第137話 右は、二人で一試合だ
準決勝の翌朝も、一歩目は痛かった。
洗面所まで歩いても、消えなかった。顔を洗って、廊下を戻って、食堂へ向かう。入口まで来たところで、走はやっと、薄れているのに気づいた。
昨日までは、洗面所で終わっていた。
走は食堂へ入らずに、部屋へ戻った。ノートを開いて、朝の一歩目の行に書く。あり。長い。それからトレーナーの部屋へ行った。
「今朝は」
一歩目が痛かったです。そこまでは、昨日と同じ答えだ。その先を言えば、決勝に出られなくなるかもしれない。
怖かった。
変わったら言う、と約束している。
「一歩目が痛かったです。薄れるまでが、昨日までより長かったです。洗面所では消えませんでした。食堂に着くころまで、残ってました」
トレーナーの指は、前と同じ順に動いた。押して痛む場所は同じだった。曲げても、伸ばしても、同じだった。
出られますか、と聞きたかった。聞かなかった。この人が決めることではない。
「触ったかぎりでは、変わらない。変わったのは、朝の長さだ。両方、そのまま監督に言う」
「はい」
二人で鬼塚の部屋へ行った。机には、磁石の板が出ていた。右の後ろの端にだけ、磁石が二つ重ねてある。
トレーナーは言ったとおり、両方をそのまま伝えた。
「出せるか」
「出せない、と言う材料は持っていません。最後まで出していい、と言う材料も持っていません」
鬼塚は廊下へ顔を出して、梶を呼んだ。梶は走ってきて、戸口で止まった。
「先発で行く」鬼塚は走に言った。「六十分で梶に替える。手を挙げんでも替える」
「最後までやりたいです」
「聞いた。六十分だ」
悔しかった。
「……理由を、聞いてもいいですか」
「朝が長くなった、とお前が言った。それが一つだ」
言わなければ、最後まで出られた。
「向こうは左を途中で替えてくる。こっちも右を二人で使う。それが二つだ」
二つ目には、言い返せなかった。前半かけて止めた相手が、後半、新しい脚に替わっていた日がある。走はあれで一度、負けている。
「梶。昨日言ったとおりだ。残りは、お前のだ」
「……はい」
梶の口が、昨日から結んでいたぶんまで一度にほどけた。ほどけてから走を見て、慌てて結び直そうとしている。
「嬉しいなら、嬉しい顔をしろ。俺は悔しい顔をする」
「……嬉しいっす。東さんが下がるのは嫌っすけど、嬉しいっす」
「六十分は、全部使っていいですか」走は鬼塚に聞いた。
「全部使え」
*
六十分のことは、昼の前に鬼塚が全員へ伝えた。二言で終わる話し方だった。
昼の食堂で、眞鍋が走の向かいに座った。昨日、もう一つの準決勝を、梶と二人でスタンドに残って見てきたという。
「監督に言われたんす。向こうの左を見とけって」梶が言った。
「左のウイングは、後半の頭に替わりました」眞鍋が言った。「準々決勝の映像でも同じです。前半は七番。最初から全部の力で来ます。後半は十九番で、左利きです。私が見たのは、その二試合ぶんだけです」
「ほかには」
「十四番が喋ります。ずっとです。味方にも、相手にも、審判にも」眞鍋は真顔だった。「それと、点を取っている選手には、二人つけていました」
「おれじゃん!」レオが言った。
「お前や」財前が言った。「東は六十分で上がりやぞ。それまでに取れ」
「取る! 東、六十分で何点いる?」
「取れるだけ」
*
夜、明かりを落としてから、壁際の布団で梶の声がした。
「東さん、悔しくないんすか」
「悔しい。最後までやりたい」
「……すよね」
「向こうは、左を二人でやってくる。こっちも右を二人でやる」走は天井に向かって言った。「右は、二人で一試合だ」
「俺、三十分、走り切れますかね。この大会、最初の出番が決勝なんすよ」
「縦は使え。行く前に、海と財前に言え」
「知ってます」
「なら、あとは走るだけだ」
「簡単に言うっすね」
「簡単じゃない。だから二人でやる」
「抜かれたら、どうしたらいいんすか」
「財前が後ろに立ってる。そのために決めた形だ」
「財前さん、怒ると怖いんすよ」
「怒られろ」
反対側の布団で、海が寝返りを打った。
「俺は一試合、一人だ。早く寝ろ」
*
決勝の日、整列した二つの列がすれ違っていく。腕章を巻いた相手の十四番だけが、そのあいだずっと喋っていた。
「都築です、よろしく。都築です。お、七点の人だ。今日は二人つけるから、ごめんな」
「やだ!」レオが言った。
「選挙か、あいつ」
財前の声は、本人にも聞こえたはずだった。都築は笑って、財前の手も両手で握っていった。
前半、走の右はベンチと反対側の白線だった。二つのベンチは、ピッチの向こうに小さく見える。ここまでは、どちらの声も届いてこない。
最初の球は、相手の左へ出た。
七番は、受ける前からもう走っていた。止めた足で、そのまま縦へ出てくる。様子を見る一本ではない。最初から、全部の速さだった。
走は足を出さなかった。並ぶ。肩を当てる。白線のほうへ、少しずつ押していく。奪いに行って外されれば、裏が空く。それに、前半で下がる脚だ。削っても、後半へは持ち越せない。
七番が無理に上げた球は、走の腿に当たってタッチを割った。
止めた。決勝の、最初の一本だ。走は息を吐くより先に、次の場所へ動いていた。
「審判、今の肩は? ……なし? 了解です!」
都築の声だった。断られても、笑っていた。
相手のスローインから、また七番だった。切り返す。もう一度切り返す。そのたびに、七番の息が聞こえた。どこにも手を抜いていない息だった。切り返す前に、外の肩が落ちる。走は二度とも足を出さずについていった。七番は球を斜め前へ大きく蹴り出して、自分で追う。走も追った。先に身体を入れて、球には触らずに、エリアの中の鷲尾まで流す。
鷲尾が球を拾っても、七番は肩で息をしながら、もう次の場所へ歩いていた。
「いいよ、もう一本!」都築が手を叩いた。「抜けなくていい!」
七番は何度でも来た。止まらされる。切り返させられる。裏へ走られて、全力で戻らされる。
向こうは、走を走らせに来ている。
いつもなら、ここで数える。残りの時間と、残りの脚。どの一本に行って、どの一本を見送るか。
今日は、数えなくていい。数えずに走るのがいつ以来か、走には思い出せなかった。
六十分で終わる。終わると決まっているなら、六十分ぶんを全部ここへ置いていける。
来い、と走は思った。何本でも来い。
相手の左サイドバックが、後ろで球を持った。走は前へ出て、追った。普段なら行かない距離だ。慌てて蹴られた球は、誰にも渡らずにタッチを割った。尾張のスローインになる。
「東! 行きすぎや!」後ろで財前が怒鳴った。
「戻る!」
戻った。戻りながら、走は笑っていた。
「あとで泣くなよ」
「あとは梶だ」
スローインは、尾張の右の中盤が拾って入れた。受けたのは海だ。
「海、外を回るぞ!」
走は声をかけて、戻ってきたばかりの右の外を、また駆け上がった。海がレオへ縦を蹴る。レオの前に一人、後ろに一人。その手前に、都築がもう立っていた。足に当てて、すぐ左へ出す。走が上がったあとの芝だ。七番が走り出している。
走は引き返した。上がったときと同じ速さで戻って、七番が球に追いつくのと同時に横へ並んだ。七番は縦をあきらめて、球を後ろへ戻した。
同じだ、と走は思った。向こうは前半で、こっちは六十分で、全部使う。
息が上がっている。上がっているのが、気持ちよかった。脚が軽いのとは違う。惜しまなくていいのが、こんなに楽しい。
「尾張の右は固いって聞いてたけど、飛ばしもするのか」都築が言った。「後半もたないぞ。うちの左は二人がかりだ」
「もたせなくていい」
「は?」
*
尾張の球は、前へ入らなかった。
海が縦を狙うたびに、蹴る先に都築がいる。奪われた球は、すぐ左へ出てくる。
「いい球なんだけどな」都築は海にも話しかけた。「いい球は、来る場所が分かるんだよ」
レオは二人のあいだで、空に向かって怒っていた。
「おれ、まだ三回しか触ってない!」
「数えてるのか!」走は叫び返した。
「暇なんだよ!」
一度だけ、形になった。
財前が跳ね返した球が、右のタッチへ流れていく。いつもなら見送る球だった。走は追いかけた。白線の上で足を伸ばして、内へ残す。
拾った海は、縦へ蹴らなかった。自分で運ぶ。都築が寄せてくる。肩がぶつかって、芝に転がったのは都築のほうだった。笛は鳴らない。
「今のはうまい!」転がったまま、都築が言った。「次はやらせないけどな!」
海は左へ振った。尾張の左サイドバックが深くまで運んで、高い球を上げる。
レオが二人に挟まれたまま跳んだ。額には当てた。球は枠の上を越えていった。
「重い! 二人とも重い!」
「当たった! 次は入る!」
「次っていつ! 球が来ないんだよ!」
七番が、縦をやめて内へ入ってきた。
走は芝三枚ぶんついていって、声を出した。
「外れ!」
海が正面に入る。七番の足が止まった。外へ戻ろうとした肩の先には、走が立っている。球は後ろへ戻された。
「へえ」
都築だった。海に向かって言っていた。
「線、引いてんのか」
海は答えなかった。見られた。走は、背中が少し冷えるのを感じた。
次から、都築の立つ場所が変わった。中央を離れて、走の側へ流れてくる。三枚目の端のあたりだ。そこで自分の胸を叩いて、球を呼ぶ。
一度、そこへ球が入った。海が背中から寄せる。都築は前を向かなかった。止めずに、外の七番へはたく。七番がそのまま走に向かってくる。走は並んで白線へ押し出し、足から離れた球をタッチの外へ蹴り出した。
七番が内へ入るたびに、海は二人を見なければならなくなった。七番の前に立てば、都築が背中で受ける。都築を見れば、七番の前が空く。
二度目の「外れ」でも、海は七番を止めた。止めたが、立っている場所が、さっきより芝一枚ぶん右だった。
「海、寄りすぎだ」
「分かってる。十四番がそこにいる」
分かっていて、解けなかった。歯がゆかった。もう一人の中盤を呼べば、今度は左が空く。向こうは、そっちからも来ている。
七番は外でも来つづけた。縦を見せる。外の肩が落ちた。走は切り返す先へ、先に足を置いた。球のほうから、その足へ入ってきた。走は球を、右の中盤へ預けた。
ピッチの向こうで、相手のベンチの前に一人出てきていた。片足だけで、球を軽く蹴り上げている。
十九番だろう。走は驚かなかった。
尾張のベンチでは、眞鍋が立っていた。その隣で、梶はまだ座っている。座ったまま、身を乗り出していた。
走の六十分は、減っていく。脚は惜しくない。時間だけが、惜しかった。
*
相手の球が、尾張の左から右へ速く振られた。
「中、中!」
都築の声で、球を受けた七番がまた内へ入ってきた。前半の残りは、もういくらもなかった。
芝三枚。
「外れ!」
海が出て、七番の正面に立つ。
声を出してから、走は気づいた。境目に、都築がいない。
七番は外へ戻らなかった。球を止めて、横へ落とす。海がたったいま空けた芝だった。都築はそこにいた。海と入れ替わるように、真ん中へ戻っている。
尾張のもう一人の中盤は、さっきまで球のあった左に、まだ寄っていた。戻る一歩が遅れた。財前は前へ出かけて、半歩で止まった。出れば、九番が裏で空く。
走は外に立っていた。七番が戻ってくるはずの、決めたとおりの場所だった。そこからでは、何も届かない。
都築は一つ触って、球を置いた。
振った。
エリアの外からの、低くて速い球だった。財前の伸ばした足の先を抜ける。鷲尾が横へ身体を伸ばしきった。指の先が触った。
それでも球は、遠いほうのポストの内側へ入った。
〇対一。
「くそっ!」
走の右は、一本も破られていない。それでも点は入った。
「一点だよ! 取り返すから!」レオが叫んでいた。
都築は両手を広げて走っていって、味方に次々と飛びつかれていた。戻ってくる途中で、海の横で足をゆるめた。
「真ん中、留守だったぞ」
海は言い返さなかった。走のところからでも、海が奥歯を噛んでいるのが分かった。
前半の終わりの笛は、そのすぐあとだった。
ベンチは、ピッチの向こうにある。そこまで歩くあいだに、海が横へ並んだ。
「俺が釣られた」
「呼んだのは俺だ」走の声も、息で切れていた。「後半、真ん中にいてくれ」
「右は」
「十五分なら、一人でやれる」




