第116話 その右を見ている人
十一月の会場は、朝から息が白かった。
勝てば、十二月の全国へ行く。負ければ、一年目の公式戦がここで終わる。そういう一戦だった。
相手は静岡のクラブで、この大会の全国に三年続けて出ている。青いユニフォームは、並んで立っているだけで揃って見えた。アップの声が、こちらの倍そろっていた。
ロッカーで、鬼塚は短かった。
「いつもどおりやれ。こういう日は、いつもどおりが一番できたやつが勝つ」
立花が全員の顔を一度ずつ見て、行くぞ、とだけ言った。岳は何も言わずに、最後に部屋を出た。
走の対面は、十番だった。
診断の眼で視る。両足だ。縦へ行く形と、中へ切る形が、同じ重心から出る。癖はある。だが癖が二つある選手は、癖のない選手より読みにくい。半歩で片方を消しても、もう半分が残る。
前半三分、最初の仕掛けが来た。
十番がボールを受ける。重心が沈む。爪先が外を向く。縦だ。走は読んで、外の芝を先に塞いだ。加速する場所は消えている。先週までと、同じ手だった。
十番は止まらなかった。
止まらずに、塞がれた外をひと目で捨て、中へ切った。逆足のインサイドに持ち替える動きが、癖のうちに入っていない。振りの小さいシュートが、ペナルティの角からゴールの遠い隅へ飛ぶ。鷲尾が横へ跳んで、指先で外へ弾いた。
消した。なのに、撃たれた。
(――片方じゃ、足りない)
前半十五分までに、同じ形がもう一度来た。また中へ切られ、ブロックに当たって外へ出た。失点はしていない。だが時間の問題だという顔を、十番はしていた。
*
プレーが切れた間に、走は海と財前を呼んだ。
「中を切られてる」
「見てる」海は前を向いたまま言った。「で?」
「予選と同じ形だ。中に一枚、先に立ってくれ」
「同じ形で足りるのか」
「足りない」走は言った。「あいつは持ち替えが速い。外を消した半歩で、もう内に入ってる。消す順番を作る時間がない」
「同時に消せと」
「同時に消したい。俺が縦、海が内。同じ拍で」
「……やってみる」
「財前、背中は一枚だけ」
「一枚な」財前は頷いた。「予選と同じやろ」
「同じだ。相手が違う」
海が中盤へ短い指示を二つ出した。内側の一枚が半歩絞り、前線では桧山が、プレスをかける角度を少しだけ変えた。外から見れば、何も変わっていないように見える変化だった。立花が振り返って、一度だけうなずいた。
次の仕掛けから、ピッチの右側の形が変わった。
十番が縦を見る。外の芝は、もう走が塞いでいる。中を見る。切り返す先に、海の置いた一枚が先に立っている。両方を消された十番はボールを持ち直し、持ち直した一拍で挟まれた。
奪ったのは走ではない。三人でつくった形だった。
同じ詰みが、続いた。
十番は苛立たなかった。詰まされるたびに首を回し、盤を計算し直す顔をした。三年全国へ出ているクラブのエースは、癇癪ではなく手数で返してくる。ワンタッチで味方を使い、裏へ抜け直し、それでも走の背中には届かなかった。届かない理由を、たぶん本人だけがまだ掴めていなかった。
ベンチ脇では、眞鍋がタブレットに数字を入れていた。仕掛けさせなかった回数の欄は、今日は走一人の欄ではなくなっている。
*
右から来る攻撃は、前半のうちに減りはじめた。
減ったぶんは、左へ寄った。
岳の側だった。
左で、岳が授かった身体ごと相手を止めるのが見えた。一度は置き去りにされかけて、それでも追いつき、肩から前に入って潰した。
こぼれ球が走の足元へ転がってくる。走はそれを拾って、前へ叩いた。
「岳さん! 今の戻り、助かりました!」
岳はこちらを見なかった。見ないまま、片手を一度だけ上げた。
走は診断の眼で、その守り方を視ていた。岳は読んでいない。間合いで守っている。相手がどちらへ行っても届く距離を身体が知っていて、その距離を先に取る。授かった者の守り方だ。正しい。だが相手の数が増えれば、間合いは一人ぶんしか張れない。
眞鍋の画面では、仕掛けの本数が偏りはじめていた。前半で、右へ三本。左へ九本。
言うべきか。走は一度、言葉を飲んだ。
二年上だ。三年前、その背中に在学中ずっと届かなかった人だ。
だが飲んだ息は、そこで止まらなかった。
この夏、走は岳に合図を一つもらっている。「浮いた」の二音だ。あれは岳のほうから、走に寄こしたものだった。
ボールが外へ出た。走は左へ小走りで寄って、岳の肩の高さへ声を置いた。
「岳さん。前半、仕掛けが左に寄ってます。右が三本で、左が九本」
岳の眉が、わずかに動いた。
「……数えてんのか、お前」
「眞鍋が数えてます」走は言った。「後で、分け方を変えませんか。俺の側が空きすぎてる」
岳はしばらく黙っていた。それから、汗を手の甲で拭った。
「ハーフタイムだ」
「はい」
「言え。そのときに、全部」
岳はそれだけ言って、自分の位置へ戻っていった。
言えた、と走は思った。届いたかどうかは、まだ分からない。それでも、飲み込んだままハーフタイムを迎えるよりは、ずっとよかった。
*
スタンドの端に、あの二人がいた。
今日は、三人になっていた。
手元の紙が風でめくれて、真ん中の一人がそれを押さえた。三人とも、私服の上に同じ色の防寒着を着ている。応援はしない。声も出さない。視線はボールと逆の側にあった。ボールのない右で、走が立ち位置を半歩ずつ直し続けるのを、紙の上のペンが追っていた。
何を書いているのかは、ここからでは読めなかった。
*
前半四十分すぎ、相手のベンチが動いた。
監督が十番を呼び、ボードを見せる。短いやり取りのあと、十番は逆のサイドへ回った。入れ替わりに、左にいたウイングが走の前へ来る。両足ではない。足の速い、縦一本の選手だった。
縦一本なら、視える。
走は半歩の位置を直した。前半の残り、その選手の仕掛けは一度も走の背中へ届かなかった。
笛が鳴って、前半が終わった。〇対〇。
引き上げる列の息が白かった。財前が走の背中をひとつ叩いて、追い越していった。ベンチの前では鬼塚が、ボードを持たずに立って選手を迎えていた。
*
ベンチへ戻る途中、走は相手のベンチを見た。
監督が、ボードの右半分を布で消していた。
消したところには、もう何も書き込まれなかった。
相手は、右を捨てた。
捨てられた攻撃の行き先は、一つしかない。
ロッカーへ降りる通路で、岳が先を歩いていた。
その背中に、走は追いついた。
言うことは、もう決まっていた。




