第110話 岳の背中、ふたたび
二日目の朝、走は隣のピッチで実戦形式を見ていた。
最終ラインの中央に、頭ひとつ抜けた男がいた。
黒木岳。高校三年。
去年の七月、走は二階の窓からこの人を見下ろした。その週の金曜に、クラブハウスの外で立ち話をした。
今年から、同じピッチだ。
走がまず見たのは、位置だった。
中央にいる。
去年、この人は右にいた。右で燃料を使い切って、押し出されかけていた。
そこから中央へ動いている。
《観察/黒木 岳・高三》
位置 ――― 右から中央へ。今年から。
初速 ――― 落ちていない。三年前より速い。
中央での往復 ――― 右のときより短い。燃費は改善。
残っている難所 ――― 前へ釣り出されたあとの、背中の一枚。
一度、こんな場面があった。
相手のセンターフォワードが引いて受け、岳をじりじり前へ釣り出す。岳が食いついた瞬間、空いた背中へ別の選手が斜めに走り込んだ。
中央のもう一枚が埋めようとスライドする。だが半歩届かない。
生まれた隙間に縦パスが通り、飛び出したキーパーが爪先ひとつで掻き出した。芝が削れて白い粉が舞う。
岳はその一連のあと、自分の立っていた場所をしばらく見つめていた。
実戦が切れると、岳が走に気づいた。
大きな身体がゆっくり近づいてくる。
「来たか」
中一の終わりに「次はユースで待ってる」と言った男の、答え合わせだった。
「来ました」
走はそう言った。
言ってから、自分が笑っているのが分かった。
「やっと一緒ですね」
「気持ち悪いこと言うな」
「去年もそう言われました」
「言ったな」
岳は口の端を歪めた。
「中央、いつからですか」
走が聞いた。
「今年から」
岳は言った。
「去年、右で四試合しか出とらん。冬に監督と話して、中央を試すことになった」
「どうですか」
「楽だ」
岳はあっさり言った。
「走る距離が半分になった。九十分、脚が残る」
「よかったです」
「よくない」
岳は言った。
「楽になったぶん、別のが来た。中央は、遅れた一歩が全部失点になる」
走は黙って続きを待った。
「さっきのあれだ」
岳は顎で、さっきの場面のほうをしゃくった。
「引いてこられると、俺は出たくなる。出たら背中が空く。分かってても、出る」
「出たくなるのは、身体が届くからです」
走は言った。
「届かない人は、最初から出ません」
岳がこちらを見た。
「褒めてんのか」
「事実です」
「相変わらずだな、お前」
その日の全体練習の終わりに、鬼塚が二人を呼んだ。
「黒木。残りの一年、左をやってみろ」
岳の眉が動いた。
「左ですか」
「中央は、お前にはもったいない。あの初速を中で使うのは、半分しか使っとらん」
鬼塚は淡々と言った。
「右は東に任せる。お前は身体で守る。東は読んで守る。思想が逆の二人を、同じ最終ラインの端と端に並べる。噛み合うか、試す」
それは、走をユースの右サイドバックに据えるという宣言でもあった。
走は自分の心臓が一つ大きく打つのを感じた。
岳は少し黙った。
「……左は、やったことがないです」
「やってみろ」
「やります」
岳はそれだけ言って、走をちらと見た。
「東。左の守り方、お前、教えられるか」
走は少し驚いた。
三年前、眼中にも入れなかった男が、いま走に聞いている。
「教えられます」
走は言った。
「ただ、俺は右しかやったことがないので、鏡に映したやつになります」
「それでいい」
練習のあと、二人はピッチの隅に残った。
走はコーンを二つ置いた。
「左は、利き足の関係で、縦と中の値段が違います」
「値段」
「右の選手が左に立つと、身体の開き方が逆になります。縦を切ると中が空きやすい。だから、切る順番を右と逆にします」
走は歩きながら説明して、それから一本やってみせた。
岳が同じ形をやった。
一本目は、身体の開きが足りなかった。
「もう半歩、外です」
「これか」
「それです」
二本目で、岳の足が正しい場所に着いた。
三本目で、岳は自分で「分かった」と言った。
走は少し驚いた。
この人は、覚えるのが速い。
「東」
岳が言った。
「こっちからも一つ聞く」
「はい」
「お前、さっき番場に当たられて残ったろ。あれ、どうやってる」
「胸の一段下です」
「一段下」
「岳さんが去年やってたのを、窓から見て真似しました」
岳が、そこで初めて笑った。
三年前の、鷹揚な絶対者の笑みではない。
「見てたのか、あれ」
「見てました」
「盗むな」
「盗みます」
「うっわ」
岳は笑って、それから自分の肩を回した。
「もう一回やれ。角度、見てやる」
走は肩から入る形を三本やった。
二本目で、岳が言った。
「いまの、肘が下がった」
「下がりましたか」
「下がった。そこ落ちると、相手の腰が先に入る」
走はもう一本やった。
「いまのだ」
「……ありがとうございます」
「盗んだぶんは返す」
岳はそう言って、立ち上がった。
その日の最後の紅白戦で、右に走が、左に岳が立った。
同じ最終ラインの、端と端だった。
前半の途中で、相手がこちらの左を突いてきた。
岳の背中が空きかけた。
「黒木さん、後ろ!」
走は叫んだ。
岳が半歩戻った。
ボールが外へ流れて、スローインになった。
岳が振り返って、片手を上げた。
「東!」
「はい!」
「いまの、もう一回言え!」
走は笑った。
「後ろ、って言えばいいですか」
「それでいい。早いほうがいい」
三年前、この人は走の名前を知らなかった。
いま、同じピッチで、名前を呼び合っている。
それだけのことが、走には妙に長くかかった気がした。




