第118話 初めての全国
全国は、寒かった。
十二月の広島。名古屋から新幹線で二時間と少し。それだけで、降りた土地の空気は別物だった。会場の芝は冬でも青く、風には海の匂いが混じっていた。
受付で渡された大会の冊子に、出場クラブの名前がぎっしり並んでいる。ページをめくると、尾張SCの欄があった。先発の並びの中に、東走、とある。学年の欄に、一年、とある。
走は、そこを指で押さえた。
背番号をもらった日も、昇格の名簿に自分の名前を見つけた日も、嬉しかった。今日のこれは、そのどちらとも違う手触りだった。全国から集まったクラブの名前が並ぶ紙の、その同じ面に、自分の名前が同じ大きさで印刷されている。
「ここに載ってる」
走が冊子を向けると、隣にいた財前が覗き込んだ。
「載っとるな」財前は自分の名前も確かめてから言った。「印刷やと、なんか強そうに見えるな」
「見える」
桧山が横から手を伸ばして、自分の名前の字だけ確かめて、すぐ閉じた。
「見過ぎると緊張するんで」
「もう遅い」財前が言った。
ロビーには、全国から来た身体が並んでいた。どこのジャージも、中身が仕上がっている。速い脚、厚い胸、よく育った骨格。診断の眼を凝らすまでもない。ここでは、速いことは珍しくなかった。
ただ、と走は思う。
(――九十分の配分を知っている脚は、この中にどれだけある)
三年生には、最後の大会だった。立花は宿舎でもいつもどおり声を張り、岳はいつもどおり黙っていた。いつもどおりが少しだけ濃いことに、走は気づいていた。
*
初戦の相手は、九州のクラブだった。
整列のとき、相手の列は全員で声を出して気合を入れた。尾張は静かだった。
静かなのに、走の心臓だけがうるさかった。指先が冷たい。息が浅い。全国という言葉が、足首のあたりに重りで巻きついている。
走は、いつもどおりのことを言うことにした。
「海。内側、一枚だけ頼む」
「一枚な」海は前を向いたまま答えた。
「財前、俺が出た背中を」
「一枚だけ、やろ」財前が言った。「毎回言わんでええ」
笑いが小さく起きた。走の息が、そこで一段深く入った。
いつもの言葉に、いつもの返事が返ってくる。それだけで、身体が動きはじめた。
*
最初の五分で、走は気づいた。
右に、来ない。
東海予選のときのように、試合の中で捨てさせたのではない。最初から、来なかった。相手のビルドアップは走の側を一瞥もせず、逆へ逆へと流れていく。
予選の映像が、もう回っているのだ。初見の相手が、初手から右を消してくる。名前より先に、警戒だけが届いていた。
避けられた右で、走は暇にならなかった。
やることは、予選で覚えている。走は左へ、中へ、声と指を飛ばした。岳の間合いの外へ読みの一枚。中盤の受け渡しの内側に一枚。相手が右を避けて走る迂回路の、その先々へ、味方の壁を先回りで積んでいく。
迂回は、ただではない。
全国の速さで回り道を走り続けたぶんは、必ずどこかで脚から抜ける。十一月にも、走は相手十人ぶんの請求書を見ていた。今日はそれを、試合が始まる前から積みにいっている。
走の対面に立ったウイングは、ボールが来ないまま前半を過ごしていた。時々、所在なげに走を見た。走も見返した。それだけの間柄で、前半が過ぎていく。
一度だけ、左で肝の冷える場面があった。二枚の壁の外から強引に割られ、岳が振り切られかける。最後は授かった脚が追いつき、爪先で掻き出した。ボールはラインを割って、相手のコーナーになった。
その一本は、走と海で前に弾き返した。
*
前半四十分。
走は、この試合で初めて右を追い越した。
避けられ続けた側だ。相手は走が上がるところを見ていなかった。海が縦へ当てた球を桧山が落とし、落ちた先へ、走はもう走り込んでいる。速い折り返しは、戻ってきた相手の足に当たって外へ弾かれた。
尾張のコーナーキック。
前半四十一分、その一本から試合が動いた。海の蹴った球は速く、ニアで潰れた味方の頭上を越えて、ファーで立花が待っていた。主将のヘディングが、キーパーの指の先を抜けてネットに刺さる。
一対〇。立花は吠えなかった。ベンチへ向かって、拳を一度だけ突き上げた。
ベンチが跳ねた。控えの下級生たちが、寒さを忘れた声で叫んでいた。
走は走っていって、立花の背中に飛びついた。
「主将!」
「うるさい」立花は笑っていた。「お前が上がったからだ」
*
後半、迂回の代金が落ちはじめた。
相手の左サイドが、上がってこなくなった。半分のピッチだけで攻め続けたチームは、その半分から順に重くなっていく。相手ベンチは後半の頭に二枚を替えたが、替わった脚も、同じ迂回路を走らされるだけだった。
後半のなかば、相手の八番が膝に手をついた。ピッチの外まで届いていた監督の声が、初めて選手に届かなくなった。
後半二十三分、海が縦へ一本通した。抜け出したのは桧山だった。点の匂いに、今日も理屈より先に着いていた。キーパーの股を抜いて、二対〇。
走は、最後まで上下動をやめなかった。
九十分目の右サイドを、走は前半と同じ速さで駆け上がった。並んで走る相手は、もういなかった。
メインスタンドのどこかで、年配の声がした。
「あの右の子、まだ走りよる」
*
二対〇のまま、笛が鳴った。
全国の、最初の一勝だった。
岳が手の甲で額を拭って、短く息を吐いた。三年生の最後の大会が、もう少しだけ続くことになった。
「全国でも、今の一本は通ったな」
海がそう言って、走の肩を小突いた。走は頷いた。頷いてから、自分が笑っているのに気づいた。
引き上げる通路の壁に、公式記録の紙が貼り出されていた。スコア。得点者。交代。先発の欄に、東走の名前が印刷されている。財前がその紙を、スマホで撮っていた。
本部席のあった並びには、防寒着の大人が、今度は数えられないほどいた。
*
その夜の宿舎は、賑やかだった。
食堂で、桧山が二杯目の飯を盛りながら自分のゴールを解説し、立花に頭を押さえられていた。財前が撮った記録の紙の写真が、大部屋のあちこちで回っている。誰かが、キーパーの股を抜く瞬間をスローにして三回見せた。
消灯の前まで、部屋のあちこちでスマホが光っていた。誰もが家へ、勝ったと送っているのだろう。走も送った。母から、また犬のスタンプが三つ来た。
廊下に、勝ち上がりの紙が貼ってあった。
尾張SCの名前が、一つ上の段へ書き足されている。
同じ紙の下の山に、青嵐SCの名前があった。今日、向こうも勝っている。
走はしばらく、その紙を見ていた。
(――まだ、上がある)
「明日も勝とう」
声は、うしろから来た。財前だった。歯を磨きながら立っている。
「勝つ」
「そう言え」財前は笑って、走の背中を押して部屋へ戻した。
紙の前を離れるとき、走はもう一度だけ振り返った。
上へ行く道は、まだ何段か残っている。明日も勝ちたい、と走は思った。




