第129話 才能を捉える日
代表決定戦の四日後だった。
練習後、鬼塚が走を呼んで、封筒を一つ渡した。
「東。来た」
封を切ると、A4の紙が一枚。
年代別代表・候補合宿の招集通知。日程、集合場所、持ち物。いちばん上に、東走、とある。所属の欄に、尾張SCユース。
走は、それを二度読んだ。
二度読んでから、もう一度、上から読んだ。
「……名前、合ってます」
「合っとるだろう」鬼塚は呆れた声を出した。「間違えて送ってくるか」
「合ってます」
走の声が、自分でも分かるくらい上ずっていた。
「言っとくが、これは候補だ」鬼塚は続けた。「本番の代表に選ばれたわけじゃない。合宿で振るい落とされるやつのほうが多い」
「分かってます」
「分かった顔じゃないぞ」
「……分かってないかもしれないです」走は言った。「でも、いま、めちゃくちゃ嬉しいです」
鬼塚は少しのあいだ走を見て、それから手を振った。
「行ってこい。そこでも、また何か拾ってこい」
「拾ってきます」
*
部屋に戻って、走はまず紙を撮った。
それから、ベッドに座って、もう一度読んだ。
呼ばれた。
六歳の夜、布団の中で掌を開いて閉じた。あのとき遠かったものが、いま紙一枚の手ざわりで指の下にある。
走はスマホを持って、廊下へ出た。
*
海と財前は、談話室にいた。
「呼ばれた」走は言った。「今、紙を見てる」
財前が缶を取り落とした。
「おい、拾えよ」海が言った。
「東が先かい!」財前が叫んだ。「俺のほうが背ぇ高いのに!」
「関係ないだろ」
「関係あるわ!」
海が立ち上がって、走の前に来た。
「見せろ」
走が画面を向けると、海は黙って三秒見て、それから短く言った。
「おめでとう」
「……ありがとう」走は言った。「あの二回、覚えてるか」
「どの二回だ」
「春の青嵐戦。俺が持って帰った二回だ」海を見て、それから財前を見た。「あそこから全部だ。俺一人だったら、線も引けてない」
「線引いたんは、お前やぞ」財前が言った。
「引いた場所を削ったのは、二人だ」
財前が鼻の下をこすった。
「……まあな」
「照れんな」海が言った。
「照れとらん!」
走は笑った。笑いながら、目の奥が少し熱くなった。
眞鍋には、その夜のうちに伝えた。
「知ってます」眞鍋は即答した。「鬼塚さんが封筒持ってるの、見えたので」
「早いな」
「二十四です」眞鍋はタブレットを胸に抱えた。「ソラさんが行きたかった場所を、東さんたちが先に踏んだ回数。春のリーグは、二でした」
「かなりか」
「かなりです」
眞鍋はそこで一度言葉を切って、少し低い声で続けた。
「……合宿、行ってる間の映像、誰が撮るんですか」
「頼めるか」
「頼まれます」
*
母は、二回目の呼び出し音で出た。
「もしもし?」
「呼ばれた」
「え?」
「代表の候補。合宿、呼ばれた」
電話の向こうが、しばらく無音になった。
それから、母が誰かを呼ぶ声が遠くで聞こえた。お父さん、お父さんちょっと、と言っている。
「走」父の声に替わった。「本当か」
「本当」
「……そうか」
父はそれだけ言って、しばらく黙った。母が横で何か言っている。
「紙、送るね」走は言った。
「送れ」父が言った。「拡大して見る」
写真を送ったあと、電話は母に戻った。それから十分、走は同じ話を二回した。日程のことも、集合場所のことも、二回言った。二回目のとき、母は一回目と同じところで「へえ」と言った。
「あんた」切る前に、母が言った。「声、高いよ」
「高いか」
「うん。小さいときの声だ」
走は、しばらく返事ができなかった。
*
翌日の午後、通路で番場とすれ違った。
一つ上の、あの紅白戦で走に六本とも谷を踏まされた右ウイングだ。去年の春から、トップの練習に入っている。
「……呼ばれたってな」低く、ぶっきらぼうな声だった。
「はい」
「一年のとき、気に食わなかった。九十分走るだけの田舎の子が、ってな」
番場はそこで、一度足を止めた。
「今も、気に食わない。……けど、お前が上がってきたら、同じ右だ。俺の前を空けてくれるってんなら、上げてやるよ」
「空けます」走は即答した。
「即答すんな」
「空けます」
番場は舌打ちして、行った。走はその背中に、頭を下げた。
*
その夜、リクから連絡が来た。
〈おい。合宿の紙、来たか〉
〈来た〉
〈俺も来た〉
少し間があってから、もう一つ届いた。
〈今度は同じチームだな〉
走は画面を見て、指を止めた。
空き地で奪い合った右サイドに、同じ色を着て並ぶ日が来る。四年かけて、まだ一度も決着していない相手と。
〈初日、先に着いたほうが場所取っとくか〉
〈お前が取れ。俺は寝坊する〉
〈寝坊すんなよ〉
〈する〉
走は笑って、スマホを置いた。
ソラのことは、分からなかった。紙に名前があるのかどうかも、走には知りようがない。選ぶ人が決めることだ。
ただ、またやろう、とは言ってある。
*
最後に、アカネにかけた。
「呼ばれた」
「は?」
「代表の候補合宿。紙、来た」
三秒くらい、何も聞こえなかった。
それから、短い悲鳴のような声がして、何かが落ちる音がした。
「……いま、何落とした」
「ペン」アカネの声が近くなった。「すごい。すごいじゃん。ほんとに行くんだ」
「行く」
「行きなよ」
「行く」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「あのさ」先に口を開いたのは、アカネだった。「この前の、まだ言えないやつ」
「うん」
「言えるとこまで来た」
走は、姿勢を直した。
「聞く」
「栄養」アカネは言った。「管理栄養士。大学、そっちに行く」
「……栄養」
「あたし、選手は無理だった。身体が先に止まった」アカネは淡々と言った。「でも、止まる前に何ができたかは、まだ調べられる。何食べてたか、いつ寝てたか、何が足りてなかったか。……たぶん、あたしみたいなのが、ほかにもいるでしょ」
走は、何も足さなかった。
足さないことに、少し力が要った。この分野の答えを、走は前の生で山ほど持っている。持っていることを、走は言わなかった。
これは、この女が自分で見つけた道だ。
「ノート三冊、それか」走は言った。
「四冊になった」
「多いな」
「多い」
「それ、見てみたい」走は言った。「いつか、見せてくれ」
アカネが黙った。
「……いいけど」少しして、そう言った。「まだ、字が汚い」
「知ってる」
「うるさい」
電話の向こうで、アカネが笑った。
「先に行って、待ってなさいよ」
「待ってる」
*
電話を切って、走は招集の紙を、ノートの表紙の裏に挟んだ。
廊下には、もう一枚の紙が貼られている。八月の全国本大会の組み合わせだ。尾張の名が、その左の端にある。
二枚とも、これからの紙だった。
それから机の上の日程表を、もう一度だけ見た。
集合日まで、あと十九日。
持ち物の欄に、こう書いてある。支給の練習着は当日配布、と。
走はその一行を、指でなぞった。
もらった服を着て、あの芝に立つ日のことを考えた。
十九日。
長い、と思った。
――才能を捉える編、了。




