝を掻く音も、味方の息も、ここまでは来ない。かわりにスタンドの声が、頭の上から降ってくる。
トレーナーが隣へ来て、氷の袋を渡した。下がった選手は冷やす。それだけの決まりだ。
「変わったか」
「……途中で、一度も思い出しませんでした」
「そうか。それも、書いといてくれ」
「はい」
「走ったあとと、朝とは違う。明日の朝、また聞く」
眞鍋が隣に座った。
「十九番のまたぎ、七回でした。七回とも縦です」
「梶には」
「入っていくときに言いました。東さんにも言われた、と」
「なら、二回聞いたな」
「二回目は、はい、しか言ってませんでした」
スタンドの上の段で、男が一人、手帳を閉じた。立ち上がって、通路を上がっていく。
試合は、まだ三十分ある。
右の白線の内側で、梶がその場の芝を二度踏んでいた。
再開の笛が鳴った。
相手のキックオフだった。都築が球を後ろへ下げて、両手を叩く。
「右、替わったぞ!」
都築の声が、ピッチの端から端まで届いた。
球が、尾張の右へ出る。十九番が受けて、白線に張りついた。
梶が向き合う。
走はベンチで立ち上がっていた。




