第135話 わかってる。でも、出たい
準々決勝の朝、眞鍋がタブレットを持ってきた。
「二試合ぶん、見ました」
「どうだった」
「外は持たせます」眞鍋は画面を指で止めた。「中へ入る球には、五番が最初に触っていました」
「全部か」
「私が見た範囲では、届いた球は全部です。そこから先は分かりません」
持たせてくれるなら、持てばいい。持ってからどうするかは、そこで考える。
*
笛が鳴ってから、球はよく走の足元へ来た。
相手は走に寄せてこなかった。前を向いても、誰も出てこない。走は運べるだけ運んで、顔を上げた。
レオの前に一人いる。後ろにも一人いる。
走は早めに蹴った。ゴール前へ向けて、高い球を入れた。
入った先に、五番がいた。
額で外へ弾かれた球は、尾張の誰にも触れずに相手の中盤へ落ちた。中盤はそのまま前へ蹴る。前に残っていた相手の選手が胸で受けようとしたところへ、財前が身体を入れた。球は転がって、尾張のキーパーの手に収まった。
五番が味方へ声を出していた。
「中を空けるな!」
相手のキーパーが、その背中へ名前を呼んだ。宗像、と聞こえた。
宗像は弾いたあと、走り出さなかった。歩いて元の場所へ戻って、そこで両手を広げて、味方の列の位置を直させた。
走はもう一度やってみた。同じところで持てた。同じように入れた球を、宗像がまた頭で外した。
腹が立った。
持てている。それなのに、蹴りたい場所がどこにもなかった。
外を走らせてもらっているだけだ。
*
球が外へ出て、走は海のところまで行った。
「外は誰も来ない」
「来ないな」
「入れても、五番が先に触る」
レオが走ってきた。
「おれ、早く入りすぎてる。入ったところに、もうあいつがいる」
「どうしたい」
「球が動いてから入りたい。あいつが横に動いてからだ」
「一度、逆へ振るか」走は言った。
「振っただけじゃあかん」財前が後ろから来た。「向こうも走って戻るで」
「戻る途中がある」海が言った。「戻りきる前に入れればいい」
「じゃあ、俺がここで持つ。二人寄ったら、海に戻す」
「そのあとは左だ。運んでから上げろと、伝えておく」
*
前半の半ばだった。
走は右で受けて、縦へ運んだ。さっきなら蹴っていた場所を、そのまま越えた。上げずに、もう一歩だけゴールライン側へ持ち出す。
相手の左サイドバックが、そこで前へ出てきた。
出てきた男の内側を、相手の中盤が埋めにくる。
二人になった。走は海へ戻した。
海は止めずに左へ振った。
左で受けたのは尾張の左サイドバックだった。すぐには上げなかった。内へ一つ持ち出して、相手の右サイドバックを引き出す。引き出してから、さらに一歩運んだ。
相手の中央が、そちらへ動いた。
宗像も動いた。顔が球のほうを向いて、身体ごと左へ流れていく。
走の位置からは、ゴール前がよく見えた。宗像の隣にいたもう一人のセンターバックが、ニアへ寄っていく。そのぶん、正面が空いた。
空いた場所へ、レオが後ろから入った。
低い球が来た。
ニアへ寄った選手の足の先を越えて、球はゴールの正面へ転がる。宗像が戻る。戻りきる前に、レオの左足が届いた。
一対〇。
「レオ!」
走は右の外で両手を上げた。レオが指で自分の胸を二度叩く。動いてから入った、という合図だ。
最初に走が入れた球のとき、宗像は球と正面から向き合って立っていた。いまは身体が左を向いたまま戻っていた。
最後の球に、走は触っていない。それでも、右で二人寄せた時間から、この一点は始まっていた。
*
相手が変えてきた。
宗像が声を出して、後ろの列を押し上げた。尾張が後ろで持つと、寄せてくる人数が増えた。
走は一度、前へ出せなかった。受けて、前を見て、誰の足元にも通らないので海へ戻した。海も出せずにキーパーへ返す。キーパーが蹴った球を相手が頭で落として、そこからまた押し込まれた。
奪い返したのは財前だった。相手の足元へ足を入れて、こぼれを海が拾った。
前半の終わりに、もう一度来た。
走が右で受けたところへ、相手の左ウイングが前から出てきた。さっきまで来なかった男だ。走は前を向けず、後ろへ返した。その球に、相手の中盤が足を伸ばして触る。
球が中央でこぼれた。拾った選手が振り抜く。枠の外へ逸れていって、走はそこでようやく息をついた。
持たせてもらえる時間は、終わっていた。
後半に入っても、その形が続いた。
*
走の前で、相手の左ウイングが球を受けた。
走は寄せずに待った。縦へ持ち出したところで身体を寄せて、外へ押し出す。こぼれた球に、海が先に着いた。
海は前を向いた瞬間に蹴った。短くも低くもない、長い球だった。
押し上げた相手の最終ラインの、その後ろへ。
レオは、海が足を振る前から動いていた。宗像の肩の横で足を止めて、線を越えないところで待って、蹴られた瞬間に出た。
宗像が振り返る。追いかける。届かない。
相手のキーパーが前へ出てきた。レオは打たなかった。出てくる速さを見てから、伸ばしてきた足の先へ、球を横に逃がした。
レオが先に追いついた。無人のゴールへ、押し出した。
二対〇。
走る場所にいなかった。走は自陣の右で、両手を頭の後ろに組んで笑った。
*
二点差になっても、宗像は消えなかった。
相手は外から入れる形を続けた。尾張が跳ね返す。跳ね返した球を拾って、また入れてくる。四本目のクロスに財前が足を伸ばして、球はゴールラインを越えて外へ出た。
コーナーキックだった。
宗像が上がってきた。
相手のベンチから声が飛ぶ。宗像は片手を上げて、ゴール前へ入った。
走はニアのポストに立った。
球が上がる前に、宗像は一度ニアへ出た。尾張の選手が一歩ついてくる。ついてきたのを確かめて、宗像は後ろへ下がった。誰もいない場所だった。
助走が三歩あった。その三歩ぶん、宗像のほうが高いところへ来る。額に当たった球は、走の頭の上を通ってネットへ入った。
二対一。
財前が「もう一本!」と怒鳴った。走は自分の位置へ戻りながら、宗像を見た。
宗像は喜んでいなかった。味方に手で位置を示して、もう次の話をしていた。
*
残りの時間、相手は人を前へ出してきた。
サイドバックが二人とも上がってくる。放り込みが続く。尾張が一度跳ね返して、こぼれをレオが拾った。
レオは蹴らずに、身体を入れて持った。
走は外を回って上がった。呼吸が上がっている。脚が重い。それでも外に人がいなければ、レオは一人で三人に囲まれる。
「レオ!」
レオが外へ落とした。走が受ける。
走はタッチライン沿いに、相手陣のコーナー近くまで運んだところで、二人に前を塞がれた。
無理に通せば取られる。取られたら、そのまま速く戻される。
走はそこから先へは運ばなかった。身体を入れて、球を止める。相手が足を出す。出した足の内側から、海へ返した。
海は前へ運ばなかった。足の裏に球を置いたまま、相手が来るのを待った。
笛が鳴った。
二対一。
走は両手を腰に当てて、息を吐いた。
四つまで来た。
レオが背中に飛びついてきた。
「二点。おれ、二点」
「聞こえてる」
「二点だぞ」
「三回目だ、それ」
重い。下ろしたいのに、笑いがこみ上げて力が入らなかった。
「一点目の持ち上がり!」走は尾張の左サイドバックへ声を張った。「すぐ上げなかったから、中が動いた」
相手が歩いて近づいてきた。宗像が尾張の選手と順に手を合わせている。走のところにも来た。手は硬かった。何も言わずに行った。
勝った。まだやれる。
*
水を飲んで、道具を片づけるころだった。
海が走の隣に座った。
「あのときの膝、今はどうなんだ」
「今日も、戻れてた」
「戻ったのは見てた。膝がどうなったかを聞いてる」
走はボトルを置いた。
「代表決定戦のときよりは軽い」
「どこが」
「踏み替えだ。あのときは一拍遅れてた。朝、一歩目が痛い日はある。歩いてるうちに薄れる。毎日じゃない」
「それは、いつからだ」
「合宿のころからだ」
海は前を見たままだった。
「軽くなったのは分かった。痛い日は、減ってるのか」
走は口を開いて、そのまま閉じた。
「勝った日だぞ」
「次もある。だから、今日聞いてる」
海は止めに来たわけではない。それは、走にも分かっていた。
「わかってる。わかってる。でも、出たい」
「準決勝か」
「俺も、あの試合をやりたい」
海はしばらく黙っていた。
「その話も、スタッフにしよう。軽くなったことも、痛い日があることも」
「出たいことも、か」
「全部だ」
「お前が言うのか」
「お前が言え」海は立ち上がった。「俺は横にいるだけでいい」
「ありがとう」
「歩けよ。連れていかれた顔をするな」
走は自分から先に歩いた。
*
トレーナーは器具の箱を片づけているところだった。走が来たのを見て、手を止めた。
「どうした」
「右膝です。見てもらえますか」
走はベンチに座って、脚を伸ばした。トレーナーが膝のまわりを指で押していく。
「いつからだ」
「代表決定戦のときには、もうありました」
「そのときは」
「踏み替えが一拍遅れました。走るほうは問題なかったです」
「いまは」
「朝の一歩目が痛い日があります。歩いているうちに薄れます」
「毎日か」
「毎日ではないです」
「増えてるか、減ってるか」
走は少し考えた。
「数えていません」
トレーナーは膝を曲げさせて、伸ばさせた。角度を変えて、もう一度押した。走は二度、息を止めた。
「言っていいですか」
「言え」
「準決勝に、出たいです」
「聞いた」
「いまの話とは、別の話です」
「分かってる」
前の試合の夜に見せられた画面が、一度だけ浮かんだ。九回と四回。あれは前の試合の数字だ。
トレーナーが指を離した。
「今日の内容と、痛みの出方は分かった。いまの状態は、悪いようには見えない」
「じゃあ」
「見えない、と言った」トレーナーは走の脚を下ろした。「今日ここまでやれたから大丈夫だ、という話にはしない」
「はい」
「次に動く前に、もう一度見る。朝でも、練習の前でもいい。そのときの状態で話す」
「分かりました」
「監督にも伝える。お前がいま言ったことを、そのままだ」
「はい」
「この先、痛み方が変わったら、それも教えてくれ。減ってもだ。増えてもだ。変わったこと自体をだ」
「言います」
「頼む」
海は壁のところに立って、最後まで何も言わなかった。
*
部屋へ戻ると、梶がタブレットを抱えて座っていた。
「準決勝の相手、眞鍋さんがもう集めてました」
「早いな」
「見ます?」
走は隣に座った。画面の中で、知らない色のユニフォームが動いている。
「俺も出たいっす」
「知ってる」
「知ってるだけっすか」
「速いのはお前だ」走は画面を止めた。「戻るのは俺のほうが速い」
「そこ、張り合うんすか」
「張り合う」
走はもう一度、画面を動かした。
明日の朝、見てもらう。そのあとのことは、そのときに話す。
それでも、画面の中の芝に、走はもう自分を置いていた。




