第124話 掴めない男、ふたたび
三年目の春が来た。
走はユースの最終学年に上がった。桧山と須賀が抜けて、最終ラインと中盤の背番号が一つずつ繰り上がる。並んで残ったのは、走と海と財前と、レオだった。中学から同じ十一人でやってきた面々が、そのまま最上級生の列にいる。
最初の紅白戦の前、下級生の一人が走のところへ来た。
「東さん。右、俺でいいんですか」
「いい」走は言った。「一つだけ守れ。俺が上がったら、外を見なくていい。内を見ろ」
「内」
「外は海が拾う。お前が外を見ると、真ん中が二人ぶん空く」
その子はうなずいて走っていった。三分後、走が上がった裏を相手が突いて、その子は内側に立っていた。ボールは海の足に引っかかった。
「東さん!」その子が叫んだ。「内、合ってました!」
「合ってた!」
走は親指を立てた。
去年の春は、走が立花に聞きにいく側だった。今年は、聞かれる側に立っている。そのことに、走はまだ少し慣れない。慣れないが、悪くなかった。
*
練習後、鬼塚が走を呼んだ。
「東。協会から日程の照会が来とる。七月の終わりの一週間、お前の予定を押さえられるかと」
「……予定」
「それだけだ」鬼塚は言った。「呼ぶとは書いてない。空いとるか聞かれただけだ」
「空いてます」
「即答するな」鬼塚は鼻を鳴らした。「その週、リーグが一本ある」
「……あ」
「調整はこっちでやる。お前は浮つくな」
「はい」
部屋を出て、走は廊下で一度だけ拳を握った。
呼ぶとは書いていない。書いていないが、予定を聞かれた。
予定を聞かれるところまでは、来ている。
*
その夜、走は部屋で映像を開いた。
青嵐。リクと、ソラ。
リクは、正面から捉える手応えを掴んだ。去年の二戦目で、走は十九本遮断している。届かない一本もあったが、届いた十九本も残っている。
問題はソラだった。
中三に、走たちは二度、ソラを止めている。
六月は、三人だった。外を財前が閉じ、内を海が絞り、走がそのあいだに胴を入れて幅をゼロにした。三人要る、と海はそのとき言った。
一月の最後の大会は、二人だった。海は前へ上がっていた。走が半歩ずらして、財前が前の日に決めておいた「一回」を使って外へ出した。
どちらも、走一人ではない。
画面のソラは、そのときのソラではなかった。
中三のソラは、受けてから決めていた。触って、それから考える。だから走たちには、触ってから決めるまでの時間があった。三人が寄る時間も、二人で間に合う時間も、そこにあった。
いまのソラは、受ける前にもう走る場所を変えている。
走は同じ場面を四回戻した。ボールが出る。ソラは指定された足元へは行かない。出たボールの落ち際に、自分で場所を選び直している。パスが着く前に、絵が一度描き直されていた。
(――囲む時間が、半分になってる)
皮肉だ、と走は思った。
受ける前へ手を伸ばす。去年、走が海と財前と三人で見つけたのと同じ場所へ、あの男は最初から立っている。
*
開幕前、合同練習の会場で、走はソラとすれ違った。
「あれ」ソラが足を止め、肩越しに振り返った。「きみ、冬にいたね」
「……いました」
「広島。あのとき、きみのほうには行かなかったな」ソラはのんびり笑った。「行かなくてよかった、って言われたよ、うちのコーチに」
走の背が、勝手に強張った。
反射的に、診断の眼をソラへ向ける。脚も、軸足の荷重も、抜けかけた膝の角度まではっきり視える。なのに次の一歩がどこへ伸びるのか、その像だけが指の間の砂みたいに崩れて、輪郭を結ばない。片脚に体重が乗ったと思った刹那、もう一方の踵がふっと浮く。
身体は視える。この男の心だけが、走の眼のいちばん外側をふらついている。
「そっちは、行きたかったんだ?」ソラが訊いた。
「行きたかった」
言ってから、走は自分の声が思ったより大きかったことに気づいた。
「へえ」ソラは目を細めた。「次、当たるんでしょ。楽しみにしてる」
ふらり、と踵を返す。勝ちたいとも負けたくないとも言わない。退屈か、面白いか。その二つだけで、この男は息をしているようだった。
*
寮へ帰る道で、海と財前が待っていた。
「会ったのか」海が訊いた。
「会った」
「どうだった」
「変わってた」走は言った。「中三のときは、受けてから決めてた。いまは受ける前に決め直してる。三人で寄っても、着く前に場所が変わる」
「厄介やな」財前が言った。
「厄介だ」
走はそこで、少し黙った。それから言った。
「前は三人で一本だった。今度は、もっと続けたい」
「続けたい、な」海が繰り返した。「何本」
「五本」
「多い」
「三本」
「二本から始めろ」海は言った。「二本続いたら、三本目の話をする」
「二本な」
「条件がある」財前が指を一本立てた。「お前、全部一人で行くなよ。去年のリク戦、後半おかしかったやろ」
走は答えに詰まった。答えに詰まったこと自体が、答えだった。
「……分かった」
「分かったって言うたぞ、いま」財前が海を見た。
「聞いた」海が言った。「証人になる」
走は笑った。笑ってから、素直に言った。
「楽しみだよ。腹は立つけど」
「腹立つのか」
「立つ。あいつ、俺の名前まだ覚えてない」
財前が噴き出した。海が、珍しく声を出して笑った。
春の風がひとつ、三人の横を通り過ぎていく。掴もうとした指の間を、それは笑うようにすり抜けていった。




