第113話 ベンチから視える
リーグ第五節。試合前のロッカーで鬼塚が読み上げた十一の番号に、走の名前はなかった。
右サイドバックは須賀だった。
鬼塚は理由を言わなかった。ボードを閉じ、いつもの短い指示だけ出して、先に外へ出ていった。
(――下げられた)
その言葉が内側で鳴った瞬間、走は前の生の午後を思い出した。
まだ走れた。走れると自分で分かっていた。それでも名前は呼ばれなかった。
六十八年ぶんの時間を挟んでも、この感覚だけは古びない。
だが今日は、心当たりがあった。
一週間前、走は自分の設計ごと負けている。
走はベンチの端に腰を下ろした。
キックオフから十分、走はずっと右サイドを見ていた。
須賀が対面に縦を見せられ、内へ切り返される。走なら半歩内で消せた場所だ。
頭の中で勝手に自分の脚が動く。ベンチに座ったまま、走はまだピッチで守っていた。
十二分に、須賀が一本止めた。
縦へ出ようとした相手の前に、先に立った。走が先週渡した「踵で走る、止まるとき外へふくらむ」を、この人は使っていた。
「よし!」
走は声を出した。
出してから、自分でも少し驚いた。
うれしかった。
うれしいのと、そこに立っていたかったのが、同時に来た。
二つは、並んだまま消えなかった。
「東さん。そこじゃないです」
隣に眞鍋が座っていた。膝にタブレットを載せ、画面から目を上げずに言う。
「先週から作ってる項目があります。見ますか」
差し出された画面には、見慣れない表が出ていた。
左の列に時刻。右の列に番号が二つずつ。相手ベンチの登録が七人で、うち四人はもうウォームアップに出ている。誰がいつ立ち上がったかまで、分単位で記録されていた。
「私、三年ぶん東さんの数字を取ってきましたけど」
眞鍋は淡々と言った。
「先週の試合、私のグラフはどこも間違ってませんでした。東さんは相手の脚を削り切ってます。数字は全部、東さんの勝ちでした」
「……はい」
「なのに負けました。つまり、私が取ってなかった数字があるということです」
「六十三分です」
走は言った。
「あの交代の時刻、残ってますか」
「残ってます」
「その前の五分、相手のベンチで誰が立ってたか、分かりますか」
眞鍋が画面を繰った。
「五十六分から二人。うち一人が十四番です」
「……七分前から、立ってたんですね」
「立ってました」
眞鍋は言った。
「私、そこはメモしてたんですけど、東さんに言う項目だと思ってませんでした」
「言う項目です」
「そうみたいですね」
眞鍋はタブレットに何か打ち込んだ。
「東さん、私、一つ気になってることがあるんですけど」
「なんですか」
「交代が入った直後、何分かだけ、相手の守り方がばらつくんです」
走は顔を上げた。
「見てましたか」
「見てました。毎回じゃないです。ばらつかない日もあります」
眞鍋は正直だった。
「ばらつくのは、入ってきた選手がどこを見るか決まってないときだけです。前から決めてあるチームは、ばらつきません」
「……それ、見分けられますか」
「たぶん。交代の直後に、入った選手が誰かを指すかどうかです」
前半十九分に、失点した。
中央でこぼれ球を押し込まれた形で、右とは関係のない一点だった。〇対一のまま、前半が終わる。
後半、走はピッチを見るのをやめた。
ベンチを見た。
ピッチの十一人は、表に出ている筋肉だ。それを動かしているのは、タッチラインの内側に座っている側だった。
後半十一分、相手が二枚替えた。前の二枚だ。
「一回目」眞鍋が時刻を打ち込む。「あと二回。カードはあと三枚です」
走は交代の直後を見た。
入ってきた選手が、味方を指していない。誰を見るのかを、ピッチの上で確かめ合っている。
マークの受け渡しが、一度だけ遅れた。
そのあと、縫い目が閉じるように、チームがまた一つの形へ戻った。
何分だったかは、数えそこねた。
後半二十二分、相手が三枚目を切った。今度は中盤だった。
その直後だった。
海が最終ラインの前で拾い、顔も上げずに左へ振る。岳が一列押し上げてクロス。中央へ走り込んだ立花が、頭で押し込んだ。
一対一。
立花は誰にも掴まれていなかった。入ったばかりの中盤が、誰を見るのかをまだ知らなかったからだ。
走は眞鍋を見た。眞鍋も、走を見ていた。
同じ二秒を、二人が同じ理由で見ていた。
後半三十五分、須賀の背後を取られかけた。
「須賀さん、後ろ!」
走は立ち上がって叫んでいた。
考えていなかった。名前と二音が、先に出た。
須賀が振り返って、半歩戻った。ボールが外へ流れた。
走は座り直した。
座り直してから、自分の手が汗ばんでいるのに気づいた。
試合はそのまま終わった。一対一。
鬼塚は後半に二枚使い、三枚目は最後まで切らなかった。走は九十分、一度も呼ばれなかった。
引き上げるとき、鬼塚が走の横を通った。
「座ってるのは、退屈だったか」
「いえ」走は答えた。「よく視えました」
鬼塚は足を止めなかった。
ロッカーで、走は須賀を待った。
「須賀さん」
「おう」
「後半三十五分の前、相手が三枚目を入れましたよね」
「入れたな」
「あのあと、やりにくかったですか」
須賀は少し考えた。
「やりにくかった。誰が来るか、二分くらい読めなかった」
「二分ですか」
「体感だけどな。……なんだよ、それ聞いてどうすんだ」
「使えると思って」
「使えるのか、あれ」
「たぶん」
須賀は「変なやつだな」と言って、笑った。
その夜、走はノートを開いた。
先週とは違って、書くことは決まっていた。
――一つ。代えの利かない選手だけを削る。前の脚は替えが利く。中盤の底と、最終ラインの中央は、替わりにくい。
――二つ。脚ではなく、交代枠を削る。五人と三回は有限だ。前半に使わせたカードは、終盤には存在しない。
――三つ。交代の直後を狙う。入った選手が、誰を見るかを知らない時間がある。何分続くかは相手による。長い日もあれば、無い日もある。
三行目のところで、走はペンを止めた。
何分か、は分からない。分からないことは、分からないと書いておく。
その下に、もう一行足した。
――ベンチが立つ時刻を、眞鍋さんに頼む。
ペンを置いて、走は三行を読み返した。
削るのは脚だ、と六年間思ってきた。
脚だけではなかった。
(――俺の敵は、十六人いる)
書いてから、走はもう一度ベンチの絵を思い出した。
今日、走が座っていたのは、相手ベンチのほうではない。
視なければならない十六人目は、まだ一組ある。




