第121話 発動の前で
高円宮杯のリーグ戦、後半の日程に、青嵐の名前があった。第七節で負けた相手との、二度目だ。走の右には、またリクが立っている。
試合前のロッカーで、走は海と財前を呼んだ。
「あいつが受ける前を潰す。角度は一つだけ」
「正面向きで受けさせる、だったな」海が言った。
「そう。半身で受けられたら、あとは俺が遅い」
「出し手は俺が動かす」海はボードの上で指を一度滑らせた。「ただ、外されたときはお前の背中が空く」
「そこは俺や」財前が言った。「一枚だけ、やろ」
「一枚だけだ」
走は言って、二人の顔を見た。三月に、この最終ラインから二つの背中が抜けた。抜けたぶんを埋めるのは、いま並んでいるこの二人だ。
笛が鳴った。
青嵐の中盤から、ボールがリクの足元へ差し込まれる。その転がりが爪先に届くより一瞬早く、走はリクの正面へ身体を割り込ませていた。前を向こうとしたリクの肩が、走の胸で塞がれる。前へ抜けるはずの半歩ぶんの芝を、走の身体が先に埋めていた。行き場を失った爪先が、ボールを踏んだまま芝を二度掻く。結局リクは背中で受け直し、味方へ下げるしかなかった。
「よし!」
声が出た。分析より先に出ていた。
「今の、間に合った!」
「見えてた」海が叫び返す。「もう一本、そこから頼む」
「頼まれた!」
下げた先へ青嵐の中盤が顔を出す。だが、そこにはもう海の網が張ってあった。逃げ道になるはずの一手を、盤面が先回りして塞ぐ。走が受ける前を消し、海が退路を断つ。青嵐が逃がそうとした縦パスの筋へ、海が足を伸ばして先に触れた。
二度目も、同じ絵になった。
リクがボールを呼ぶ声より早く、走は受け場所の芝一枚ぶんを先に踏む。受けた足の下でボールが跳ねるより早く、走の肩はもう内を締めている。リクが右へ運び出そうとした進路に、走の膝が差し込まれていた。仕掛けへ入る角度が、どこにも残っていない。
リクの足が、止まった。眉間に皺が寄る。
(――捉えた)
走の胸の奥で、小さく何かが鳴った。
走は一度、天を仰いだ。息を吸って、吐いた。頬が勝手に緩むのが分かった。
楽しい。
四年、この男の背中ばかり見てきた。その背中を、いま正面で塞いでいる。それだけのことが、どうしようもなく楽しかった。
仕掛ける前で止めるのは、去年から何度もやってきた。予選でも、全国でもやった。だがリクには、仕掛ける前ではもう遅かった。受ける前まで戻したのは、今日が最初だ。
それでも、リクはすぐ入口を替えてきた。
深く下りて、走の網の外側でボールを受ける。サイドの白線際まで流れ、走の眼が届く縁でボールを収めた。そこから足を巻き込むように加速し、走の背後の芝へ走り込む。受ける前を消されるなら、消される前に動き出す位置をずらす。封じられた才能は、瞬きの間に別の扉を探し当てた。
走もリクの新しい入口へ、半歩ずつ立ち位置を送った。読んで、消して、また読む。
その合間に、走はもう一つを試していた。
第七節で、青嵐のボランチは腰を作ってから逆へ出した。あれ以来、走はその一本を何度も巻き戻している。巻き戻して気づいたのは、隠した側の遅さだった。あの男は形を作り、作った形を自分で打ち消してから、逆足を振り出している。二手かかっていた。
人は癖を消すとき、意識でそれを止める。意識で止めた動作は、無意識でやる動作より、必ず高くつく。中学のとき、走はそれを対面の脚から学んだ。同じことが、蹴る側の腰でも起きていた。
(――隠せる。だが、隠すと遅い)
走は読むのをやめた。やめて、待った。
三十一分、青嵐のボランチがまた腰を作る。走は動かない。男が形を打ち消し、逆足を振り出す。その半拍が、前の試合の一本より確かに長かった。ボールが出てから、走は出た。
間に合った。足の甲で止めて、走はそれを内へ運んだ。
「財前、上がる!」
「行け!」
背中に、返事が来た。
ただ、それは恐ろしく身を削る守りだった。
リクが動く前を、一秒も緩めずに読み続ける。芝を蹴るたび、青い匂いが鼻の奥をついた。汗が眉から目へ落ちて滲む。喉が乾いて張りつき、心臓は肋骨の内で暴れていた。眼を凝らすだけでこれほど身体を食うとは、走自身思っていなかった。前半の半ばで、もう息が上がりはじめる。膝に手をつきたくなるのを、走は歯を食いしばって堪えた。
そして、その穴は来た。
走の踵が芝を噛んだ一瞬、視線がわずかに遅れる。読みのタイミングが、半歩ぶんずれた。リクは、それを見逃さない。空いた半歩へ爪先を滑り込ませ、一足で前を向く。向いた時にはもう、走の脇を一枚こじ開けていた。リクの背番号が、走の視界から一気に遠ざかる。
財前が内から寄せて、辛うじてコースを切った。
「悪い!」走は叫んだ。
「一本や!」財前が叫び返す。
(――まだ穴がある)
掴んだ。だが、完成ではない。走の呼吸が乱れれば、リクはその一瞬を通してしまう。読めても止まらない壁は、低くなった。低くなって、まだ消えてはいない。
抜き去ったあと、リクが肩越しに振り返った。
「なんだよ、それ」
その声は笑っていない。むしろ苛立っていた。
「お前、また……俺を、手のひらで転がす気か」
その一言に、走はリクの毒の芯を覗いた。捉えられること。走の設計へ、また「される」こと。それがリクの証明の炎へ油を注いでいる。俺の速さは俺のものだ。お前の掌の上じゃない。声にしない叫びが、次の一歩を苛烈にした。
だが走も、抑えるだけではなかった。
発動の前でリクを潰した、その足で奪ったボールが海へ渡る。海の一本が、尾張の前線を裏へ走らせた。折り返しが青嵐のゴール前を横切る。桧山の足が届かず、ボールは反対側へ抜けていった。
「惜しい!」
走は前へ走りながら叫んでいた。消して、奪って、渡す。抑え込んだ才能が、こちらの攻めの起点になっている。
前半は、〇対〇で終わった。
荒い息をベンチ前で整えながら、走は後半のピッチへ目をやった。
海が、水のボトルを放ってよこした。
「息、上がりすぎだろ。……大丈夫か」
「大丈夫だ」
早かった。自分でも、返事が早すぎたと分かった。
海が何か言いかけて、やめる。
言えよ、と言った男の声が、耳の奥を一度だけ通り過ぎた。分からんまま隣に立つのは、けっこうしんどいぞ。
走は水を飲み干して、それも一緒に飲み込んだ。
飲み込んだのは、身体のことだけだ。角度も、担当も、外された一本も、走はもう全部この二人に渡している。渡していないのは、自分がいまどれだけきついかという一つきりだった。
その一つが、いちばん大きいかもしれないことを、走はまだ考えていなかった。




