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『親に夢を諦めさせられて医者になった俺、転生して今度こそ本気でサッカーをやる』  ~最新スポーツ医学で"90分落ちない身体"を設計し、世界一のサイドバックになる~  作者: 猫の飼い主
第七章 右は、二人で一試合

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136/140

第136話 届いた足で、勝つ

 準々決勝の翌朝、走は体を動かす前に、トレーナーの部屋の戸を叩いた。


「今朝は」


「一歩目が痛かったです。洗面所まで歩くうちに、薄れました」


 トレーナーは走を座らせて、昨日と同じ順に指を置いた。押す。曲げる。伸ばす。


 前の晩、走はノートをめくっていた。痛い朝を、数えるつもりだった。どの日にも同じ一行がある。右膝、いつもの疲労。朝のことは、どこにも書いていなかった。


「合宿で二日。こっちへ来てから、今朝を入れて四日。覚えているぶんだけです」


「増えたとも減ったとも、これじゃ言えない。今日から書いてくれ。朝の一歩目、あったか、なかったか。それだけでいい」


「書きます」


「触ったかぎりでは、昨日と同じだ。悪くなってはいない。良くなったとも言わない」


「はい」


 トレーナーはその足で、走を鬼塚のところへ連れていった。


 鬼塚は食堂の隅で、今日の予定の紙を見ていた。昨日のうちに聞いた、と先に言った。トレーナーが今朝のぶんを伝える。走が言ったとおりの言葉で、足しも引きもしなかった。


「出たいんだな」


「出たいです」


 出さない、と言われるのが怖かった。走は腿の上で、指を握っていた。


「出す。お前の右で、ここまで来とる」


 嬉しかった。


「笑うのは、条件を聞いてからにしろ。試合中でも、変わったら手を挙げろ。挙げたら替える。理由は後で聞く」


「はい」


「挙げられるか」


「……挙げます」


「梶は準備させる。代わりがおるから出すんじゃない。おるから、手を挙げられるんだ」


「はい」


 部屋へ戻ると、海が顔だけこちらへ向けた。梶の布団は、もう空だった。


「出る」走は言った。「条件付きだ。変わったら、手を挙げる」


「挙げろよ」


「挙げる」


 走はノートを開いて、今日の欄のいちばん上に一行足した。


 朝の一歩目。あり。


   *


 その日は一日、回復にあてられた。夜になって、廊下で眞鍋に呼び止められた。


「左の十番、止まります」


「映像で見た。足の裏で踏んでたな」


「踏んでます。二試合で十七回です。それと、後ろです」


「後ろ?」


「止まったあいだに、後ろから左のサイドバックが外を回ってました」


「明日もやるか」


「分かりません。私が見たのは二試合だけです」


「止まるやつとは、やったことがないな」


「楽しそうですね」


「楽しみだ」


   *


 準決勝の最初の攻めは、相手の左から来た。


 白線際で十番が受ける。受けて、足の裏を球に載せた。


 止まった。


 本当に止まっていた。体重は両足のあいだにあって、肩も腰もどちらへも傾いていない。走も止まった。飛び込めば、逆へ出られる。


 嫌な間だった。嫌なのに、走は少し笑いそうになった。


 外側の足に、体重が乗った。


 内だ。


 十番が内へ持ち出す。走はついていった。芝一枚。二枚。三枚目の端で、足を止めた。ここから内は、海だ。


「外れ!」


 海が半歩出て、十番の前に立つ。十番は外へ戻った。戻った先には、走がいる。


 十番は顔色を変えずに、球を後ろへ下げた。


「久しぶりに聞いたわ、その声」後ろで財前が言った。


「今日は使うぞ」


「嬉しそうに言うな」


 二本目も、十番は止まった。


 走も止まって、足だけを見た。今度は内側の足に乗った。縦だ。


 止まった姿勢から、一歩で出てくる。速くはないのに、出る瞬間が分からないぶん、半歩は先に行かれた。走は肩を並べて、白線とのあいだに十番を挟んだまま押していった。


 十番は肩を当てられたまま、左足を振った。球は誰にも触れずに、ゴールの裏へ切れていった。


 ゴールキックだ。


 待てば出る、と走は思った。


 十番は後ろを振り返って、手のひらを上に向けてあおった。


「それでいい!」


 相手の誰かの声だった。止めたのはこっちだ。何がいいのか、走には分からなかった。


   *


 三本目、十番は白線から少し離れて止まった。


 走も止まった。待てば出る。


 十番は動かなかった。さっきより長い。


 背中の外側を、足音が通った。


「仁科(にしな)!」


 三番だった。白線の上を、後ろから駆け抜けていく。仁科は足の裏で、球を縦へ転がしただけだった。


 眞鍋に聞いていた形だ。聞いていたのに、走の眼は仁科の足から離れていなかった。


 振り返って追った。三番の背中が、一歩ぶん遠い。その一歩が詰まらないまま、低い球がゴール前へ入った。


 ニアへ財前が身体を投げ出した。伸ばした足に当たった球が、ゴールラインを越えて出ていく。


 コーナーキックは鷲尾が前へ出て、いちばん高いところで掴んだ。大きく蹴った球が、向こうの陣で相手に当たって、逆の白線を割った。尾張のスローインだ。


 三人はまだ、自分たちのエリアの中にいた。


「止まってるあいだに、外を回ってくる」走は言った。「止まられたら、待つのは向こうの得だ」


「おかげで俺が滑ったわ」


「悪い。次は滑らせない。右の中盤を下げてもらうか」


「下げたら、向こうの後ろが楽に持つ」海が言った。「止まったら、俺が前から行く。止まってるなら、着くまで時間がある」


「なら、俺は外を回るやつを受け取る」


「海が出たら、真ん中が空くやろ。そこは俺が一つ上がる」


「後ろは一枚になる」海が言った。


「なるわな。一枚で足りるうちに前で取れ」


 次に仁科が止まったとき、走は正面に立たなかった。


 二歩さがって、外へ開く。仁科と後ろの白線が、両方見える角度だ。前からは海が寄せていく。海の空けた真ん中へ、財前が一つ上がった。


 仁科の目が海へ動いた。足音が来る。仁科の足の裏が球から離れた。三番が走の横へ並ぶより早く、縦へ転がした。


 そこに走がいた。


 出した足の内側に、球が当たる。足元に残った。


「取った!」


 顔を上げた。三番は勢いのまま、走の後ろへ流れていく。三番のいなくなった前の芝が、広く空いていた。


 走が前へ出した球を、右の外へ流れてきたレオが受けた。内へ持ち込んで、打つ。


 飛び込んできたセンターバックの足に当たった。浮いた球は、キーパーの胸に収まった。


「入ったと思ったのに!」レオが頭を抱えた。


「空いてたぞ、そこ!」走は叫んだ。「三番が上がったら、そこにいろ!」


「いるよ! だから早くちょうだい!」


 仁科は戻りながら六番を呼んで、短く何か言った。顔色は、やはり変わっていなかった。


   *


 次に球が入ったとき、仁科は足の裏を使わなかった。


 白線際に立たない。内へ入りきりもしない。走の三枚目のちょうど端で、半身になって待っている。


 六番が球を持った。蹴る前から、身体が前へ傾いている。仁科の足元へ強く当てて、そのまま走り出した。


 走が出るのか。海が出るのか。


 海と目が合った。向こうも同じ顔をしていた。


 その一拍で、仁科は一度で叩いた。球は走の裏へ転がる。六番が、走の背中と財前のあいだをもう抜けていた。


「外れ!」


 財前が一枚で横へ出る。六番が打つ。財前の腰に当たって、球は向きを変えた。鷲尾の逆だった。


 乾いた音がした。


 ポストだった。跳ね返った球を、もう一人のセンターバックがタッチの外へ蹴り出す。


 助かっただけだ。走は芝を蹴った。


「境目に立たれた。三人で引いた線だぞ」


「俺が遅れた」海が言った。「お前が行くと思った」


「俺は、お前が行くと思った」


「譲り合うな」財前が腰をさすりながら言った。「ポストに礼言うとけ」


 前半の残り、レオへの縦は二度、相手のセンターバックに前で潰された。終わりぎわには逆から来た。相手の右のウイングが内へ切れ込んで、左足で巻いてくる。


 鷲尾は跳ばなかった。球が来る場所に先に立っていて、胸の前で掴んだ。掴んだまま、片手で最終ラインを前へ押し出す。声は出さなかった。


 〇対〇のまま、笛が鳴った。


   *


 ロッカーで、走は水より先に口を開いた。


「壁をやるとき、六番のほうが先に動く。十番が受ける前に、もう走ってる」


「六番が動いたら、壁か」海が言った。


「そうだ。そのとき俺は十番に行く。六番は、最初から財前に渡す」


「最初から、て」財前がタオルの下から言った。「俺の仕事ばっかり増えとるやろ」


「増える。頼む」


「頼み方が雑や」


「頼む、財前」


「……まあええわ」


 鬼塚は三人の話を、最後まで止めなかった。


「後ろが一枚の時間は、短くしろ」


   *


 後半が始まってすぐ、同じ形が来た。


 仁科が三枚目の端に立つ。六番が球を持つ。その肩が、蹴る前に前へ傾いた。


「外れ!」


 走は仁科へ出た。背中は見なかった。六番はもう、財前のものだ。


 球が仁科の足元へ入る。仁科が一度で叩く。走の足は届かない。届かなくていい球だった。転がった先には、財前が先に入っている。六番に届く前に、財前の足に当たって止まった。


 財前が顔を上げた。


 前が空いていた。三番は上がったままだ。相手の中盤は攻めるつもりで前へ出ていて、戻る足が遅い。少し先で、海が受けられる場所に立っている。


「行け!」走は叫んだ。「後ろは俺が立つ!」


「どうなっても知らんぞ!」


 財前は球を持ったまま、前へ出ていった。


 走は一つ内へ絞って、財前のいた場所に立った。隣には、もう一人のセンターバックがいる。


 財前は寄せてきた中盤の手前まで運んで、海へ預けた。預けたあとも、足を止めなかった。


 海は右の外へ出した。三番のいない芝へ、レオが流れている。受けて、内へ持ち込む。前半に打った場所だった。相手のセンターバックが一人、今度は早めにその前へ出た。もう一人は、ニアへ走り込んだ尾張の中盤についていく。


 走は後ろから、財前の背中を見ていた。預けたら戻ってくるはずの背中が、中央の線を越えても、まだ小さくなっていく。


 どこまで行くんだ、と走は思った。


 キーパーも、前へ出たセンターバックも、レオを見ている。


 レオは足の内側で、低い球をゴール前へ戻した。球はニアの二人の後ろを抜けた。


 空いた正面へ、財前が入ってきた。見ておく理由のない男だった。


 右足で、ねじ込んだ。


 一対〇。


「財前!」


 声が裏返った。


 財前は勢いのままゴールの中まで駆け込んで、ネットを掴んで止まっていた。戻ってきたときには、まだ首をひねっていた。


「おい。俺、なんであんなとこにおったんや」


「止まらなかったからだ」


「止まり方が分からんかっただけや」


   *


 一点を失って、相手は前へ出てきた。


 三番はもう、後ろへ戻らなくなった。仁科は内へ入って、前の人数に加わった。


「立ちました!」


 眞鍋の声がベンチから飛んだ。


 走は片手を上げかけて、下ろした。ベンチには鬼塚がいる。


「聞こえた!」


 声がかすれていた。


 相手のベンチの前で、一人がビブスを脱いでいる。間もなく、球が切れたところで相手は中盤を一人下げて、前に十八番を入れた。もう一人のセンターバックが、その十八番につく。


 尾張のベンチの脇では、梶がビブスを着て腿を上げていた。目の端に、それが入った。汗が顎から落ちた。


 海が中央で相手の足元から奪って、前を向く。


「海。一本、行く」


「行け。財前は残れ」


「言われんでも、もう行かんわ」


 仁科は戻ってこなかった。十八番と並んで、中央の線の上に残っている。仁科とゴールのあいだへ、財前が位置をずらすのが見えた。


 走は右の外を上がった。一歩ごとに、脚が芝に沈むようだった。球が来た。受けて、エリアの脇まで運ぶ。低い球を中へ入れた。


 相手のセンターバックが足を出した。弾かれた球が、エリアの外へ転がっていく。


 拾ったのは六番だった。


 走は相手陣の深いところにいた。


 六番はまだ顔を上げていない。だが軸足の爪先が、尾張の右の裏を向いていた。腰が開く。その先で、仁科の身体が前へ傾いた。仁科はまだ、中央の線を越えていない。


 走は、蹴られる前に走り出した。


 長い球が、走より先に中央の線を越えていった。落ちた先で、仁科が受けた。


 止まらなかった。


 運んでいく。仁科の背番号が、まだ小さい。前にいるのは財前一人だった。もう一人のセンターバックは、十八番を捨てられない。左のサイドバックは、逆の端から絞ってくる途中だった。


 財前は飛び込まなかった。下がりながら、外を見せている。一歩ずつ、時間を稼いでいる。


 その一歩ずつを、走は詰めた。仁科の背中は追わなかった。追えば、最後まで後ろだ。自分のゴールのポストへ向かって、まっすぐ戻った。


 ベンチの前を過ぎた。梶の声がした。東さん、とだけ聞こえた。


 腿が上がらず、吸う息が喉を焼いても、歩幅だけは縮まらなかった。雪の斜面と朝の自転車で、何年もかけて作ってきた脚だ。


 背番号が、読める大きさになった。財前が、仁科の肩ごしにこちらを見た。見て、もう半歩さがった。


 待ってくれ。あと三歩でいい。


 仁科がエリアへ入った。外へ行くと見せて、財前の内へ切り返す。右足を振る形になった。


 振れば、入る距離だった。


 切り返した球は、走の戻ってきた線の上に出ていた。


 届け。


 走は横から滑り込んだ。伸ばした足の爪先に、球の硬さが当たった。


 球がゴールのほうへ弾かれる。そのあとで、振られた仁科の足が走の脚に引っかかった。仁科が前へ倒れた。


 笛は鳴らなかった。審判が両手を横へ広げている。


 転がった球は、鷲尾が前へ出て拾った。拾った腕を、そのまま振る。戻ってきていた海の足元へ、低い球が飛んだ。


 相手は前に人数をかけていた。後ろには二人しか残っていない。


 海は一度で前へ出した。


 レオが、センターバックと並んで走っている。


 走は芝に手をついて、身体を起こした。隣で仁科も起き上がっていた。何も言わずに、走が来たほうを一度だけ見た。


 遠かった。レオの背中は、指の先ほどの大きさしかない。エリアの角にかかるあたりで、キーパーが前へ出かけるのが小さく見えた。その一歩目より先に、レオの足が振られた。


 低い球が、逆のサイドネットを揺らした。


 二対〇。


 レオがこちらを指差している。何か叫んでいるが、声は届かない。走は座ったまま、後ろへ倒れた。空が見えた。息が入ってこないまま、声を出して笑った。


「寝るな。まだ終わっとらんぞ」


 財前が走の腕をつかんで、引き起こした。


「見たか、今の」


「レオのか」


「俺のだ」


「見とったわ。目の前や。遅いんや、お前」


   *


 二点差になってからは、長くなかった。


 相手は最後まで前へ出てきた。仁科が遠くから打った球を、鷲尾が胸へ落として、そのまま抱えこむ。大きく蹴った球がまだ空にあるうちに、笛が鳴った。


 走は自分のゴールを振り返った。鷲尾が手袋を外しながら、歩いてくる。


「ゼロだ」


 今日、走がこの男の声を聞いたのは、それだけだった。


「ゼロだな」


「決勝だよ、東!」


 レオの声は、センターサークルの向こうからでもよく聞こえた。


「あと、おれ今日は待たなかった!」


「見えてた!」


「あんな遠いのに?」


「網が揺れた」


 整列のあとで、仁科が走の前に来た。腿の横に、芝の色が残っている。


「最後のやつ。どこから走ってた」


「お前の味方が、蹴る前からだ」


 仁科の眉が、そこで寄った。


「……ずるいだろ、それ」


 ベンチへ戻ると、梶が待っていた。


「東さん。戻るの、ほんとに速かったっす」


「言っただろ」


 トレーナーが水を渡してきた。


「変わったか」


「変わってません」


「そうか。明日の朝も聞く」


 トレーナーはそのまま鬼塚のところへ行って、何か言った。鬼塚が梶を呼ぶ。戻ってきた梶は口を結んで、目だけが笑っていた。


「どうした」


「なんでもないっす」


   *


 会場の出口の脇に、大きなトーナメント表が立っていた。係の人が脚立に乗って、尾張の札をいちばん上の段へ掛け替えている。隣の枠は、まだ空いていた。もう一つの準決勝は、このあとだ。


「財前。点、取ったな」走は言った。


「……なんや、急に」


「今日は最初に言った」


「言えとは言うたけどな」財前は首の後ろを掻いた。「いざ最初に言われたら、どこ見てええか分からんわ」


「財前、耳赤い!」


「日焼けや。黙っとけ」財前はレオを押しのけて、走を指差した。「それより最後のあれや。俺の持ち場は二秒やぞ。何秒立たせるんや」


「届いただろ」


「……届いたな」


 係の人が脚立を降りた。札は少し揺れて、そこに収まった。


「あと一つだな」海が言った。


「あと一つだ」


 レオが空いた枠を指でつついて、早く来い、と言った。財前が「板に喋るな」と言う。走は笑って、もう一度、表を見上げた。いちばん上の段には、まだ尾張の札しか掛かっていない。

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