第132話 俺の右を使え
九時ちょうどに、笛が鳴った。
待っていた音だった。走は一度だけ息を吐いて、自分の右へ入った。
相手が最初に球を左へ流したのは、開始から間もなくだった。
十一番が受ける。走は距離を取って、内を消した。外を空けて見せると、十一番は迷わずそこへ入ってきた。
速い。
映像で見た速さと、目の前の速さは別物だった。一歩目で肩を入れられ、走は半歩さがらされた。並走に持ち込んだところで、十一番の三歩目がもう伸びている。身体を寄せて外へ押し出したが、最後は相手が自分でラインを割った。
スローインになる。走は息を整えながら、いま通った道を頭の中でもう一度たどった。
縦にしか行かない。眞鍋の見立ては、いまのところ当たっている。
走は白線から内へ、芝三枚ぶんの幅だけを自分の担当にした。そこから内は海だ。振り返って確かめると、海はもう正しい位置に立っていた。
*
二本目は、球が来る前に動いた。
相手のボランチが右足を踏み替えた。膝の向きが、外へ開く。行き先はもう決まっていた。
走は、十一番ではなく、球の落ちる場所へ走った。
十一番の一歩目と、走の三歩目が、同じ芝の上で重なった。先に着いたのは走の爪先だった。突いた球が内へ転がって、待っていた海の足元に入る。
「ナイスだ」海が短く言った。
走は拳を握った。握ってから、すぐ前を見た。
海は一度だけ持ち出して、顔を上げずに左へ振った。
右へ寄っていた相手の重心が、そのぶん逆側で足りていない。尾張の左のサイドバックが、空いた外を駆け上がる。内へ一度切り返して、低い球をニアへ送った。
レオは、ファーから入ってきていた。
相手のセンターバックの背中の後ろを、横へ、横へと動いている。球が出た瞬間だけ、前へ二歩。
ニアで走り込んだ味方が触れず、球はそのまま横切った。ゴールの正面まで出てきたレオの右足が、内側で押し出す。
ネットが揺れた。
「レオ!」
走は自陣から叫んだ。向こうで、レオが両手を高く上げているのが見えた。
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一点を取られてから、相手は勝ちにきた。
十一番はもう一度球を要求した。声が走のところまで聞こえた。だが、来た球は前と同じではなかった。走の前ではなく、十一番の足元へ。低く短く入ってくる。受けてから仕掛けさせる形だ。
走はその一本も内を消して、外へ押した。十一番の切り返しが一度、内へ入りかけて、海の足に当たって出た。
そのあとから、球の道が変わった。
左へ入れる回数が減った。中央で組み直して、逆側へ持っていく。十一番が内へ絞って、中で受けようとする。一度は、その足元へ入る前に財前が立っていた。
走の前の芝が、少しずつ静かになっていった。
静かになった芝を見て、走は自分の胸が熱くなるのを感じた。
嬉しい。嬉しいのだが、球が来ない。
*
前半が終わった。
ベンチへ戻る途中で、鬼塚が走の肩を一度だけ叩いた。
「よう閉めとる」
「はい」
それだけだった。走は水を受け取って、右のタッチラインのほうを見た。向こうのベンチで、十一番が何か言われている。指を二度、中央へ向けていた。
閉めるのは、できている。
できているのに、走はまだ一度も前へ出ていなかった。
*
後半に入って、尾張が中央で球を回収する時間が増えた。相手が左から人を抜いたぶん、こちらが押し返せば、右は空く。
走は海の近くまで走って、声を出した。
「海。次、右にくれ」
「上がるか」
「上がる。俺の右を使え」
海は一秒だけ走を見て、それから顎を引いた。
「財前」
「聞こえとる」財前がもう一列さがりながら言った。「行ってこい」
走は自分の位置へ戻った。戻る足が、少し軽かった。
*
その球は、海が縦に差し込んできた。
走は右の外を、誰にも触られずに前へ出た。相手の左サイドバックは、中央へ絞っていた。外へ戻る一歩が、遅れていた。
顔を上げる。
レオは、まだゴールから遠かった。相手のセンターバックの外側、ペナルティエリアの角のあたりにいる。走の球を待って足を止めかけた、その肩が、次の瞬間にニアへ向いた。
走る。
届かない、と思う距離だった。
走は蹴った。
置きにいかない、低く速い球。レオの足元ではなく、レオがこれから着く場所へ。ニアのポストと相手のセンターバックのあいだ、芝の上を滑らせて送り込んだ。
センターバックが伸ばした足の、爪先の先を球が抜けた。
その先に、レオがいた。
右足の甲で、コースを変えただけだった。派手な動きは一つもない。球はゴールキーパーの脇を抜けて、ネットの下のほうを押した。
二対〇。
「出したぞ!」走が叫んだ。
「届いた!」レオが叫び返した。
レオは味方の輪をすり抜けて、走のところまで走ってきた。走も走った。真ん中で手のひらを打ち合わせて、そのままレオに背中を二度叩かれた。
「出してくれって言ったの、お前だ」走は言った。
「言った!」
「もう一本、出す」
「出して!」
ベンチのほうで、誰かが大きな声を上げていた。梶だった。両手を口に当てて、何か叫んでいる。言葉は聞き取れなかったが、声の高さで分かった。
*
残りの時間、相手は中央と逆側から来た。
走の右へは、もうほとんど来なかった。代わりに海が二度潰し、財前がゴール前で一度、頭を出した。走は自分の側を閉じたまま、味方の背中を数えていた。
笛が鳴ったとき、スコアは動いていなかった。
*
引き上げる途中で、レオが走の肩に腕を回してきた。
「二点目、あと一歩早かったら届いてなかったよ」
「一歩か」
「一歩は無理」レオは指を立てた。「半歩なら」
「半歩なら届くのか」
「届く。次はそれで出して」
「出す」
海が後ろから追いついてきた。
「一点目の左、見てたか」
「見てた」走は言った。「お前が振った瞬間、向こうの中盤が二人とも右を向いてた」
「あれが一番気持ちよかった」
海がそんなことを言うのは珍しかった。財前が横から口を挟んだ。
「俺は一個も褒められとらんが」
「最後のヘディング、助かった」走は言った。
「最初に言えや」
財前が走の後頭部を軽くはたいた。走は笑って、それから振り返って芝を見た。
昨日、この芝を外から見ていた。今日は、ここで走った。守って、前へ出て、蹴った球が届いた。
次も、ここで走りたかった。




