第109話 ここも、また下から
初日の朝、走は七時十五分に部屋を出た。
桧山が本当に声をかけに来た。
グラウンドまでの五分で、走は二つ質問をして、二つとも答えが返ってきた。集合は何時に締まるのか。水は自分で持っていくのか。
「お前、質問多いな」
「多いです」
「まあ、聞くやつのほうが早く慣れるわ」
ピッチに立った瞬間、走は息を一度、止めた。
周りが、大きい。
それも全員がだ。下の学年から上の学年まで、そこにいる誰もが三年前の岳のような身体をしていた。
走は一七二センチある。同学年の平均には、もう届いている。
だが二つ上には一八〇を超える子が何人もいた。厚みが二年ぶん違う。
走はまた、その中でいちばん薄い一人になっていた。
(……ここは、岳さんが標準の世界か)
最初のミニゲームで、接触の質が違うのがすぐに分かった。
肩が当たった瞬間の重さが、去年までと別物だった。
走は二本、外へ押し出された。
三本目で、当たり方を変えた。
正面から受けずに、相手の胸の一段下へ肩を入れる。去年の七月、二階の窓から岳がやっているのを見た形だ。
流れなかった。
四本目も、流れなかった。
走は自分の背中の感触を確かめた。
当たり方は、変えられる。変えれば、今日からでも持つ。
紅白戦のメンバーが分かれたとき、対面のウイングが走を上から下まで眺めた。
番場。一つ上の、主力の右ウイングだ。縦に速く、点も取る。
「お前が、東?」
番場は口の端で笑った。
「名簿の四番目って聞いたけどよ。……九十分走るだけの田舎の子が、なんで四番なんだ?」
走は答えなかった。
ただ、腰を落とした。
答えるかわりに、走の眼が灯る。
縦は本物に速い。だが番場は踵から強く地面を叩いて走る。強く叩くほど、次の一歩までの空白は深くなる。速さと引き換えの、力の抜ける谷だ。
三年間、走はこれを数えてきた。数え方は、上がっても変わらない。
試合が始まった。
番場が縦へ仕掛けてきた。
走は削らなかった。半歩を譲って走らせ、番場の加速に付き合う。そして、あの谷が来る一瞬。番場の脚から力がふっと抜けたその半歩へ、走は身体を先に置いた。
抜けるはずの縦の芝が、もうない。
番場の爪先が行き場を失って、外へ流れた。
「よし」
走は短く言った。
自分でも、思ったより声が出た。
近くにいた同学年が振り返った。
「東、いまの止めたの?」
「止めた」
「うっま」
二本目も、同じだった。番場が加速する。谷が来る。走がそこに立っている。
三本、四本。番場は力でこじ開けようと、さらに強く踵を打った。だが強く叩くほど、谷は深くなる。
六本目の折り返しで、番場の肩が大きく上下した。
もう、一本目の速さがない。
番場が、膝に手をついた。走を見る目から、さっきの笑みが消えている。
「……お前、なんなんだよ」
番場は、息の下から言った。
「削られてもねえのに、なんで俺だけ、こんなに疲れてんだ」
「踵です」
走は答えた。
「踵で走ると、次の一歩までの間が空きます。そこに先に立ってるだけです」
番場は口を開けて、それから閉じた。
「……説明すんのかよ」
「聞かれたので」
「気持ち悪いな、お前」
そう言って、番場はピッチへ戻っていった。
言い方はきつかったが、背中は怒っていなかった。
中盤に、海がいた。
同じ日に上がってきた相棒だ。
「海」
走は呼んだ。
「もう一本」
海が顔を上げた。
走は右の外を上がった。
手を上げる。海がそれを見る。
落ちてきたボールが、走の足の三歩先にあった。
合った。
去年の秋から何十回も合わせた、あの距離だった。
「東」
海が言った。
「八秒だ。今日は八秒で戻れ」
「戻ります」
「九割だからな、俺は」
海は自分の右膝を一度叩いて、中央へ戻っていった。
練習が終わって、鬼塚が走を呼んだ。
この春から、ユースの監督も兼ねている。
「東」
「はい」
「番場を、削らずに黙らせたな」
「はい」
「何をした」
走は答えた。
「踵で走る選手の、力が抜ける半歩に先に立ちました。三年やってきたやり方です。上でも通じました」
「たまたまか」
「たまたまではないです」
走は言った。
「ただ、あの人は初対面でした。二度目は、走り方を変えてくると思います」
「変えられたら」
「そのとき考えます。……あと、一つ、今日できなかったことがあります」
「言え」
「番場さんが外へ流れたあと、戻りが一歩遅れました。抜かせない代わりに、その次が間に合ってません」
走は言った。
「次は、あの戻りにも間に合わせたいです」
鬼塚はしばらく走を見ていた。
「お前の九十分は、ここじゃ全員が持ってる」
「はい」
「前半に流す小手先も、いずれ全部読まれる」
「はい」
「せいぜい、また何か拾ってみせろ」
突き放しではなかった。
また拾ってみせろ――去年この人がくれた言葉の続きだった。
その夜、走は自室でノートを開いた。
今日の練習量、眠った時間、翌朝へ残る疲労。
自分の身体の帳簿を、走は毎日つけている。三年つけてきて、一度だけ、書いた次の日に自分で線を越えた。八月二十日の一行は、いまも消していない。
ページの端に、走は今日ぶんを書き足した。
――番場。踵。谷。当たり方を変えれば、この身体でも残る。
――戻りが一歩遅い。
窓の外に、暗いユースのグラウンドが広がっている。
ここには岳がいる。名古屋のもう一方の端には、青嵐のリクとソラがいた。
ここも、また下からだ。
だが今度は、下ろされてそこにいるのではない。自分で選んで、この最下段を踏んだ。
走は窓を細く開けた。
夜の芝の匂いが、湿って上がってくる。三年前より、ずっと広い。
明日は、あの戻りを試す。
早く朝になればいい、と走は思った。




