第117話 全国への一枚
ハーフタイムのロッカーは、湯気と土の匂いがした。
鬼塚が全体へ二つ、修正を出した。短い言葉だった。それが終わって、鬼塚はボードを立花へ渡した。
立花が走を見た。
「東。さっき岳に言いかけてたやつ、ここで出せ」
走は岳を見た。
岳のほうが、先に口を開いた。
「俺から言う」岳は汗を拭く手を止めずに言った。「左のウイング、俺の間合いに入ってきてない。一本も飛び込んでこん。……待たれてる。俺が足を出すのを待って、そこから外す形だ」
走は息を呑んだ。
数えていたのは走で、なかで何が起きていたかを知っていたのは、岳だった。
「なら、間合いの一個前があります」走は言った。「あのウイングは、仕掛けの前に必ず一度、外へボールを触ります。触った足が芝に着くまでの半歩、身体が止まる。そこで詰めれば、縦も中も、まだ選んでいません。選ぶ前に、着けます」
「待たれる前に行け、ってことか」
「はい。あと、受け渡しの内側に一枚。右でやった形と同じです。間合いはいまのままでいい。読みだけ、先に置いてください」
岳は目を閉じて、頭のなかで一度やってみるような顔をした。
「……触ったとこ、な」
「触ったとこです」
「一本目でずれたら、すぐ言え」岳は目を開けた。「途中で直せるなら、そのほうが早い」
立花が手を叩いて、全員を立たせた。
「右も左も閉じるぞ。あと四十五だ」
*
後半三分、最初の一本で見えた。
相手のウイングが外にボールを触る。触った足が芝に着く。その半歩のあいだに、岳はもう間合いを詰め終えていた。縦も中も、選ぶ前に消えている。ウイングは戻すしかなかった。
「岳さん、それです!」
走は思わず声を出していた。岳は振り向かなかった。振り向かないまま、片手を一度だけ上げた。
次の一本も、その次も、同じところで終わった。授かった身体に読みが乗ると、壁は動く壁になった。
相手のベンチで、監督が今度は左のプランを畳むのが見えた。前半に右を捨てた人だ。畳むのが早い。畳んだ先が、もうどこにも残っていないだけだった。
両側を失った相手は、真ん中から振り直そうとした。後半十五分、逆へ速い展開が一本通る。右のスペースが一枚空く――去年なら失点していた場面だ。だが走は、ボールが振られるより前に、落ちる芝の一点へ半歩詰めていた。走り込んだ選手の足が行き場を失い、つんのめって止まる。
何も、起きなかった。
「ナイス、東!」
海の声が飛んできた。走は親指を立てて返した。
「海の絞りが先だ!」
「どっちでもいい。続けろ」
続けた。閉じた。相手のシュートは、後半に一本もゴールの枠へ入らなかった。
*
七十一分、試合が動いた。
右は、前半のうちに捨てられている。捨てられた側の前は、走のために空いていた。
走が対面を詰まらせて奪った一秒を、海が前へ運ぶ。走は追い越して上がった。
この時間、ピッチの脚はどこも重い。相手は九十分の配分を間違えたのではない。両側を消され、真ん中で振り直し続けた四十分ぶんの無駄走りが、いま請求書になって届いているだけだ。走の脚だけが、まだ満タンだった。
相手の左サイドバックが遅れて寄せてくる。寄せた分だけ、内側が空く。走は顔を上げなかった。上げなくても、空く場所は走が空けさせた場所だ。速いグラウンダーを、内側へ折り返した。
ニアで味方がひとり、相手を一枚連れて潰れる。ボールはその踵のうしろを通った。
桧山が、最初からそこにいた。
点の匂いのする場所に、理屈より先に着いている男だった。合わせただけの右足が、ネットを揺らした。
「やった!」
声が出た。自分の声だと気づいたのは、走り出してからだった。
桧山が両手を広げて突っ込んでくる。走はその胸を受け止めて、そのまま二人で倒れた。潰れた味方が走ってきて、上から乗った。
「桧山、決めたな!」
「東のあれ、見えてた!」桧山が叫んだ。「踵の後ろ、通してくるやつだって!」
走は笑った。見えていたのか、と思った。自分が空けさせた場所へ、味方が先に立っていた。それは走が設計した一点であり、桧山が信じて走った一点でもあった。
*
一対〇のまま、笛が鳴った。
全国が、決まった。
ベンチから人が湧いて、ピッチの真ん中で塊になった。財前が走の首に腕を回して、そのまま輪の中へ引きずり込んだ。誰かが誰かの名前を叫んで、誰の声かはもう分からなかった。
「全国、行けるぞ!」
誰かがそう叫んで、輪がもう一度跳ねた。
立花が走の背中をばしんと叩いた。手の熱が、汗の上からでも伝わってきた。
「見たか、東」立花は歯を見せて笑っていた。「お前の眼が十一人になると、こうなる」
走は頷いた。頷きながら、顔が勝手に緩んでいくのが分かった。
左から、岳も歩いてきた。汗を拭う手を止め、走の正面に立つ。
「東」岳は短く言った。「お前の隣は、守りやすい」
三年前、走を眼中にも入れなかった男の言葉だった。
走は少しのあいだ、うまく声が出なかった。それから、ちゃんと顔を上げて返した。
「……俺も、隣が岳さんで助かりました」
岳は鼻から短く息を抜いて、走の頭を一度、乱暴に叩いた。
輪の外では、眞鍋がタブレットを胸に抱えたまま泣いていた。数字の人が、今日だけは何も記録していなかった。
走はそこまで歩いていって、頭を下げた。
「眞鍋。左に九本って、あれがなかったら言えてない。ありがとう」
眞鍋は顔を上げて、一度しゃくり上げてから、いつもの声で言った。
「……後半は、右が二本で左が四本です。ちゃんと減りました」
「減ったか」
「減りました」
整列のとき、相手の十番が走の前で足を止めた。何も言わなかった。ただ一度、走の顔と背番号を順に見て、それから礼をして去った。覚えられた、と走は思った。
鬼塚はベンチの前で腕を組んだまま、近づいてくる走を待っていた。すれ違いざま、一言だけ落とした。
「……拾ったな」
スタンドの端では、防寒着の三人が紙をしまい、立ち上がるのが見えた。仕事を終えた人の立ち方だった。
*
帰りのバスは、最後まで騒がしかった。
誰かが応援歌を歌い出し、途中で歌詞が分からなくなって、そのまま笑いになった。桧山が自分のゴールを三回再現して、三回とも財前に押さえつけられた。
隣の席で、財前がスマホを突き出してきた。別会場の結果だった。青嵐、と財前が言った。車内の騒ぎが、ひとつ大きくなった。同じ十二月の、同じ全国に、あの二人がいる。
走はスマホを財前へ返して、自分の電話を出した。
電光掲示板を撮った写真が、一枚だけ残っていた。尾張の側に1、相手の側に0。
母に送った。
返事は、名古屋の灯りが三つ流れるあいだに来た。文字ではなかった。手を叩いている犬のスタンプが一つ、続けて二つ、三つ。
走は声を出して笑った。
窓の外を、名古屋の灯りが流れていく。
十二月は、広島だ。




