第122話 捉えた、まだ届かない
後半が始まった。
走の身体は、もう限界に近い。眼を凝らし続けた代償が、脚と肺の底に重く溜まっていた。一歩踏み出すたび、芝が普段の倍も遠く感じる。
それでも走には、土台があった。九十分落ちない身体。前世から積み上げた、いちばん最初の武器だ。眼のコストがどれだけ重くのしかかっても、その土台が走を最後までピッチに立たせ続ける。何度膝が笑っても、その一点だけは裏切らない。
後半五分、前半と同じ絵が出た。
リクが受ける前の芝を、走が先に踏む。リクが背中で受け直し、下げる。海が退路を切る。三人でつくった詰みが、後半にも残っていた。
「続いてる!」走は叫んだ。
「続けろ!」海が返した。
だが、十五分を過ぎたあたりから、走の像がずれはじめた。
リクの踏み込みが変わっていた。疲れたぶん、重心の落とし方が浅くなっている。浅くなった沈み込みを、走の眼は今までの深さで読んでいた。
二本、外した。
一本目は財前が背中を消して助かった。二本目はクロスまで上げられ、鷲尾が弾いた。
(――形が変わってる)
去年の秋にも、走は同じところで転んでいる。相手のフォームが変わった瞬間に、それまで合っていた像が全部ずれた。あのときは、試合が終わるまで直せなかった。
今日は、直した。
走は二本ぶん、読む基準を浅いほうへ寄せた。浅い沈み込みでも、爪先の向きは嘘をつかない。そこだけを見る。
三本目は、間に合った。
六十三分、試合が動いた。
リクが低い位置へ下り、ボールを呼ぶ。その受け場所の芝一枚ぶんを、走が半歩先に潰した。行き場をなくしたリクの爪先から、走が足裏でボールをかすめ取る。こぼれかけたそれを、走はもう一歩で完全に自分のものにした。
顔を上げる。海がもう、走の出しどころへ動いている。
走が渡す。海が首を一度だけ振り、空いた右のレーンを見切った。指の先ほどの隙へ、縦へ鋭い一本が刺さる。走り込んだ桧山の足が、ゴールの隅へネットを揺らした。
「やった、桧山!」
走は両手を突き上げて走り出していた。息が上がっているのも忘れていた。桧山が振り返って、走を指差す。走も指を返した。海が二人のあいだへ割り込んできて、三人でひとかたまりになった。
一対〇。
四年、走を抜き続けた男の足元から奪った一点だった。
走はその一点を、少し違う角度からも見ていた。
起点は、二つとも走が奪ったボールだ。前半の一本は、隠した出し手を待って獲った。あれは得点にはならず、桧山の足が届かずに終わった。後半の一本は、リクの足元から獲って、点になった。
上の出し手は隠す。隠せば、遅くなる。
走が一段上がるたびに、前の階の天井は次の階の床になってきた。床になっても、無くなったわけではない。落ちない身体は、今日も走を最後まで立たせている。
ただ、この手だけは向きが逆だった。
上へ行くほど、相手は隠す。隠すほど、走に時間ができる。
(――この手は、上で伸びる)
登るほど太る武器を、走はいま一つだけ持っている。
だが、リクはそこからだった。
捉えられ、負けている。その二つがリクの証明の炎を最大まで煽った。深く、速く、苛烈に。走に治された脚で、走の設計を力ずくでこじ開けにくる。
リクが右から仕掛ける。走がその進路を消す。今度は中央の隙へ差す。走がまた芝一枚ぶん前で塞ぐ。一対一が、何度も繰り返された。視界が疲労で白く霞んでも、走はリクの一歩の前に立ち続けた。走の網が、何度も軋む。それでも、保った。
残り、数分。その最後の仕掛けが来た。
リクが左脚で強く踏み込む。子どものころに壊れた、あの脚だ。走の眼が視た。踏み込みの瞬間、その脚に一筋の怯えがよぎる。リクはそれを、意志だけでねじ伏せている。
そこへ声を投げれば、この一歩は鈍るかもしれない。鈍らないかもしれない。試したことがないのだから、走には分からなかった。
分からないまま、走は使わなかった。
その一手は、前世で走自身がいちばん憎んだやり方だった。誰かの怯えに指を差し込み、その人が持っていたはずの可能性ごとへし折る。ピッチの上で人の弱みを握って、生き方まで奪っていく。走が壊されたのも、そのやり方だった。効くかどうかも分からないものと引き換えに、それを掴む気にはなれなかった。
ほんの一瞬で、走はそう決めていた。
その刹那、リクの身体から走の予測の外の一手が飛び出した。
読めない。像が結ばない。恐怖をねじ伏せた左脚が、走の設計のさらに向こうへリクを運ぶ。走の網が空を切った。伸ばした足の先を、ボールが紙一重で越えていく。リクが走を抜き去り、キーパーの逆を取ってゴールへ流し込んだ。
一対一。
走は、芝に片手をついた。
九十分、ほとんど捉えきった。だが最後の一つだけ、どうしても届かなかった。
笛が鳴った。引き分けだった。
海が手を差し出した。走はそれを掴んで立った。
「止められた」走は言った。「……それでも、勝ちたかった」
「俺もだ」海は短く言った。「次は勝つぞ」
「勝つ」
同点にしても、リクは吠えなかった。走を、見ていた。その顔に二つのものが混ざっている。九十分ずっと捉えられ続けた衝撃。そして最後に、その走を才能で破った達成。破った手の中に、捉えられたという冷たい手触りだけが消えずに残っている。
リクは何か言いかけて、口を閉じた。
走とリクは、ピッチの中央で一瞬だけ目を合わせた。何も言わなかった。だが二人とも分かっていた。今日のこれは、途中だ。
引き上げながら、走は右手を開いて見た。
届かなかった一本がある。届いた十九本もある。
どちらも、今日走が自分の手で取ったものだった。




