第127話 退屈じゃない
夏の全国へ進む地域代表決定戦は、リーグとは別のトーナメントだった。
春に〇対二で負けたあのリーグ戦とは、別の一日だ。負ければ、その時点で夏は終わる。勝てば、全国へ行く。
その決勝で、青嵐と当たった。
スタンドは満員に近く、キックオフ前から地鳴りのようなざわめきがピッチを包んでいる。
走は、あの夜に三人で引いた線を一つだけ握って、笛を待った。
(――今日は、当てにいかない)
白線から中へ、芝三枚。そこまでが走だ。そこから内は海。走が外された二秒は財前が立つ。
今日はソラを読まない。読めないものを読もうとしない。かわりに、ソラが立てる場所を、三人で分けて先に踏んでおく。
笛が鳴った。
走はソラを追わなかった。
前半の早い時間、ソラが中央からふっと消えて、走の背後の広いスペースへ走り込んだ。いつもならそこで受けて一枚剥がして終わりだ。味方から浮き球が届く。
だが走はもうそこにいた。
ソラの爪先が芝を掻いてボールへ触れたとき、受ける角度は塞がれ、前を向く隙は芝一枚ぶんもなかった。ソラの足が、行き場を失って止まる。ボールは味方へ戻るしかなく、青嵐のスタンドが、上がりかけた腰をそっと下ろした。
「よし!」
走は拳を握った。
二本目、ソラは別の芝へ抜けた。そこにも走が先にいた。
三本目、ソラは逆サイドの低い位置まで降りてボールを引き出した。
走は、そこへは行かなかった。行かないと決めた芝だ。
かわりに海が先に立っていて、財前がその後ろで背中を持っている。ソラの視線が、行き場を探して二度、三度と揺れる。仕方なく戻された横パスに、スタンドから小さなため息が漏れた。
「海、今の位置でいい!」走は叫んだ。「そのままで頼む!」
「言われなくても動かん!」
二十分が過ぎても、ソラは一度もゴールへ顔を向けられていない。
その顔から、退屈が消えていた。
「……へえ」ソラが初めて走をまっすぐ見た。「きみ、そう来るんだ」
声から、退屈が抜けていた。
そこからは、二人だけの対話だった。
ソラが余白を作ろうとする。走が消す。ソラが別の場所へ自由を生もうとする。走がまた消す。走の知らない角度から、次々と隙間が生まれ、生まれた瞬間に網へ触れて消えた。ソラが速く動くほど、走も速く閉じた。スパイクが芝を裂く音だけが、同じ拍で重なっていく。
怖い、と走は思った。
怖いのに、口の端が上がっていた。
(――もっと来い)
だが走は、まだ消し切れなかった。
目覚めたソラは、眠っていたソラよりはるかに危険だった。一度、走の重心がわずかに前へ落ちた刹那、その裏を突いて半歩の隙間をこじ開けられる。走を置き去りにしてゴール前へ抜け、味方の折り返しに足を振った。枠の外へ逸れたが、スタンドが一斉に立ち上がった。
戻る途中で、海が走の横に並んだ。
「お前、右膝、庇ってる」
走は、一瞬だけ言葉を探した。
探して、飲み込むのをやめた。
「……八割だ。走るのは問題ない。踏み替えが一拍遅い」
「分かった」海はうなずいた。「外側へ振られる形を減らす。あと半歩、内でいい。中盤を一枚、上げてくれ」
「頼む」
言えた、と走は思った。去年の夏、同じことを聞かれて、走は「大丈夫だ」と即答している。
先に取ったのは、青嵐だった。
前半三十一分。尾張の目が右のソラへ寄ったぶん、逆側の芝が広くなっていた。そこにリクがいた。ボールを受けて、対面へ縦を見せる。見せて、内へ。膝が流れた隙間へ身体が横滑りして、一枚が剥がれる。角度のない場所から、リクは迷わず振り抜いた。ニアの上。
〇対一。
走は右で、それを見ているしかなかった。
ソラを閉じるほど、青嵐の重心はリクへ寄る。読めない男を消したぶんの請求書が、逆の芝から届いていた。
ハーフタイム、海は一言だけだった。
「右は、そのままでいい」
*
後半十二分に、尾張が追いついた。
右のコーナーキック。財前が競って、こぼれたボールがゴール前を転がる。レオが誰より早く足を出して、押し込んだ。
一対一。
「レオ!」
走は自陣から走っていって、その背中に飛びついた。中学のころから、この男は走のクロスを頭で押し込んできた。押し込む場所が、高校最後の年になっても変わっていない。
「東! まだ一点や!」レオが叫んだ。
「分かってる! でも今の、うれしい!」
走は自陣へ戻りながら、右の芝三枚を数え直した。
海が声を張って、味方の立ち位置を数歩ぶん締めさせた。ソラが顔を出しそうな芝へ、あらかじめ一人を置く。逃げ場を狭められたソラへ、走が自分から間合いを詰める。
「ねえ」ソラが、消しにかかる走へ笑いかけた。「きみ、俺の自由、奪う気でしょ」
図星だった。
走は一度だけ、息を吸った。
あの夜、財前が言った。相手の行きたいところを潰すのが、俺らの仕事やろ。潰された相手は、次の一手で返してくる。返してくる相手を、走は待っている。
「奪う」走は言った。「そっちも、奪いにきてる」
「そうだね」
「だから、こっちも、退屈してない」
ソラの目が、ぎらりとした。
「いいね」ソラは笑った。「奪えるもんなら、やってみなよ」
*
少し離れた場所から、リクがそれを見ていた。
走があの読めないソラを閉じ込めかけている。走の武器がどれだけ厄介で本物か、リクだけが知っていた。悔しさと、それによく似た別のものが、リクの顔を横切った。
青嵐のベンチでは、音羽が笑っていた。ソラの自由が初めて脅かされる光景を、この監督は面白そうに眺め、手を打たなかった。鬼塚ならすぐ動く。音羽は泳がせる。
一対一のまま、時計が進んでいく。
抗うソラは、これまででいちばん鮮やかだった。走の網は、じりじりとその鮮やかさを狭めていく。
「まだ、退屈じゃないよ」
ソラが肩で息をしながら、笑って言う。
「こっちもだ」
走はそう返して、また半歩、ソラの隙間を踏んだ。




