第128話 自由と支配
一対一のまま、後半は三十分を回っていた。
後半十二分の同点から二十分近く、ソラは一度も、走の前でゴールへ顔を向けられていない。
音羽が、ようやく動いた。ボードに出た番号は、中盤の一枚だった。入ってきた選手は迷わず右へ寄る。走の側へ、青嵐は人数を足してきた。ソラ一人で破れないなら、数で開ける。当たり前の手だった。
走は数え直した。相手が右へ一枚足したぶん、向こうの左は、芝が一枚ぶん薄い。
「海! 向こうの左、薄い!」
「見てる!」
最初の一本は、数で来た。
ソラが白線際で受け、入ったばかりの選手がその内側を走る。二人に一人。走は縦だけを消して、内は渡した。
「外れ!」
三音が飛ぶ。海がその選手の前へ半歩出た。ソラのパスは出所を失って、後ろへ戻る。青嵐のスタンドが、上がりかけた腰をまた下ろした。
「今の、ぴったりだ!」走が叫ぶ。
「合ってる!」
二本目は、ソラ一人で来た。
右の深い位置。走の担当だった。
戻す道は残っている。走はそこを塞がない。塞ぐのは、ゴールへ向かう二本だけだ。縦と、内へ切れ込む角度。内側には海の影が落ちていて、その角度はもう一枚薄い。
ソラの目が、その狭さを面白がった。
《観察/風間 空》
重心 ――― 視える。
次の一手 ――― ――――
確度 ――― ――――
所要 ――― 算出しない。
読めない欄は、春のままだった。
だが今日は、そこを埋めにいかない。
ソラが、動いた。
右足のアウトでボールを外へ流し、上体だけ内へ倒す。誰にも読めない一手だった。
走は読まなかった。先に取った角度を、動かさなかっただけだ。
ボールがソラの足を離れる。芝の上を、半歩ぶん転がる。
その半歩に、走の左足が入った。
爪先が触れた。ボールが、走の足の裏で止まる。ソラの爪先とボールのあいだに、指一本ぶんの距離が残ったまま動かない。
スタンドのどよめきが、ふっと途切れた。
「今のは、こっちが取った!」
走はもう顔を上げていた。
内側に、海。手を上げるまでもなく、目が合った。
走が足の裏で押し出す。海が一度で止め、顔も上げずに左へ振った。青嵐が右へ寄せたぶん、逆側は芝が広い。レオがその広さへ流れていた。
ボールがレオの前へ落ちる。追う青嵐の背番号が、二歩遅い。大河内が中央から出てくる。間に合わない。
レオが受ける。一度だけ持ち出して、キーパーが前へ出たぶんの、その脇を打つ。
ネットが、揺れた。
七十九分。二対一。
「レオ!」
声が、自分でも驚くほど出た。
尾張のベンチが立ち上がる。レオが走のほうを指差して、何か叫んでいる。聞き取れない。走も指を返して、それから自陣へ走って戻った。
まだ十分ある。
*
残りの十分を、走は閉じた。
青嵐はソラを右に置いたまま、二度、同じ縦を試した。二度とも、走の左足が先にあった。三度目は来なかった。ソラが自分から内へ下がり、別の芝で受けはじめる。走はそこまで追わなかった。海が締め、財前が背中を持っている。
追わなくていい場所は、追わない。
八十八分、青嵐が最後の力を出した。中央から二本つながり、走の背中を一人が取る。走は届かなかった。
届かなかった先に、財前がいた。
財前が身体ごと当たって、ボールを外へ出す。
「財前!」
「言うたやろ! 二秒や!」
最後の数分、リクが右へ来た。
自分のサイドを捨てて、走の前へ。ボールを持って、まっすぐ縦を見せる。空き地のころから、走がいちばん多く見てきた背中だ。
走は半歩、内に入った。リクの右足が芝を掻く。その一足ぶんの芝は、もう走の脚の下にあった。リクの爪先が行き場を失って、外へ流れる。
リクは何も言わなかった。舌打ちだけが、芝の上に落ちた。
笛が鳴った。
二対一。夏の全国へ行く権利を、尾張は自分たちの手で決めた。
*
ソラが、走を見ていた。
怒りも、絶望も、そこにはなかった。かわりにその顔へ、これまででいちばんの輝きが灯っている。
「ねー」ソラの声が、歓びで震えていた。「あれ、何やったの?」
「三人でやった」走は答えた。「俺と、海と、財前で」
「三人」
「一人じゃ無理だった」
「へえ」ソラは目を丸くして、それから笑った。「九十分ぜんぶ、行くとこ先に踏まれたの、初めてだ」
走は少し息を整えてから、言った。
「またやろう。そのときも勝つ」
「言うねえ」
ソラはひらりと片手を上げて、行った。
(――あの手つきだ)
可能性を先に塞ぐ手。前の生で走を閉じた手と、形だけは似ている。
あの手には、返す番がなかった。ここには、ある。ソラはさっき、またやろうと言われて笑った。
それだけの違いだ。走はその違いを、握って離さないことにした。
*
「東!」
レオの声だった。輪ができている。海が輪の外に立って、顎で中を指した。来い、ということらしい。
走は歩いた。走らなかった。走る脚は、もう残っていなかった。
輪に入ると、レオに頭を叩かれた。財前が横から肩をぶつけてくる。下級生が走の背中に飛び乗って、そのまま三人で崩れた。
「全国!」
誰かが叫んだ。
「全国!」
走も叫んでいた。芝の匂いと、汗と、誰かの肘が顎に当たる痛みと、それが全部いっぺんに来た。
鬼塚はベンチの前で腕を組んだまま、一度だけ顎を引いた。
誰かが走の名前を呼んでいる。二年前、ユースへ上がった日には、この棟で走の名前を呼ぶ声は数えるほどだった。
走はその真ん中で、少しのあいだ、何も数えなかった。




