第123話 その手に残ったもの
引き分けの夜だった。
走はロッカーの隅で、自分の手のひらをまた見た。四年前は素手だったこの手に、いまは確かに何かが握られている。
受ける前で捉える眼。リクが構えるより先に、立つ場所を奪う守り。仕掛ける前で止めるのは去年から何度もやってきたが、この男相手に、受ける前まで戻したのは今日が最初だった。
思い出すのは、後半三十分過ぎの一秒だ。リクが右へ切り返す。その膝が内へ折れる前に、走はもう半歩、抜ける先の芝を身体で埋めていた。リクの爪先が行き場を失い、芝を無駄に掻く。あの背中が、走の前で詰まった。
たった一秒。だがその一秒が、四年ぶんの距離を裏返した。
まだ穴はある。最後の閃きには、指が触れもしなかった。
それでも走は知った。科学は、才能を正面から捉えられる。臆病でもまやかしでもない。誰にも期待されずに始めた男の設計は、本物だった。
*
週明けの練習前、眞鍋が走を呼び止めた。
「東さん。第七節と、今回を並べました」
タブレットの画面に、折れ線が二本。
「リクさんの仕掛けを遮断した回数です。第七節は、二本。今回は、十九本」
「十九」
「はい」眞鍋は指の腹で画面を二度なぞってから、続けた。「ただ、数の話だけじゃないんです。第七節の二本は、どっちもリクさんが受けたあとでした。今回の十九本は、十四本が受ける前です」
走は、その二つの数字をしばらく見ていた。
「そこは、ちゃんと増えたんだな」
「増えました」眞鍋はうなずいた。「あと、これは私の意見ですけど」
「言えよ」
「今日の試合、十九本より、二本のほうが大事だと思います」
「二本?」
「十五分から二十分のあいだに、東さんが外した二本です。あそこで基準を寄せ直したから、そのあとの九本があります」
走は、笑った。
数えている人間が、数字だけで試合の値段を決めないのだ。走の学生マネージャーは、そういう人だった。
「ありがとう。次も撮ってくれ」
「撮ります」
(――嬉しい)
認めるのに、もう時間がかからなくなっていた。
同時に、勝てなかったことも、まだ胸の底に残っていた。十九本捉えて、最後の一本に届かなかった。その二つは並んでいて、どちらも消えなかった。消えなくていい、と走は思うようになっていた。
*
その週の終わりに、鬼塚が走を呼んだ。
監督室のドアを閉めてから、鬼塚は机の上の紙を指で押した。
「東。この前の青嵐戦、外から何人か見に来とった」
「……はい。見えてました」
「うちに照会が来とる。年代別の選考で、お前の名前が上がっとるらしい」
走は、一拍遅れて理解した。
「それ、決まったってことですか」
「決まっとらん」鬼塚はあっさり言った。「候補の紙に名前が載った。それだけだ」
「……はい」
「勘違いするなよ。載って落ちるやつは、毎年いくらでもいる」
「分かってます」
走は言って、それから、言い直した。
「分かってますけど」
「なんだ」
「まだ決まってない。でも、嬉しいです」
鬼塚は、少し黙った。それから鼻から息を抜いた。
「……まあ、嬉しいだろうな」
「嬉しいです」
「二回言うな」
「すみません」
鬼塚は何も言わず、手を振って走を出した。
廊下へ出て、走は壁にもたれて息を吐いた。心臓が、試合中より速かった。
*
後日、練習試合の会場で走はリクとすれ違った。
「なあ、走」リクが足を止めた。「この前の、あれ」
「あれ」
「……次は、あんなふうには捉えさせねえよ」
言い捨てて、リクは背を向けた。負けを認める響きはない。あったのは、次にやり返すという約束の匂いだけだ。
走はそれが、嫌いではなかった。
「こっちも、次はもう一本いく」
リクは振り返らなかった。だが、片手だけ上げた。
*
その夜、走はアカネに電話をかけた。自分からかけるのは、久しぶりだった。
「なに」
「引き分けた」
「知ってる。誰かが写真上げてた」
「見たのか」
「見た。あんた、写り悪いね」
「うるさい」
走は笑って、それから話した。十九本のこと。受ける前まで戻したこと。外した二本と、寄せ直したこと。最後の一本に届かなかったこと。
アカネは、途中で一度も口を挟まなかった。
「……で」話し終えたところで、アカネが言った。「嬉しいの? 悔しいの?」
「両方」
「ふうん」アカネは少し黙った。「両方って、しんどくない?」
「しんどい」
「でしょ」
「でも、片方だけにすると、たぶん嘘になる」
「……それはそう」
「それとさ」走は言った。「代表の候補に、名前が載ったって」
電話の向こうで、短く息を吸う音がした。
「え」
「まだ決まってない。候補の紙に載っただけだ」
「……載ったんじゃん」
アカネの声が、少し高くなっていた。
「載ったんじゃん、それ」
「載った」
「すごいじゃん!」
耳から少し離すくらいの声だった。走は電話を持ち直して、笑った。
「そっちは」走は聞いた。「最近、なにしてる」
「んー」アカネは言葉を探すような間を置いた。「ちょっと、調べてることがある」
「なんの」
「言わない」
「なんでだよ」
「まだ、人に言えるとこまで行ってないから」アカネはきっぱり言った。「行ったら言う。そしたら、ちゃんと聞いてよ」
「聞く」
「絶対」
「絶対聞く」
電話を切ってから、走はしばらく天井を見ていた。
誰かに言いたくて仕方がなかった。母にはもう送った。海と財前には明日会う。眞鍋は、たぶん先に知っている。
それでも、まだ足りない気がした。
右手を開いて、閉じた。
(――まだ、途中だ)
残った宿題は、一つある。読めない、あの最後の閃き。恐怖を突かずに、正面からあれを止める道。
その先に、もっと読めない男がいる。
中学最後の大会の引き上げ際に、あいつは言った。ユースで会えたら、もっと面白いことしようよ。
走は、天井に向かって短く息を吐いた。
怖い。怖いのに、会う日が待ち遠しかった。




