第134話 負けたくないから、頼む
一日練習を挟んで、決勝トーナメントの初戦だった。
笛が鳴って、最初の十本ほど、どちらも大きく動かなかった。
相手は中央で一度持つ。尾張の中盤が寄る。寄ったのを確かめてから外へ振る。振る先は、右のときも左のときもあった。走の側にも来たし、来ない時間もあった。
最初に手応えがあったのは、走のほうだった。
対面の左ウイングが縦を仕掛けてきた。走は内を消して、外だけを空けた。相手が入る。入った先で、走は身体を並べた。肩を合わせて、押した。押しながら、相手の三歩目が伸びきる場所を先に踏んだ。
球が相手の足から離れる。走の爪先が先に触った。
「東!」
海が呼んだ。走はそのまま内へ突いた。海が受けて、一度前を向く。相手の中盤が二人、慌てて戻った。
通じる。
走は走りながら、拳を軽く握った。
通じない場面も、すぐに来た。
海がレオへ縦を入れた。レオは相手のセンターバックを背負って、胸で落とそうとした。
落とす直前に、背中から腕が回ってきて、レオの肩を押した。胸の向きがずれる。当たった球が思ったより前へ転がって、センターバックの足が先に届いた。
レオは前を向けなかった。
「おれ、潰された!」
「見えてた」走は叫び返した。「もう一回やれ」
「やる!」
そのあと、球が行ったり来たりした。
尾張が中央でつないで、相手が奪って、また尾張が奪い返す。三度目に走の足元へ来た球は、蹴り出すしかない形で来た。走は外へ出した。
相手のスローイン。投げられた球を財前が頭で跳ね返す。跳ね返った球を相手が拾って、また同じ場所へ入れてくる。
点の入りそうな時間ではなかった。それでも走は、一本ごとに息を使っていた。取られたら取り返す。しばらく、それだけを続けた。
*
走が前へ出たのは、その少しあとだった。
海が持って、走が右の外を上がる。球は来た。受けて、顔を上げる。レオがニアへ向かって走り出している。半歩早く蹴るつもりで、走は踏み込んだ。
蹴る前に、影が入った。
相手の左サイドバックだった。走の蹴り足の前へ、一歩で入ってくる。走は当てるのをやめて、外へ持ち出した。持ち出した先も、もう狭かった。追い込まれて、後ろへ返す。
後ろへ返した球を、相手が拾った。
「久我!」
相手のベンチから声が飛んだ。走の前へ入ってきた男が、片手を上げて応えている。
久我、と走は覚えた。
*
前半の半ばだった。
相手がまた中央で持って、今度は尾張の左へ振った。外で受けたのは相手の右のウイングだ。尾張の左サイドバックが外を切りに出る。
その内側を、もう一人が走った。
相手の中盤だ。外の男の背中を通って、斜めに内へ入ってくる。
内へ走る男に、尾張の左サイドバックの顔が一度向いた。中盤が引き取る声は、まだ来なかった。
その一拍で、外の男が縦へ出た。
折り返しがゴール前を横切る。ファーで待っていた相手の八番が、足を出すだけで押し込んだ。
〇対一。
走は自陣の右で、それを最後まで見ていた。追える距離ではなかった。だが、見えてはいた。外の男が持ち出すより先に、内へ入る走者の肩が向いていた。
悔しい。声が出た。意味のない、ただの声だった。
*
球が外へ出た。走は走って、海の近くまで行った。
「海。左、二人で来てる」
「見えてた」
「外と内、どっちか一人にしないと間に合わない」
「どっちを取る」
「外は左の人に任せたい。内へ入るやつを、誰かが受け取ってくれ」
海は一度だけ左を見て、それから大きく手を上げた。左の中盤の選手が顔を上げる。海が二本指で、内側の芝を二度叩くように示した。向こうがうなずいて、半歩さがった。
財前が後ろから来た。
「俺は」
「その後ろ。外されたぶんだけ、拾ってくれ」
「聞いた」
走は息を吸った。
「海。もう一つ」
「言え」
「負けたくない。次、俺が出る。後ろ、頼む」
海は走を見た。
「一回待て」
「待つ」
「左が揃うまでだ。あそこがまた割られたら、お前が上がってても意味がない」海は言った。「揃ったら、俺が呼ぶ」
「分かった」
走は自分の位置へ戻った。戻りながら、左を見た。左の中盤が、さっきより内側に立っている。その後ろで、財前が一歩ぶん位置を下げていた。
*
相手は、同じ形をもう一度使ってきた。
中央で持って、尾張の左へ。外で受けて、内へ走者が入る。
今度は、内へ入る前にそこへ人がいた。
相手の中盤が足を止める。行き先が消えたぶん、外の男は縦へ出られない。持ったまま二歩さがって、後ろへ戻した。
戻した瞬間、財前が声を上げた。
「今や!」
尾張の左の選手が前へ出て、相手の戻した球に足を伸ばす。爪先に当たった球が中央へ跳ねて、海が拾った。
「東!」
海が呼んだ。呼びながら、もう前を向いている。
揃った。
走は走った。
*
球は右の外へ来た。
走は受けて、左足の外側で一度、置き直した。
戻せる。中央に海が入ってきている。走の目には、海までの芝が一直線に見えていた。
足を開いた。
開いたところへ、久我が一歩、内へ出た。
返す道に、先に靴が置かれている。
走は戻すのをやめた。やめた一拍で、今度は縦が狭くなった。相手の中盤が一人、外へ流れてきている。久我が内、中盤が外。二人で通路を挟まれた。
走は縦へ逃げた。逃げた球を、久我が足を伸ばして触る。跳ね返った球が走のすねに当たって、そのまま外へ出ていった。
相手のスローインだった。
走は一度、その場で止まった。
腹が立った。見えていた。見えていたのに、一歩早く塞がれた。
久我はもう振り返って、味方へ何か言っている。走に向かって笑うでも、睨むでもなかった。ただ次の場所を指していた。
相手のスローインから、そのまま速く運ばれた。中央を経由して、逆側へ。財前が下がって、最後は身体ごと当たって外へ出した。
「東!」財前が怒鳴った。「上がるなら、上がりきれ!」
「悪い」
「謝らんでええ。半端が一番あかん」
走は海のところへ行った。
「久我が、俺の戻しを見てる」
「戻す前に出てくるのか」
「足を開いた瞬間だ。開く前じゃない」
海は少し黙った。
「じゃあ、見せろ」
「見せる」
「見せて、行け。俺はそのあとに入る」
*
後半の入りに、相手がもう一度左から来た。
今度は、走の側からも仕掛けてきた。対面の左ウイングが縦を試し、走がそれを外へ押し出す。こぼれを海が拾って、また前へ運ぶ。
球が右へ渡ったのは、その二本あとだった。
走は受けた。
同じ場所だった。同じように、左足の外側で置き直した。
足を開く。
久我が内へ出た。
走は戻さなかった。
外を塞ぎに来る中盤の足が届く前に、開いた足をそのまま踏み込んで、縦へ運んだ。久我の身体は、もう内側へ傾いている。戻すために外へ切り返すぶん、一歩ぶんの遅れが出た。
走は縦へ二歩、持ち出した。
久我が外へ戻ってくる。追いつかれる。追いつかれる前に、走は顔を上げた。
久我が外へ出たぶん、内側が空いていた。空いた場所へ、後ろから走り込んでくる影がある。
「戻せ!」
海の声だった。
走は体の向きを変えずに、踵で球を内へ押した。
押した先へ、海が入ってくる。
走の位置からは、海の前に相手の足が二本見えていた。通らない、と思った。
海は止めなかった。走りながら、そのまま右足を振った。
相手のセンターバックが足を出す。届かない。
低い球が、味方と相手のあいだを抜けていく。キーパーが反応した。手が伸びる。指の先が届いたのは、球が過ぎたあとだった。
ネットが鳴った。
一対一。
「海!」
走が叫ぶと、海はこちらへ走ってきた。走も走った。海は珍しく両腕を広げていて、走はそれに突っ込んだ。
「見せた」走は言った。
「見えた」
「うるさい」財前が後ろから二人まとめて抱えた。「早う戻れ」
輪を離れて自陣へ戻る途中、走は右を見た。
久我が、相手の中盤を呼び止めていた。指を二本立てて、走の位置を指している。二人で来る、という話だ。
まだ勝っていない。
*
相手は、位置を変えてきた。
走が球を受けるより先に、久我が前へ出てくるようになった。後ろは中盤が埋める。走の足元へ入る球が、受ける前から窮屈になった。
尾張が押し込まれる時間が続いた。
右で持てない。左も、相手が外へ張り出して塞いでくる。中央で持った球が、二度続けて相手の足に当たって跳ね返った。
三度目に跳ね返った球を、相手が拾った。
速かった。中央から一気に尾張の左へ。今度は折り返しではなく、内側から走り込んだ八番が直接打ってきた。
尾張のキーパーが横へ跳んだ。指に当たった球が、ポストの外側を叩いて出ていく。
走はそこへ走っていた。走って、間に合わなかった。
キーパーが芝を叩いて、何か叫んでいる。財前が二度、手を振り下ろした。
「まだ一点や!」
走の息が上がっていた。上がっていることに、走は気づいていた。
*
尾張が勝ち越したのは、その押し込みを一度だけ跳ね返した流れからだった。
海が中央でこぼれ球を拾い、体をひねって左へ流した。尾張の左の選手が前へ運ぶ。相手が寄せてくる前に、胸の高さで速い球が中央へ入った。
レオが待っていた。
相手のセンターバックが、また背中についている。前半と同じ形だった。
だが、レオは前半と同じ受け方をしなかった。
球が出る半歩前に、レオは半歩だけ外へずれていた。背負う角度が変わって、腕の回ってくる側が身体の後ろではなく、外になった。
胸で落とす。落ちた球が、レオの足元に残った。
センターバックが、外側から足を出す。
レオは、その足の来た側とは逆へ、足の裏で球を横へ転がした。転がした先には誰もいなかった。転がしてから、身体だけを回した。
打つ場所を、自分で作った。
走のところからは、まだ隙間が見えなかった。見えないまま、レオの右足が振り抜かれた。
球はキーパーの伸ばした手の下を通って、ポスト寄りのネットに突き刺さった。
二対一。
「レオ!」
走は自陣から両手を上げた。レオが指を二本立てて、こちらへ向けている。走も二本返した。
ベンチのほうで、梶が柵を叩いていた。
*
残りの時間は、長かった。
相手は、負けたまま終わることを拒んだ。
放り込んでくる。財前が頭で跳ね返す。跳ね返した球を、相手がもう一度拾って、また入れてくる。同じことが三度続いた。三度目に、走が胸で落として外へ運ぼうとしたところを、後ろから当たられて奪われた。
奪い返しに行った。届かなかった。
そこから相手が左へ運び、尾張の左サイドバックがタッチへ出す。息を整える間があった。だが相手は急いで球を取りに行った。
久我が、走の前まで上がってきていた。
サイドバックが、そこにいる。相手は後ろを一枚減らしてでも、点を取りに来ていた。
久我が球を受ける。走は寄せなかった。
寄せたい。いま出れば、足は届く。届かなければ、後ろが一人足りなくなる。
走の脚は重かった。呼吸が喉の奥で鳴っている。汗が眉のところで溜まって、瞬きのたびに滲んだ。
走は、待った。
久我が縦へ持ち出す。走はそこで身体を寄せた。外へ、外へと押し出す。久我は無理に中へ入らず、放り込んできた。
その球を、財前が頭で跳ね返す。
「海!」
こぼれ球に、海が先に着いた。海は前へ蹴らなかった。持って、後ろへ戻して、また持った。相手の前線が二人、追いかけてきて、途中で足を止めた。
尾張の選手が、誰も急がなくなった。
走はタッチライン際で球を受けて、そこで一度だけ止めた。相手が来る。来たところで、外へ出した。
相手のスローイン。その球が入る前に、笛が鳴った。
二対一。
走は、しばらく動けなかった。
息を吐く。吐いてから、張っていたものが肩からほどけていくのが分かった。脚が笑いそうになって、走はその場で二度、足踏みをした。
勝った。
*
走はまず海のところへ行った。
「見せろって言ってくれて、助かった」
「言われたことを返しただけだ」
「返せてない。俺が言ったのは久我のことだけだ」
海は少し笑った。
「なら、俺の手柄だな」
「そうしとけ」
財前が来て、走の後頭部をはたいた。
「上がりきれ、言うたやろ」
「上がりきった」
「二回目はな」財前は言った。「一回目は半端やった」
「半端だった」
「認めるのは早いんやな、お前」
レオが後ろから走の背中に飛び乗ってきて、三人まとめて崩れかけた。
「前半のやつ、覚えてたか」走はレオに聞いた。
「覚えてる。腕が後ろから来るんだよ、あれ」
「だから外へずれたのか」
「ずれた」レオは得意そうだった。「おれ、二回目は賢い」
*
宿舎へ戻ってから、眞鍋がタブレットを持ってきた。
「今日の後半だけ、見返しました」
「なに」
「東さんが前に出てから、自分の場所に戻るまで。今日、九回ありました」眞鍋は画面を走のほうへ向けた。「第三戦の後半は、四回です」
「増えてるな」
「増えてます。ただ、回数だけです」眞鍋は言った。「相手も展開も違うので、そこから先は分かりません」
走は画面を覗き込んだ。自分が右の外へ出て、戻って、また出ている。海に呼ばれた一本も、そこにあった。
増えているのは、そのとおりだ。増えたぶんを、今日は最後まで走れている。
「仕事はできた」走は言った。
「できてました」眞鍋はうなずいた。「増えてるのも、ほんとです」
どちらも本当だ。だから今日の九回は、走にとって悪い数字ではなかった。
「次は準々決勝です」眞鍋は言った。「相手、決まってます」
「映像、集めてくれ」
「集めます」
走はタブレットを返した。
「準々決勝も、俺が右だ」
「知ってます」眞鍋は言った。「だから集めます」
第134話から、試合の描き方を変えました。これまでは一話二千五百字ほどで、点の入る場面を中心に書いていましたが、今回は五千字を超えて、その八割がピッチの上です。
自分で読み返して「サッカー小説なのに、試合が薄い」と思ったのが理由です。通らなかったパス、奪い返した守備、打ちきれなかった攻撃、いったん戻すという判断。そういうものが積み重なって次の選択が変わる、その往復を書きたかった。
ただ、長くなったぶん、読みにくくなっていないかは自分では分かりません。長いか、ちょうどいいか、この長さで続けてほしいか。よかったら教えてください。次の準決勝の書き方に、そのまま反映します。




