第130話 この服を着て、走る
七月の最後の週だった。
集合場所は東京の西のはずれにあった。名古屋から乗り継いで、走は昼前に着いた。門を入ったところで一度足を止めて、芝を見た。誰も走っていない芝が、刈ったばかりの色をしている。
宿舎の部屋は四人部屋だった。扉を開けると、窓際のベッドに鞄が置いてあった。その隣のベッドには、畳んだタオルが一枚載っている。
窓際に、リクが座っていた。
「遅い」
「寝坊するって言ってただろ」
「起きた」リクは窓の外を見たまま言った。「仕方ないだろ」
走は笑った。笑いながら、タオルをどけて鞄を下ろした。
「これ、お前が置いたのか」
「取られるからな」
「誰も取らないだろ、こんなの」
「取られたら、俺が困る」
走は、その言い方が可笑しかった。四年かけて右サイドを奪い合ってきた男が、隣のベッドを確保して座っている。
「ありがとう」
「礼を言うな」リクが顔をしかめた。「気持ち悪い」
「言う」
「言うな」
*
昼過ぎに、一階の広間で用具が配られた。
番号の書いてある袋を受け取って、走は中を開けた。練習着が二組。ビブス。ソックス。胸のところに、同じ紋が入っている。
走は袋の口を開けたまま、しばらく動かなかった。
十九日、長いと思った。その十九日の先に、この布がある。
部屋に戻って、走は袖を通した。肩のところが、少しだけ余る。鏡はなかったので、窓に映った自分を見た。
――着ている。
それだけのことで、心臓が一度、勝手に強く鳴った。
「似合わねえ」リクが後ろから言った。
「お前もだろ」
「俺は似合う」
リクも、もう着ていた。
*
廊下の壁に紙が貼ってあった。この合宿に呼ばれた名前が、上から並んでいる。
東走。所属、尾張SCユース。
走の名は、下のほうにあった。上から順に目で降りていって、自分のところで止まる。止まったところで、走は息を吐いた。
ここに載るために、四年かかった。
上のほうには、知らない名前が並んでいる。その紙に、自分の名前が同じ大きさで載っていた。
背中を叩かれた。
「見すぎだろ」リクだった。「顔近い」
「近くないと読めない」
「読めてるだろ、もう」
*
合宿は五日あった。
二日目から、走とリクは同じ側に置かれた。走が右の後ろ、リクが右の前。四年間、いつも反対の色で向かい合っていた並びが、そのまま同じ色になっただけだった。
なっただけで、こんなに違う。
一本目は、走が縦を通した。リクが内へ寄ると見せて外へ出る、その半歩を、走はもう知っている。知っている場所へ置けばいいだけの球だった。リクは追いついて、そのままクロスを上げた。
戻ってきたリクが、走のところへ来て言った。
「今の、もう一列早く出せ」
「早いと届かない」
「届く。俺が走る距離を、お前が決めるな」
走は少し考えて、うなずいた。
「分かった。次、早くする」
次は早く出した。リクは届いた。届いて、振り向きざまに一度だけ拳を上げた。
走の側も楽になった。リクが前で相手のサイドバックを引っぱるので、走の前の芝が空く。
午後の最後のゲームで、走は三度、自分から前へ出た。三度目に上げた折り返しが、中で誰かの膝に当たって入った。
入った瞬間、リクが両手を上げて怒っていた。
「なんで俺に出さない!」
「誰が言ったんだ。俺の走る距離を決めるなって」
「それは俺の台詞だ!」
周りが笑った。走も笑った。笑いながら、芝の匂いを吸い込んだ。
*
三日目の午後、走は対面の男の脚を視ていた。
一つ上の、関東のクラブから来ている左ウイングだった。若生という。二本続けて仕掛けを途中でやめた。やめた理由が、走には見えていた。
踏み切る直前に、右脚へ体重を預けるのを避けている。避けているというより、身体が勝手に逃げていた。逃げたぶんの負担は、そのまま左へ回っている。左の足首の着き方が、一本ごとに雑になっていく。
練習が終わって、走はその男の隣で靴紐をほどいた。
「右膝、押すと熱くないですか」
若生が顔を上げた。
「……は?」
「皿のすぐ下です。朝、起きて最初の一歩がいちばん痛い。歩いているうちに、忘れる」
若生の口が、半分開いたまま止まった。それから自分の右膝に手をやって、指で皿の下を押して、短く息を吸った。
「なんで分かんの」
「動き方でわかります」
回復が追いつかないまま、同じ場所に負荷が重なっている。動きはじめの痛みが薄れても、その負担まで消えたわけではない。
「切れてはいません。三日、負荷を落としてください。そこで一度、見直せます」
「三日?」若生が笑った。「合宿、あと二日だぞ」
「だから三日です。押し切って我慢すると、休む単位が月になることがあります」
若生は走をしばらく見ていた。
「……お前、医者かよ」
「違います」走は首を振った。「今日の夜、トレーナーさんに見てもらってください。俺が言ったことは忘れていいので、右膝だけ言ってください」
「言われなくても行くわ」
若生は立ち上がって、二歩行ってから振り返った。
「東っつったな。覚えた」
*
若生はその夜、トレーナーの部屋へ行った。四日目はメニューを落とし、ボールに触らなかった。
その日の夜、走は氷嚢を作って、右膝に当てた。
冷たさが芯へ降りるまでに二分かかる。降りきると、熱は静かになった。
代表決定戦で、海に言った。八割だ、と。走るのは問題ない。踏み替えが一拍遅い。言ってしまえば、大したことではなかった。
いまは、あのときより軽い。ここでも朝の一歩目が痛い日はあったが、歩いているうちに忘れた。二日目の夜に冷やしたら、三日目は楽だった。
やれている。今日も、落とさずに全部やれた。
走はノートを開いて、今日の数字を書いた。練習量。眠った時間。翌朝へ残る疲労。
右膝、いつもの疲労。
それから、明日の欄に、いつもどおりの練習量を書いた。
*
最終日の紅白戦に、若生が入ってきた。時間を区切ってなら、とトレーナーが出したらしい。
走はその脚をもう一度見た。
若生が縦へ仕掛けてくる。踏み切る前の、あの半歩の躊躇がない。右脚に体重が乗り、乗ったまま芝を掻いて、走の脇を一枚こじ開けていった。走は追いつけなかった。
折り返しがゴール前を横切って、味方の額に当たる。ネットが揺れた。
若生が振り返って、走を指差した。
「三日いらなかったぞ!」
「三日目は明日です」
「うるさい」
若生は笑って、自分の陣地へ戻っていった。左の足首の着き方は、今日はもう雑になっていない。それでも、三日目は明日だ。
抜かれたことは、悔しかった。悔しいのと、嬉しいのが、同じ胸のところで並んでいた。
*
帰り支度をして廊下へ出ると、紙が貼り替えられていた。
見出しに、次の候補合宿へ呼ぶ、とある。本大会の代表ではない。
走の名は、残っていた。
若生の名前は、上のほうにあった。すれ違いざまに、走の肩を軽く叩いていく。
「東。次に会ったら、飯おごるからな」
「はい」
「あと」若生は立ち止まって、少し考えた。「お前、自分のことも視てんの?」
走は、答えるのが一拍遅れた。
「視てます」
「そうか」
若生は、それ以上聞かずに行った。
*
帰りの電車で、リクは三駅で寝た。
走は膝の上の鞄を開けて、中を見た。畳んだ練習着が入っている。持ち帰っていいと言われたものだ。
八月に全国がある。次の合宿は、そのあとだ。そこから先に呼ばれるかどうかは、走が決めることではない。
それでも、と走は思った。
もう一度、これを着て走りたい。
鞄の口を閉じて、走は窓の外を見た。リクが隣で、こちらの肩に頭を預けてきた。押し返そうとして、やめた。




