第131話 俺たちで、取りに行く
八月に入って最初の練習の日、走がクラブハウスの扉を開けると、レオが待ち構えていた。
「東! どうだった!」
「まだ着替えてない」
「着替えながらでいいよ」
レオは本当に更衣室までついてきた。財前も来た。海は少し離れたところで靴紐を結びながら、耳だけこちらへ向けている。
「速いのは、やっぱり前の三人だ」走は言った。「最初の日の紅白戦で、対面のウイングに二本抜かれた」
「抜かれたんかい」財前が言った。
「抜かれた」
「へえ」レオが目を輝かせた。「それ、おれが行ったら点取れる?」
「取れると思う。後ろが速いから、裏は狭い。でも一回抜ければ、たぶん決まる」
「行きたい」レオはシャツを頭からかぶりながら言った。「呼ばれたい」
「呼ばれろ」
「言うだけならタダやな」財前が笑った。
「タダだ」走は言った。「言っとけ。俺も言ってる」
「いつ」
「毎日」
「気持ち悪」
海が立ち上がって、こちらへ来た。
「で、どうだった」
「楽しかった」走は言った。「リクと同じ側で四日やった。俺が後ろで、あいつが前だ。四年、右を奪い合ってきた相手が味方にいるのは、初めてだった」
「その言い方、気に食わんな」財前が言った。「ここにも知っとるやつがおるやろ」
「いる」走はうなずいた。「だから帰ってきて、すぐ練習したかった」
財前が鼻の下をこすった。海が短く笑った。
「あと、驚いたことがある」走は言った。「一本目に縦を出したら、もう一列早く出せ、と怒られた。早いと届かないと思ってたんだ」
「届いたんか」
「届いた」走は言った。「あいつが走る距離を、俺が勝手に決めてた」
レオが身を乗り出した。
「それ、おれにも出してよ」
「届くのか」
「届くって! 出してくれないと分かんないじゃん」
「……そうだな」走は言った。「出す」
「向こうは、選ばれないと行けない場所だ」走は続けた。「ここは違う。出るのはもう決まってる。取りに行くのは、優勝だ」
「取りに行こう!」レオが叫んだ。
「声でかい」海が言った。
「取りに行こう」海はそのあと、普通の声で言った。
*
その日の練習後、鬼塚に呼ばれた。
「トップの強化部が、この前の試合を見に来とった」
「はい」
「お前の名前が出た」鬼塚は腕を組んだ。「三月に、もう一度見る、だそうだ」
走は、その言葉をしばらく頭の中で転がした。
「見てもらえるんですね」
「……そう聞こえるか」
「聞こえます」
鬼塚は何か言いかけて、やめた。それから手のひらを下に向けて、二度だけ振った。
「まあ、いい。今は八月だ」
「はい」
走は礼を言って、ピッチへ戻った。三月の話より、八月の話のほうがずっと近い。
*
二年の梶直が、走のところへ来たのは、その週の水曜だった。右のサイドバック。今年からベンチに入っている。
「東さん。俺、今回、出られますか」
直球だった。走は少し笑った。
「鬼塚さんに聞け」
「聞きました。東次第って言われました」
「じゃあ、俺が怪我したら出られる」
「それは嫌っす」梶は真顔で言った。「嫌っすけど、出たいっす」
走は、その顔を見ていた。嫌だと出たいを、両方そのまま口に出す男だった。
「お前、何が得意だ」
「……縦です」梶は少し考えて言った。「上がるのは、東さんより速いと思います」
「速い」走は認めた。「戻るのは俺のほうが速い」
「知ってます」
「縦は使え」走は言った。「上がる前に、海と財前に話せ。戻る場所も、二人と合わせておけ」
「頼んでいいんすか」
「そのために決めた形だ。俺のためだけの形じゃない」
梶は口を半分開けて、それから頭を下げた。下げた勢いで、一歩下がってロッカーにぶつかっていた。
「痛そうだな」
「痛くないっす」
痛そうだった。
*
出発の前の夜、走は荷物を詰めた。
スパイク。すね当て。着替え。氷嚢の袋は、いつもの場所に入れた。ノートは表紙の裏に紙を挟んだまま、いちばん上に置いた。
合宿でもらった練習着も、一度は鞄の口まで出した。出してから、畳み直して机の引き出しに戻した。今週着るのは、こっちの色だ。
*
バスは朝の六時に出た。
レオは乗って十分で歌いはじめ、二十分で財前に黙らされ、三十分で寝た。財前もその五分後に寝て、いびきをかいた。
「録っとくか」海が真顔で言った。
「やめてやれ」
「起きてから聞かせるぶんには、本人のためになる」
「ならない」
通路を挟んだ席で、眞鍋がタブレットを膝に載せていた。
「東さん、初戦の相手、東さんの側から入ってくる回数が多いです」
「どのくらい」
「予選の三試合で、二十二。反対側は九です」
「偏ってるな」
「偏ってます」眞鍋は嬉しそうだった。「東さんの側が、主戦場になりそうです」
「理由は」
「向こうの左の子です。予選の得点、半分がそこから出てます」眞鍋はタブレットを傾けて見せた。「速いです。あと、私が見た三試合では、縦にしか行きません」
「三試合とも縦だけか」
「縦だけです。その三試合には、止めた相手もいません」
走は窓の外を見た。高速道路の防音壁が、同じ間隔で後ろへ流れていく。
主戦場、と言われて、嫌だとは思わなかった。
*
会場に着いたのは、昼前だった。
尾張の初戦は、翌朝の九時だった。
宿舎の部屋割りで、走は海と梶と同じ部屋になった。梶は荷物を下ろすなり、いちばん壁際の布団を取って、そこへ正座した。
「東さん、俺、寝相が悪いんで。端がいいっす」
「誰も取らない」
「取られたら困るんで」
どこかで聞いた台詞だった。走は少し笑って、真ん中に荷物を置いた。
それから全員でピッチを見に行った。
芝は短く刈ってあった。ラインの白が新しい。ゴール裏のネットが、風で少しだけ膨らんでいる。
レオがピッチのふちに立って、両手を広げた。
「広い!」
「同じ広さや」財前が言った。
「広いって!」
走は、その横で芝を見ていた。
七月の終わりに、走はよその芝で、よその色を着て走った。楽しかった。あの服をもう一度着たいとも思った。
それでも、明日この芝に立つとき、隣にいるのはこの三人だ。名前を呼べば返ってくる声の高さまで、走はもう知っている。
「東」海が呼んだ。「明日も、右から来るぞ」
「来る」
「なら」
「来たぶん、止める」走は言った。「止めたら、前へ出る」
「出ろ」
財前が後ろから、走の背中を一度だけ押した。
宿舎へ戻る道で、レオはまだ「広い」と言っていた。財前が「うるさい」と言った。時計は三時を回っていた。
走は笑いながら、頭の中で数えていた。笛が鳴るまで、あと十八時間。
早く鳴れ、と思った。




