第111話 組織の中の個
右サイドバックの席を、走はすぐに掴んだ。
鬼塚が言ったとおり、走が右、岳が左。ユース一年目の最年少が、いきなり最終ラインの一枚を任された。
練習場は、去年までいた場所とは寸法から違った。芝は毎日刈られ、シャワーの湯は途中でぬるくならない。そして何より、並んでいる身体の平均が一段上だった。一七二センチの走は、最終ラインの四人のなかでいちばん小さい。
それでも走は、初日から一本も外れずに右へ入っている。
だが、その席は思っていたようには機能しなかった。
最初の練習試合の前半、立花が走に向かって手を上げた。
三年の主将だ。ずば抜けてうまくはない。だが、このチームの全員がこの男の声で動く。
「東、行け!」
「はい!」
走は声を返して、右を上がった。
上がった先で、立花も同じ場所へ走り込んできていた。
二人で、同じ芝を使った。
ボールは通ったが、行き先が一つ潰れた。
三年前から、走は上がるときに手を上げる。海はその手を見て落ちる。財前は五メートル寄る。中学の三年で、そこまでは作った。
ここでは、その合図を知っているのが海だけだった。
走は次の切れ目に、立花のところへ行った。
「立花さん」
「おう」
「さっき、同じとこに入りました」
「入ったな」
「立花さんの『行け』は、俺が外を回れという意味ですか」
立花が少し眉を上げた。
「聞くのか」
「聞きます」
「……外だ。俺は内へ入る」
「じゃあ、俺が手を上げたときは」
「手?」
「上がる前に、右手を上げます。中学からやってました」
「知らん」
立花はあっさり言った。
「知らんから、今日は俺が先に行った」
走はうなずいた。
合わないのは、どちらかが間違っているからではない。
この人の合図と、走の合図が、まだ一つも噛み合っていないだけだ。
「一つだけ、先に合わせませんか」
走は言った。
「一つ?」
「全部は無理です。今日は、俺が手を上げたら立花さんは内、でお願いします」
「それだけか」
「それだけです」
立花は少し笑った。
「お前、注文の出し方うまいな」
「三年、練習しました」
後半の五分で、走は右のウイングを詰まらせた。
行き場をなくしたボールを、足先でさらう。
顔を上げる。
立花は内にいた。
走は出した。
「今の!」
走は叫んだ。
分析より先に、声が出ていた。
「おう!」
立花が受けて、前を向いた。そこから三本つながって、桧山がシュートまで持っていった。
入らなかった。
入らなかったが、走は少しのあいだ走るのをやめられなかった。
噛み合わないことが、思っていたほど嫌ではなかった。中学の三年は、噛み合う形を一から自分で作った。ここには、もう回っている形がある。自分の一枚を、その上にどう乗せるか。
難しい。難しいのに、足が軽かった。
左で、岳が一列押し上げていた。
走が右で相手を浮かせた瞬間に、岳が上がっている。誰も指示していない。岳が自分で見て、上げた。
プレーが切れたとき、走は岳に声をかけた。
「黒木さん、いまの押し上げ」
「見てたのか」
「見てました。あれ、毎回やってもらえますか」
「毎回か」
「毎回です」
「条件つけていいか」
「どうぞ」
「お前が浮かせたのが分かるようにしろ。俺は左から右を見てる。手を上げられても、遠くて見えん」
走は少し考えた。
「声にします」
「なんて言う」
「浮いた、で」
「二音だな」
「二音です」
「覚えた」
試合のあと、立花が隣に来た。
「東」
「はい」
「お前の右、完璧だな」
褒めているのに、眼は笑っていなかった。
「一度も抜かれてない。……で、うちは何点取った?」
走は答えた。
「〇点です」
「そうだ」
立花は言った。
「お前、中学で組織はやってきたんだろ。海に聞いた」
「やってきました」
「じゃあ、足りないのは何だ」
走は少し考えてから、答えた。
「合図です」
「そうだな」
立花はうなずいた。
「お前は、十一人でやる方法を知ってる。ただ、ここの十一人の言葉を知らん。それだけだ」
立花はそう言って、走の肩を一度叩いた。
「一年かけて覚えろ。……お前、覚えるの速そうだけどな」
「速いです」
「自分で言うな」
立花は笑って、行った。
その夜、走はノートを開いた。
書いたのは、三行だけだった。
――立花さん「行け」=俺は外。あの人は内。
――黒木さん「浮いた」=左を一列押し上げる。
――海の八秒は、そのままでいい。
書いてから、走はそのページをしばらく見ていた。
三年かけて、走は三人ぶんの言葉を作った。海の手。財前の五メートル。大村と相馬の三音。
ここには、また新しい言葉がある。
全部で十人ぶんだ。
(――もう一回、やりたい)
後半五分の、あの一本だった。
走が詰まらせて、顔を上げて、立花が内にいた。
あれをもう一度、今度は最後まで通したい。
走はノートを閉じて、明日の欄に、練習でやることを一つだけ書いた。




