第119話 全国の壁
二つ目は、勝った。
相手は関西のクラブだった。走の対面は初戦より速く、初戦より賢かった。走はそれを、一本も抜かせなかった。抜かせないだけではない。前半の途中から、相手の右は走のいる側へボールを運ばなくなった。眞鍋のタブレットに、その日に走が相手へ仕掛けさせなかった回数が、一本ずつ積まれていく。
試合のあと、眞鍋はその画面を、腕章をつけた大会の記録係に見せていた。記録係は少し笑って、それから走の背番号を紙に書き写した。
眞鍋が戻ってきて、走に画面を向けた。十一本。予選の最高が八本だった。増えたな、と走が言うと、眞鍋は増えました、とだけ答えて画面を胸に抱えた。
三つ目に、青嵐がいた。
十二月の広島は、風が冷たかった。スタンドの一列目に、日の丸の入った上着を着た男が二人いる。手帳を持って、腕を組んでいた。
青嵐は、リクを右に置いた。走とは逆のサイドだ。走の対面には、青嵐の左ウイングが来た。全国の紙に名前の載る男だった。
走は、閉じた。
九十分、その男は一度も走を抜けなかった。抜かせて削ったのではない。仕掛ける場所を、最初から与えなかった。前半の二十分で、その男はもう走の前で足を止めるようになった。青嵐のベンチが、右へ出すボールを減らしはじめる。走の側は、静かになった。
試合は、走のいない場所で決まった。
前半三十五分。リクが逆側で一枚剥がし、中へ入れる。中央にいたのはソラだった。走の位置からは遠い。パネルは開かなかった。届く距離ではなかったからだ。ソラは、来たボールを一度も止めなかった。止めないまま、キーパーの脇へ流し込んだ。〇対一。
走は、黙っていなかった。
「海! リクの受け場所、二枚ぶん下がってる! 受け渡しを一列下げてください!」
「下げる!」
十一月に岳とやったのと、同じ手順だった。声で数字を渡し、担当を組み替える。ハーフタイムを待たずに、走はそれを言えるようになっている。
組み替えは、動いた。
動く速さが、足りなかった。
後半の十五分。中盤の一枚が半歩絞りきる前に、リクが縦へ出た。担当が替わっている途中の芝は、誰のものでもない。海が全速力で戻り、財前が絞る。それでも、届かなかった。リクの縦一本が中央を割り、〇対二。
その前に、走は一度だけ前へ出ようとしていた。
右が静かなら、上がればいい。十一月にも、十二月の初戦にもそうした。走は一歩、前へ踏み出しかけて、止まった。
ソラの受ける位置が、内へ二枚寄っていた。走が上がれば、その二枚を埋める者がいない。
走は戻った。戻るしかなかった。
走の右は、九十分、破られなかった。走の右とは関係のない場所で、尾張は二点を失った。
一度だけ、リクが右へ流れてきた。ボールは来なかった。すれ違いざま、リクは走を見た。
「よお」
それだけ言って、戻っていった。空き地のころと同じ声だった。
笛が鳴った。〇対二。尾張の初めての全国は、三つ目で終わった。
走はその場に座り込んだ。冷えた芝が、太腿の裏から染みてくる。桧山が両手を芝についたまま動かない。海は立ったまま、まだスコアボードを見ていた。
熱いものが、遅れて上がってきた。
九十分、自分の右は割られていない。それが誇らしくて、同じだけ悔しかった。守り切った側に立っていて、なお負けたのだ。閉じられなかったから負けたのなら、閉じ方を直せばいい。閉じたのに負けたときに、何を直せばいいのか。
立花が手を叩いて、全員を立たせた。
「顔、上げろ」立花が言った。「下向いて終わるチームじゃない」
走は顔を上げた。
整列のあと、走は自分の右を見た。九十分、守り切った芝だ。守り切った芝の外で、試合は終わっていた。春に、自分の一枚が十一枚の絵を歪めた日のことを、走は思い出さなかった。思い出す必要がなかった。今日は、絵の中で守った。守って、負けた。
今日、走は絵を動かしにいった。声も出した。担当も組み替えてもらった。
動かす手は、もうある。動かす速さが、まだ足りない。
足りないのがどこかだけは、はっきりした。
スタンドの一列目で、日の丸の上着の男が手帳に何か書いた。走の背番号を、二度見てからだった。走は、それを見ていない。
*
三月。
走はノートに新しい行を書いた。
一七九センチ、七〇キロ。
中三の十二月、走は自分に一つ解禁を出している。三ヶ月の平均が月五ミリ以下になった、それだけを根拠にした線引きだった。そのとき走は、同じページにこう書いている。
――解禁。ただし、証明ではない。
書いておいてよかった、と走は思った。去年の四月が一七二センチ。この一年で、七センチ動いている。
走はその下に、短く書き足した。
――まだ、止まっていない。
同じ三月に、岳がユースを出た。走に組織を教えた立花は、卒業してトップチームの練習へ呼ばれていった。
最後の全体練習の日、走は岳を呼び止めた。
「岳さん」
岳は振り返って待った。急かさない男だった。
言うことは前の晩から決めてあったのに、喉が一度つかえた。
「二年、ありがとうございました」走は言った。「十一月のハーフタイム、岳さんが自分から先に話してくれたから、俺はあのあと言えるようになりました。あれがなかったら、たぶんまだ黙ってます」
岳は、少しのあいだ黙っていた。
「あれは、お前が先に左まで来たからだ」
「来ました」
「来い、とは言ってない」
「はい」
岳の口の端が、ほんの少しだけ動いた。
「……一つだけ、言っていいですか」走は言った。
「言え」
「去年、岳さんが、ここじゃ通用しない、って言ったとき。俺は、それを言える岳さんが、少し羨ましかったです」
言ってから、走は自分が何を口に出したのかを理解した。取り消したかった。取り消す言葉が、見つからなかった。
岳は、しばらく黙っていた。それから、走の頭よりずっと高いところで、短く息を吐いた。
「お前、それ、誰にも言ったことないだろ」
走は答えなかった。
「言えよ」岳は言った。「こっちは、お前の考えてること全部は分からん。分からんまま隣に立つのは、けっこうしんどいぞ」
「……はい」
「言えなくなると、こっちが先に潰れる」
岳は荷物を担ぎ直した。
「岳さん」走はもう一度呼んだ。「来年から、左に岳さんがいないの、けっこう困ります」
言ってから、顔が熱くなった。
岳は振り返らずに、片手を上げた。十一月の試合で、走の声に返したのと同じ上げ方だった。
「困れ」
背中が遠ざかっていく。走はその背中に、三年前と同じように頭を下げた。三年前と違って、今度は相手が、下げられていることを知っていた。
*
二年目の春が来た。
隣に並んでいた二つの背中が消えて、かわりに走は、引っ張る側へ回っていた。
新しい下級生が入ってくる。去年の走と同じ、身体のできた才能たちだ。紅白戦。ボールが右へ渡る前に、走は下級生の一人へ短く声を飛ばした。半歩、内。戸惑いながら足の向きを変えた直後、相手のウイングが縦へ踏み込む。抜けるはずの進路には、もうその子の身体があった。振り返った顔は、去年の走が立花へ向けたのと同じ顔だった。
走はうなずき返した。うなずきながら、なぜか嬉しかった。
練習の合間、海が水を飲みながら横へ来た。立花と岳が抜けたいま、この最終ラインと中盤を締めるのは、走と海の二人になっていた。
「今年のリーグ」海が言った。「日程、見たか」
「見た」
走の声が、少し硬くなる。海がそれを、また読んだ。
「第七節で青嵐だ」海は続けた。「今度は、逆のサイドじゃ済まない」
十二月、リクは走の逆で試合を決めた。次は、正面へ来る。走にはそれが分かっていた。あの男は、走のいる側へ回ってくる。中学のときからずっと、そうだった。
「お前、あいつと何かあるだろう」海は探るように言った。
走は、すぐには答えなかった。
答えなかったが、去年までのように、話を逸らしもしなかった。
「……ある」走は言った。「長い。そのうち話す」
「そのうちな」海は肩をすくめた。「一つだけ言っとく。お前の眼は、組織の中でこそ光る。一人で気負うと、いちばん危ない」
図星だった。走がいまいちばん恐れていることを、海はもう見抜いていた。
言えよ、と言われている。
そのうち、と自分で言った以上、いつかは言うのだろう。




