第120話 読めても、止まらない
リーグ戦の第七節で、その日は来た。青嵐と、尾張。空き地で決着を預けた相手と、走はついに同じピッチの正面で向き合った。
青嵐の右ウイングは、リクだ。だがキックオフの並びで、リクは左にいた。十二月とは違う。中学のときと同じだ。この男は、走のいる側へ回ってくる。走の真っ正面だった。
キックオフの笛を待つ間に、リクが走のそばを通った。芝を踏むスパイクの音が、やけに近い。
「よお、走」
空き地のころと同じ呼び捨てだった。敵になっても、そこだけは昔のまま残っていた。
「相変わらず頭でサッカーしてんな」リクは笑った。憎まれ口の奥に、隠しきれない何かが滲む。「今日は、その頭を俺の脚でぶち抜く」
走は答えず、腰を落とした。指先が、じっとりと湿っている。湿っているのに、嫌ではなかった。中学のときから、この正面をずっと待っていた。
試合が動いたのは、開始直後だった。リクがボールを持ち、まっすぐ走へ仕掛けてくる。
走の眼が灯る。リクの重心、膝の向き、次の一手が像を結ぶ。
《観察/桐生 陸》
重心 ――― 右へ沈む。
次の一手 ――― 右へ切れ込む。
確度 ――― 高い。
所要 ――― この一手を出させないためには、あと半歩。
右へ切れ込む。走はそれを読み切っていた。
読み切って、なお抜かれた。内へ寄せた半歩を、リクの左足のフェイントが置き去りにする。走の爪先が、抜けたはずの芝一枚を空しく掻いた。背中で風が鳴ったときには、リクの背番号がもう縦へ流れている。
読めた。なのに、止まらない。
中三の秋にも、走は同じものを食らっている。あのときは一度きりの事故だと思った。思いたかった。今日は、一本目からそれが来た。
中央の海が、盤面を睨んだまま短く声を張る。
「走、絞れ!」
その指示ごと、走の身体は半拍遅れていた。
二度目も走は読んだ。読んで、また置いていかれた。
三度目は組織で追い込んだ。海と連動してパスコースを消し、リクの選択肢を一つに狭める。去年、全国級のウイングを黙らせた形だった。
それは、二本だけ通じた。三度目と、前半の終わりの一本。狭めた縦へ入ろうとしたリクの足が、二度、行き場を探して止まった。
それ以外は、同じ形でも抜かれた。狭めた縦だけを残せば、リクはそこへ身体をねじ込んで通してしまう。追い込むほど、リクの口角が上がった。逃げ場のない場所から無理やり抜け出すことこそ、この男の得意技なのだ。
走は、笑いそうになった。腹が立っているのに、笑えてくる。四度目の仕掛けに向かって腰を落としながら、走ははっきりと思った。
(――もっと来い)
だから走は、一度だけ対面を捨てた。
二年前、鬼塚の前で走はこう言っている。上の出し手は、蹴る前の形を隠す、と。青嵐のボランチがボールを持つ。走はリクから眼を外し、その男の支持脚を見た。左足に体重が乗り、腰が半分だけ開く。開いた角度の先に、リクの走る場所がある。中学の準決勝と、同じ形だった。
走は前へ出た。
ボールは、来なかった。腰を作ったまま、その男は逆足で内へ流している。作った形は、餌だった。走が空けた背中へ、青嵐の左が斜めに入ってくる。海が全速力で戻り、辛うじて足を伸ばして触れた。
「悪い!」
「一本までだ!」海が叫び返した。
二年前に自分で言った予想が、そのまま当たった。当たったところで、走の足は一歩も前へ出ない。
しかも、とおかしなことに走は気づく。リクは楽な道を選ばない。味方を使えば簡単に運べる場面でも、必ずボールを走のところへ持ってくる。勝つためではなく、証明するためだ。走が治した脚で、走の理屈を力ずくで超えてみせる。俺の速さは俺のものだ、お前のレールの上じゃない。プレーの一つひとつが、言葉にならないそれを走へ叩きつけていた。
その合間に、走の眼は別のものを視てしまう。リクが左脚で踏み込む一瞬、身体がほんのわずかに痛みを警戒する。子どものころに壊れた脚だ。リクは毎回、その恐怖を意志でねじ伏せて振り切っていた。
そこを突けば、あの踏み込みは鈍るかもしれない。効くかどうかは、やってみなければ分からない。
だが走は、試さなかった。リクが命がけで抑えつけているものを武器にすることだけは、できなかった。たとえ、それで抜かれ続けるとしても。
前半のうちに、走はやられた。縦と見せた右足の切り返しで重心を外され、膝が逆を向いた刹那、リクは中へ切れ込んでいた。倒れ込むように伸ばした足の先を、ボールは一寸だけ躱していく。ゴール前へ吸い込まれた鋭いグラウンダーを青嵐のフォワードが押し込んで、走の右が割られた。
尾張も後半に一点を返した。海の縦一本を、桧山が押し込む。
「桧山!」
走は右手を突き上げて走った。追いつけた、と思った。追いついたのなら、まだ終わっていない。
だが残り十分、走とは逆のサイドから運ばれ、最後はソラが流し込んだ。
一対二。
引き上げ際、リクが走を振り返った。
「なあ、走」もう笑ってはいなかった。「お前の頭、やっぱ大したもんだよ。全部、読まれてた」
走は黙って聞いた。
「……でも、届かなかっただろ」リクの声が低くなる。「その眼が、お前を臆病にしてんだよ」
スパイクの音が遠ざかる。その一言だけが、走の芯に深く刺さって抜けなかった。
*
その夜、走は寮の部屋で映像を見返した。
画面の中の走が、リクに抜かれる。何度巻き戻しても同じだった。爪先が芝を掻いた瞬間、走の足は半歩内へ入っている。なのに入ったときにはもう、リクの身体はその隙間を抜けていた。読み切った上で、置き去りにされている。
中学に入ってから、走はこの眼を武器だと思ってきた。
(――本当に、武器なのか)
一時停止のまま、走はしばらく画面を見ていた。それから、スマホを取った。
*
十五分後、狭い部屋に三人が座っていた。海が椅子、財前が床、走がベッドの端だ。
「今日の映像、一緒に見てほしい」
走がそう言うと、財前は缶を開けながら「呼ぶのが遅い」と言った。
同じ一本を、三人で四回見た。
「お前、ここ」財前が画面を止めた。「もう間に合っとらんやろ」
「半歩遅い」
「ちゃう。遅いんやない。始まるのが、ここからやからや」
走は画面を見た。止まっているのは、リクが最初のタッチをした瞬間だった。
「お前の読み、いつも受けたとこから始まっとる。相手が持ってから、はじめて開くやろ、その眼。リク相手に、それじゃ遅いんちゃうか」
海が缶を口から離した。
「もう一個前だな」海が言った。「あいつが受ける前。どこから、どの角度で受けるか。そこはまだ、あいつ一人で決めてない。出し手と二人で決めてる」
走は、息を止めた。
去年、走は相手が仕掛ける前に閉じることを覚えた。リクの場合は、そこがもう遅い。仕掛ける前ではなく、受ける前だ。
「出し手のほうは、俺が角度を変えられる」海は言った。「どの角度で出させたい」
「体が正面を向いて受ける角度。あいつが一番速いのは、半身で受けたときだ」
「なら、それを一つやろう」
「一つだけか」
「一つだ」海はにやりとした。「お前、放っておくと五個持ってくるだろ」
財前が笑って、缶を置いた。
*
スマホが鳴った。アカネだった。
「あんた、今日、負けたでしょ」いきなりだった。「……声、出す前に分かった。何があったの」
走は少し黙ってから、話した。リクが正面に来たこと。全部読めたこと。読めたのに、止められたのは二本だけだったこと。
「全部読めたのに、二本?」
「全部読めたのに、二本だ」
「うわ」アカネは心底嫌そうな声を出した。「それ、いちばん腹立つやつじゃん」
「腹立った」
少し間があって、アカネが言った。
「……それさ、読めてないよりマシなの? マシじゃないの? どっち」
走は考えた。
「……マシだと思う。読めてなかったら、どこを直せばいいかも分からない」
「じゃあ、直すとこ、もう分かってるんじゃん」
「さっき、海と財前に教わった」
「なんだ、もう相談してたの」アカネの声が、少しだけ軽くなった。「昔のあんたなら、一人で三日は抱えてたよ」
「……抱えてた」
「進歩」
走は笑った。笑ってから、息が一つ、深く入った。
「聞いてもらえて、少し楽になった。そっちは?」
「あたし? 最悪」アカネは即答した。「明日、化学の小テスト。モルって何。なんで物質を個数で数えるの」
「便利だからだ」
「出た。理屈の人」
「六かける十の二十三乗の話、する?」
「しないで」
電話の向こうで、アカネが笑った。走も笑った。
「あんたさ」切る前に、アカネが言った。「次、いつ当たるの、そいつと」
「まだ分からない。でも、必ず当たる」
「じゃ、それまでに直しときなよ。一個ずつ」
「一個ずつな」
*
電話を切って、走はノートを開いた。
書くことは、一つに決めていた。
――明日、受ける前の角度を一本だけ試す。
それだけ書いて、ペンを置いた。
画面の中では、リクがまだ走を抜き去った姿勢のまま止まっている。
走はそれを消して、寝た。




