第108話 次の入場券
四月の朝、走は寮の部屋を移った。
ジュニアユースの棟から、ユースの棟へ。
廊下を二つ折れて終わりだった。百メートルもない。
段ボールは二つで足りた。スパイクと練習着、体重計。それから三年ぶん書き溜めたノート。
ノートは、七冊になっていた。
走は荷造りの途中で、いちばん古い一冊を開いた。
中一の四月。
一四八センチ。四〇キロ。
その下に、同じ数字が縦に何行も並んでいる。五月も六月も、七月も八月も同じだ。九ヶ月、走の身体は動かなかった。
走はページをめくった。
十二月。一四八センチ、四一キロ。半年で一キロ。
三月。一五三センチ。
中二の四月から、数字が動きはじめる。九センチ、八キロ。
中三で、さらに九センチ、九キロ。
最後のページに、昨日書いた行があった。
――一七二センチ。六二キロ。
走はその二つの行を、同時に見た。
一四八と、一七二。
二十四センチのあいだに、三年が入っている。
「東、それ全部ノートかよ」
財前が段ボールを覗き込んだ。
荷物を運びに来ていた。呼んでいない。
「全部ノートだ」
「重いわけだ」
「持ってくれるのか」
「もう持ってる」
財前は片方の箱を担いで、先に出ていった。
廊下で、海とすれ違った。
「そっちも寄越せ」
「持てます」
「知ってる」
海は走の手から箱を取った。
三人で廊下を二つ折れて、それで引っ越しは終わった。
新しい部屋は、四人部屋だった。
二つのベッドが埋まっている。荷物の置き方で、二年か三年だと分かった。
走は荷物を下ろして、頭を下げた。
「東走です。今日から入ります。よろしくお願いします」
上のベッドの男が、雑誌から顔を上げた。
「ああ、聞いてる。下の四番目だろ」
「はい」
「俺、二年の桧山。こっちが同じく二年の宮下」
「よろしくお願いします」
「そんな畏まんなくていいよ」
桧山は雑誌に戻って、それから思い出したように言った。
「明日、八時集合な」
「はい」
「何時に出ます?」
走が聞いた。
桧山が顔を上げた。
「七時半。ここ出て、歩いて五分」
「分かりました」
「早く行きたい派?」
「早く行きたいです」
「じゃあ七時十五分に声かけるわ」
それだけだった。
それだけだったが、走は少しほっとした。
昼に、走は食堂の前を通った。
列の端に、小さい背中が一つ座っていた。
誰も隣にいない。
走は立ち止まって、少しのあいだそれを見ていた。
三年前、そこに走がいた。
二年前、走はその隣に座った。去年も座った。
今年は、座らなかった。
棟が違う。もう、走が座る場所ではない。
走は自分の棟の食堂へ入った。
同じ敷地の、廊下二つ向こう。飯の味は同じで、並んでいる顔が全部違った。
江口の席は、ここにはない。
走はスマホを出した。
――部屋、移った
返事は、五分で来た。
――はやい! もう?
廊下を二つ折れただけだ、と返した。近い、と返ってきた。
――そっちは
――おれ来週から高校。制服きつい
――痩せろ
――うるさい
走は少し笑って、スマホを置いた。
夕方、走は新しいグラウンドを見に行った。
ジュニアユースのそれより、一回り広く見えた。同じクラブの敷地なのに、下草の緑まで濃い。
誰もいない時間だった。
走はフェンスの外から、その広さをしばらく眺めた。
明日、ここに立つ。
隣のピッチで、上級生が自主練をしていた。
最終ラインの位置に、頭ひとつ抜けた男がいた。
黒木岳。
三年前、走が何度挑んでも届かなかった背中だ。
去年の七月、走は二階の窓からこの人を見下ろした。その週の金曜に、クラブハウスの外で立ち話をした。
明日からは、同じピッチだ。
走は自分の掌を見た。
一七二センチの身体の先についている手だ。
この手で、走は空になった相手からボールを奪えるようになった。最後の一日に、この手は、空になっていない相手にも届いた。
一本だけだ。数えるほどでもない。
それでも、持ってきたものは、ノート七冊だけではなかった。
三年で二十四センチ伸びた身体。三分の休憩で作った上限。前半から取りにいく一本。三音で名前を呼べば返ってくること。
困ったときに図を書けば、集まってくる二人。
荷物より、そちらのほうがずっと多い。
ユースの名簿は、入場券だった。
券で入れるのは、門のところまでだ。門の内側で何ができるかは、券に書いていない。
書いていないぶんは、持ってきたもので埋める。
走はフェンスから離れた。
部屋へ戻る途中で、もう一度だけ振り返った。
あの芝で、明日やる。
早く、やりたかった。




