第136話 届いた足で、勝つ
準々決勝の翌朝、走は体を動かす前に、トレーナーの部屋の戸を叩いた。
「今朝は」
「一歩目が痛かったです。洗面所まで歩くうちに、薄れました」
トレーナーは走を座らせて、昨日と同じ順に指を置いた。押す。曲げる。伸ばす。
前の晩、走はノートをめくっていた。痛い朝を、数えるつもりだった。どの日にも同じ一行がある。右膝、いつもの疲労。朝のことは、どこにも書いていなかった。
「合宿で二日。こっちへ来てから、今朝を入れて四日。覚えているぶんだけです」
「増えたとも減ったとも、これじゃ言えない。今日から書いてくれ。朝の一歩目、あったか、なかったか。それだけでいい」
「書きます」
「触ったかぎりでは、昨日と同じだ。悪くなってはいない。良くなったとも言わない」
「はい」
トレーナーはその足で、走を鬼塚のところへ連れていった。
鬼塚は食堂の隅で、今日の予定の紙を見ていた。昨日のうちに聞いた、と先に言った。トレーナーが今朝のぶんを伝える。走が言ったとおりの言葉で、足しも引きもしなかった。
「出たいんだな」
「出たいです」
出さない、と言われるのが怖かった。走は腿の上で、指を握っていた。
「出す。お前の右で、ここまで来とる」
嬉しかった。
「笑うのは、条件を聞いてからにしろ。試合中でも、変わったら手を挙げろ。挙げたら替える。理由は後で聞く」
「はい」
「挙げられるか」
「……挙げます」
「梶は準備させる。代わりがおるから出すんじゃない。おるから、手を挙げられるんだ」
「はい」
部屋へ戻ると、海が顔だけこちらへ向けた。梶の布団は、もう空だった。
「出る」走は言った。「条件付きだ。変わったら、手を挙げる」
「挙げろよ」
「挙げる」
走はノートを開いて、今日の欄のいちばん上に一行足した。
朝の一歩目。あり。
*
その日は一日、回復にあてられた。夜になって、廊下で眞鍋に呼び止められた。
「左の十番、止まります」
「映像で見た。足の裏で踏んでたな」
「踏んでます。二試合で十七回です。それと、後ろです」
「後ろ?」
「止まったあいだに、後ろから左のサイドバックが外を回ってました」
「明日もやるか」
「分かりません。私が見たのは二試合だけです」
「止まるやつとは、やったことがないな」
「楽しそうですね」
「楽しみだ」
*
準決勝の最初の攻めは、相手の左から来た。
白線際で十番が受ける。受けて、足の裏を球に載せた。
止まった。
本当に止まっていた。体重は両足のあいだにあって、肩も腰もどちらへも傾いていない。走も止まった。飛び込めば、逆へ出られる。
嫌な間だった。嫌なのに、走は少し笑いそうになった。
外側の足に、体重が乗った。
内だ。
十番が内へ持ち出す。走はついていった。芝一枚。二枚。三枚目の端で、足を止めた。ここから内は、海だ。
「外れ!」
海が半歩出て、十番の前に立つ。十番は外へ戻った。戻った先には、走がいる。
十番は顔色を変えずに、球を後ろへ下げた。
「久しぶりに聞いたわ、その声」後ろで財前が言った。
「今日は使うぞ」
「嬉しそうに言うな」
二本目も、十番は止まった。
走も止まって、足だけを見た。今度は内側の足に乗った。縦だ。
止まった姿勢から、一歩で出てくる。速くはないのに、出る瞬間が分からないぶん、半歩は先に行かれた。走は肩を並べて、白線とのあいだに十番を挟んだまま押していった。
十番は肩を当てられたまま、左足を振った。球は誰にも触れずに、ゴールの裏へ切れていった。
ゴールキックだ。
待てば出る、と走は思った。
十番は後ろを振り返って、手のひらを上に向けてあおった。
「それでいい!」
相手の誰かの声だった。止めたのはこっちだ。何がいいのか、走には分からなかった。
*
三本目、十番は白線から少し離れて止まった。
走も止まった。待てば出る。
十番は動かなかった。さっきより長い。
背中の外側を、足音が通った。
「仁科!」
三番だった。白線の上を、後ろから駆け抜けていく。仁科は足の裏で、球を縦へ転がしただけだった。
眞鍋に聞いていた形だ。聞いていたのに、走の眼は仁科の足から離れていなかった。
振り返って追った。三番の背中が、一歩ぶん遠い。その一歩が詰まらないまま、低い球がゴール前へ入った。
ニアへ財前が身体を投げ出した。伸ばした足に当たった球が、ゴールラインを越えて出ていく。
コーナーキックは鷲尾が前へ出て、いちばん高いところで掴んだ。大きく蹴った球が、向こうの陣で相手に当たって、逆の白線を割った。尾張のスローインだ。
三人はまだ、自分たちのエリアの中にいた。
「止まってるあいだに、外を回ってくる」走は言った。「止まられたら、待つのは向こうの得だ」
「おかげで俺が滑ったわ」
「悪い。次は滑らせない。右の中盤を下げてもらうか」
「下げたら、向こうの後ろが楽に持つ」海が言った。「止まったら、俺が前から行く。止まってるなら、着くまで時間がある」
「なら、俺は外を回るやつを受け取る」
「海が出たら、真ん中が空くやろ。そこは俺が一つ上がる」
「後ろは一枚になる」海が言った。
「なるわな。一枚で足りるうちに前で取れ」
次に仁科が止まったとき、走は正面に立たなかった。
二歩さがって、外へ開く。仁科と後ろの白線が、両方見える角度だ。前からは海が寄せていく。海の空けた真ん中へ、財前が一つ上がった。
仁科の目が海へ動いた。足音が来る。仁科の足の裏が球から離れた。三番が走の横へ並ぶより早く、縦へ転がした。
そこに走がいた。
出した足の内側に、球が当たる。足元に残った。
「取った!」
顔を上げた。三番は勢いのまま、走の後ろへ流れていく。三番のいなくなった前の芝が、広く空いていた。
走が前へ出した球を、右の外へ流れてきたレオが受けた。内へ持ち込んで、打つ。
飛び込んできたセンターバックの足に当たった。浮いた球は、キーパーの胸に収まった。
「入ったと思ったのに!」レオが頭を抱えた。
「空いてたぞ、そこ!」走は叫んだ。「三番が上がったら、そこにいろ!」
「いるよ! だから早くちょうだい!」
仁科は戻りながら六番を呼んで、短く何か言った。顔色は、やはり変わっていなかった。
*
次に球が入ったとき、仁科は足の裏を使わなかった。
白線際に立たない。内へ入りきりもしない。走の三枚目のちょうど端で、半身になって待っている。
六番が球を持った。蹴る前から、身体が前へ傾いている。仁科の足元へ強く当てて、そのまま走り出した。
走が出るのか。海が出るのか。
海と目が合った。向こうも同じ顔をしていた。
その一拍で、仁科は一度で叩いた。球は走の裏へ転がる。六番が、走の背中と財前のあいだをもう抜けていた。
「外れ!」
財前が一枚で横へ出る。六番が打つ。財前の腰に当たって、球は向きを変えた。鷲尾の逆だった。
乾いた音がした。
ポストだった。跳ね返った球を、もう一人のセンターバックがタッチの外へ蹴り出す。
助かっただけだ。走は芝を蹴った。
「境目に立たれた。三人で引いた線だぞ」
「俺が遅れた」海が言った。「お前が行くと思った」
「俺は、お前が行くと思った」
「譲り合うな」財前が腰をさすりながら言った。「ポストに礼言うとけ」
前半の残り、レオへの縦は二度、相手のセンターバックに前で潰された。終わりぎわには逆から来た。相手の右のウイングが内へ切れ込んで、左足で巻いてくる。
鷲尾は跳ばなかった。球が来る場所に先に立っていて、胸の前で掴んだ。掴んだまま、片手で最終ラインを前へ押し出す。声は出さなかった。
〇対〇のまま、笛が鳴った。
*
ロッカーで、走は水より先に口を開いた。
「壁をやるとき、六番のほうが先に動く。十番が受ける前に、もう走ってる」
「六番が動いたら、壁か」海が言った。
「そうだ。そのとき俺は十番に行く。六番は、最初から財前に渡す」
「最初から、て」財前がタオルの下から言った。「俺の仕事ばっかり増えとるやろ」
「増える。頼む」
「頼み方が雑や」
「頼む、財前」
「……まあええわ」
鬼塚は三人の話を、最後まで止めなかった。
「後ろが一枚の時間は、短くしろ」
*
後半が始まってすぐ、同じ形が来た。
仁科が三枚目の端に立つ。六番が球を持つ。その肩が、蹴る前に前へ傾いた。
「外れ!」
走は仁科へ出た。背中は見なかった。六番はもう、財前のものだ。
球が仁科の足元へ入る。仁科が一度で叩く。走の足は届かない。届かなくていい球だった。転がった先には、財前が先に入っている。六番に届く前に、財前の足に当たって止まった。
財前が顔を上げた。
前が空いていた。三番は上がったままだ。相手の中盤は攻めるつもりで前へ出ていて、戻る足が遅い。少し先で、海が受けられる場所に立っている。
「行け!」走は叫んだ。「後ろは俺が立つ!」
「どうなっても知らんぞ!」
財前は球を持ったまま、前へ出ていった。
走は一つ内へ絞って、財前のいた場所に立った。隣には、もう一人のセンターバックがいる。
財前は寄せてきた中盤の手前まで運んで、海へ預けた。預けたあとも、足を止めなかった。
海は右の外へ出した。三番のいない芝へ、レオが流れている。受けて、内へ持ち込む。前半に打った場所だった。相手のセンターバックが一人、今度は早めにその前へ出た。もう一人は、ニアへ走り込んだ尾張の中盤についていく。
走は後ろから、財前の背中を見ていた。預けたら戻ってくるはずの背中が、中央の線を越えても、まだ小さくなっていく。
どこまで行くんだ、と走は思った。
キーパーも、前へ出たセンターバックも、レオを見ている。
レオは足の内側で、低い球をゴール前へ戻した。球はニアの二人の後ろを抜けた。
空いた正面へ、財前が入ってきた。見ておく理由のない男だった。
右足で、ねじ込んだ。
一対〇。
「財前!」
声が裏返った。
財前は勢いのままゴールの中まで駆け込んで、ネットを掴んで止まっていた。戻ってきたときには、まだ首をひねっていた。
「おい。俺、なんであんなとこにおったんや」
「止まらなかったからだ」
「止まり方が分からんかっただけや」
*
一点を失って、相手は前へ出てきた。
三番はもう、後ろへ戻らなくなった。仁科は内へ入って、前の人数に加わった。
「立ちました!」
眞鍋の声がベンチから飛んだ。
走は片手を上げかけて、下ろした。ベンチには鬼塚がいる。
「聞こえた!」
声がかすれていた。
相手のベンチの前で、一人がビブスを脱いでいる。間もなく、球が切れたところで相手は中盤を一人下げて、前に十八番を入れた。もう一人のセンターバックが、その十八番につく。
尾張のベンチの脇では、梶がビブスを着て腿を上げていた。目の端に、それが入った。汗が顎から落ちた。
海が中央で相手の足元から奪って、前を向く。
「海。一本、行く」
「行け。財前は残れ」
「言われんでも、もう行かんわ」
仁科は戻ってこなかった。十八番と並んで、中央の線の上に残っている。仁科とゴールのあいだへ、財前が位置をずらすのが見えた。
走は右の外を上がった。一歩ごとに、脚が芝に沈むようだった。球が来た。受けて、エリアの脇まで運ぶ。低い球を中へ入れた。
相手のセンターバックが足を出した。弾かれた球が、エリアの外へ転がっていく。
拾ったのは六番だった。
走は相手陣の深いところにいた。
六番はまだ顔を上げていない。だが軸足の爪先が、尾張の右の裏を向いていた。腰が開く。その先で、仁科の身体が前へ傾いた。仁科はまだ、中央の線を越えていない。
走は、蹴られる前に走り出した。
長い球が、走より先に中央の線を越えていった。落ちた先で、仁科が受けた。
止まらなかった。
運んでいく。仁科の背番号が、まだ小さい。前にいるのは財前一人だった。もう一人のセンターバックは、十八番を捨てられない。左のサイドバックは、逆の端から絞ってくる途中だった。
財前は飛び込まなかった。下がりながら、外を見せている。一歩ずつ、時間を稼いでいる。
その一歩ずつを、走は詰めた。仁科の背中は追わなかった。追えば、最後まで後ろだ。自分のゴールのポストへ向かって、まっすぐ戻った。
ベンチの前を過ぎた。梶の声がした。東さん、とだけ聞こえた。
腿が上がらず、吸う息が喉を焼いても、歩幅だけは縮まらなかった。雪の斜面と朝の自転車で、何年もかけて作ってきた脚だ。
背番号が、読める大きさになった。財前が、仁科の肩ごしにこちらを見た。見て、もう半歩さがった。
待ってくれ。あと三歩でいい。
仁科がエリアへ入った。外へ行くと見せて、財前の内へ切り返す。右足を振る形になった。
振れば、入る距離だった。
切り返した球は、走の戻ってきた線の上に出ていた。
届け。
走は横から滑り込んだ。伸ばした足の爪先に、球の硬さが当たった。
球がゴールのほうへ弾かれる。そのあとで、振られた仁科の足が走の脚に引っかかった。仁科が前へ倒れた。
笛は鳴らなかった。審判が両手を横へ広げている。
転がった球は、鷲尾が前へ出て拾った。拾った腕を、そのまま振る。戻ってきていた海の足元へ、低い球が飛んだ。
相手は前に人数をかけていた。後ろには二人しか残っていない。
海は一度で前へ出した。
レオが、センターバックと並んで走っている。
走は芝に手をついて、身体を起こした。隣で仁科も起き上がっていた。何も言わずに、走が来たほうを一度だけ見た。
遠かった。レオの背中は、指の先ほどの大きさしかない。エリアの角にかかるあたりで、キーパーが前へ出かけるのが小さく見えた。その一歩目より先に、レオの足が振られた。
低い球が、逆のサイドネットを揺らした。
二対〇。
レオがこちらを指差している。何か叫んでいるが、声は届かない。走は座ったまま、後ろへ倒れた。空が見えた。息が入ってこないまま、声を出して笑った。
「寝るな。まだ終わっとらんぞ」
財前が走の腕をつかんで、引き起こした。
「見たか、今の」
「レオのか」
「俺のだ」
「見とったわ。目の前や。遅いんや、お前」
*
二点差になってからは、長くなかった。
相手は最後まで前へ出てきた。仁科が遠くから打った球を、鷲尾が胸へ落として、そのまま抱えこむ。大きく蹴った球がまだ空にあるうちに、笛が鳴った。
走は自分のゴールを振り返った。鷲尾が手袋を外しながら、歩いてくる。
「ゼロだ」
今日、走がこの男の声を聞いたのは、それだけだった。
「ゼロだな」
「決勝だよ、東!」
レオの声は、センターサークルの向こうからでもよく聞こえた。
「あと、おれ今日は待たなかった!」
「見えてた!」
「あんな遠いのに?」
「網が揺れた」
整列のあとで、仁科が走の前に来た。腿の横に、芝の色が残っている。
「最後のやつ。どこから走ってた」
「お前の味方が、蹴る前からだ」
仁科の眉が、そこで寄った。
「……ずるいだろ、それ」
ベンチへ戻ると、梶が待っていた。
「東さん。戻るの、ほんとに速かったっす」
「言っただろ」
トレーナーが水を渡してきた。
「変わったか」
「変わってません」
「そうか。明日の朝も聞く」
トレーナーはそのまま鬼塚のところへ行って、何か言った。鬼塚が梶を呼ぶ。戻ってきた梶は口を結んで、目だけが笑っていた。
「どうした」
「なんでもないっす」
*
会場の出口の脇に、大きなトーナメント表が立っていた。係の人が脚立に乗って、尾張の札をいちばん上の段へ掛け替えている。隣の枠は、まだ空いていた。もう一つの準決勝は、このあとだ。
「財前。点、取ったな」走は言った。
「……なんや、急に」
「今日は最初に言った」
「言えとは言うたけどな」財前は首の後ろを掻いた。「いざ最初に言われたら、どこ見てええか分からんわ」
「財前、耳赤い!」
「日焼けや。黙っとけ」財前はレオを押しのけて、走を指差した。「それより最後のあれや。俺の持ち場は二秒やぞ。何秒立たせるんや」
「届いただろ」
「……届いたな」
係の人が脚立を降りた。札は少し揺れて、そこに収まった。
「あと一つだな」海が言った。
「あと一つだ」
レオが空いた枠を指でつついて、早く来い、と言った。財前が「板に喋るな」と言う。走は笑って、もう一度、表を見上げた。いちばん上の段には、まだ尾張の札しか掛かっていない。




