第107話 降りなかった者たち
卒業式は、名古屋だった。
寮から歩いて十分の公立中学。三年前の四月、走はそこへ転校した。同じ学年に、財前と江口がいた。
式の前、走は体育館の入口で一度だけ後ろを見た。
保護者席の三列目に、母がいた。
前の日の夜に名古屋へ出てきて、駅前に泊まったと言っていた。
目が合った。母は小さく手を上げた。走は頭を下げた。下げてから、下げる場面ではなかったかもしれないと思った。
式のあいだ、走は壇上の校長を見ていた。見ていたが、話は一つも入ってこなかった。
名前を呼ばれて、返事をした。
自分の声が、思ったより大きかった。
式のあと、写真を撮る輪がいくつもできた。
江口の周りに、七、八人いる。
走はそこへ歩いていった。
「江口」
「お、東くん」
「一枚、撮っていいか」
江口が固まった。
「……東くんから言うの、初めてじゃない?」
「初めてだ」
「うわ、こわ」
江口は笑って、走の腕を引いた。
「おい、東くんが撮ろうって! 集まれ!」
七人が寄ってきた。走は端に立とうとして、江口に真ん中へ押し込まれた。
誰かのスマホが上がった。
「はい、撮るよー」
一枚目のあと、走が言った。
「もう一枚。今の、目つぶった」
「東くん、注文多くない?」
「多い」
二枚目を撮った。
三枚目は、財前が入ってきた。
「なんで俺がいちばん端なんだよ」
「遅く来たからだ」
「理不尽だろ」
四枚目で、ようやく全員がまともに写った。
輪が解けたあと、母が近づいてきた。
「いま、あんた真ん中にいたね」
「押し込まれた」
「押し込まれてたねえ」
母は笑って、それから江口のほうを見た。
「あの子?」
「江口だ。三年、同じ部屋だった」
「へえ」
母はそのまま、江口のところへ歩いていって、何か話しかけた。走は止めようとして、間に合わなかった。
戻ってきた母は、満足そうだった。
「うるさい子だねえ」
「うるさい」
「いい子じゃない」
走はそれ以上、何も言わなかった。
昼に、駅前で飯を食った。
母は名古屋の味噌のかかった料理を頼んで、二口で「濃い」と言った。
「高山のほうが薄い?」
「薄い」
「あんた、三年これ食ってたの」
「食堂のは、もっと薄い」
「じゃあいいか」
それだけの会話を、走は妙に覚えていた。
春休みに入って、走は高山へ帰った。
三日目の午後、走は空き地へ行った。
杭が四本、いつもの場所に立っている。田口の爺さんが刈った草の跡も同じだ。
三人、先に来ていた。
アカネと、ハルと、ケンジ。
「おー、走」
ハルが手を上げた。相変わらず、土手に寝転がっている。
「久しぶり」
「久しぶりって、盆に会ったろ」
「あー、そうだっけ」
ケンジが笑った。ケンジは背が伸びていた。走より少し低いくらいだ。
「走、でかいな。何センチ?」
「一七二」
「うわ。おれ一六八」
「ケンジも伸びたな」
「な!」
ケンジは嬉しそうだった。
アカネは、杭のそばに立っていた。
走を見て、少しだけ手を上げた。
「昇格したんでしょ」
「……ああ」
「よかったじゃん」
それだけだった。
夏の空き地で叫んだ声とは、違う声だった。
「あたし、やめた」
アカネが言った。
「最後の試合、出た。ボール来なかったけど。笛まで出た」
走はうなずいた。
「三月の頭に、ちゃんとやめた」
アカネは自分の手を見た。
走はその言い方の意味を、少しのあいだ掴めなかった。
掴んでから、何も言わなかった。
ちゃんと、というのは、この子が自分で選んだ言葉だ。走が渡したものではない。
「で、あたし、いま調べてる」
アカネは言った。
「なんの」
「言わない」
アカネはそう言って、少し笑った。
「あんたに言うと、たぶん全部知ってるって顔するもん。それ、腹立つから」
走は返す言葉がなかった。
「言えるようになったら言う」
アカネは言った。
「言えるようになるまで、聞かないで」
「……分かった」
四人で、少しだけ蹴った。
ハルが転がって、ケンジが変な声を出して、アカネがそれを馬鹿にする。走はそこに、考えずに入っていける。
アカネは、まだ誰よりうまかった。
止め方も置き所も、パスの質も、この三人の中では抜けている。
ただ、走とケンジに競り勝つことは、もうない。
二本目に、アカネが走の足元へ強いボールを蹴ってきた。走は胸で落として、止めた。
「うわ、止めた」
「止めるだろ」
「昔は跳ねてたのに」
「跳ねてた」
「つまんな」
アカネは笑って、次を蹴ってきた。今度はわざと足元から外した。走が追いつくと、アカネは「おそい」と言った。
日が傾いて、四人は土手に座った。
「なあ」
ハルが言った。
「六人でやったの、いつが最後だっけ」
誰も、すぐには答えられなかった。
「小六の、大会のあとじゃない?」ケンジが言った。「リクが引っ越す前」
「あー、そうか」
「もう三年か」
「タケルは」
走が聞いた。
「部活」ケンジが言った。「バスケ。今日も練習だってさ」
「楽しそうか」
「めちゃくちゃ楽しそう。この前、試合出たって連絡来た」
「そうか」
走はそれを、そのまま受け取った。
三年前の二月、タケルは走の部屋まで来て、自分で決めたことを話していった。体育の時間にリングへ指が届いて、その夜は眠れなかったのだと。
いま、あの身体はバスケのコートにいる。
「走、これからどこ行くの」
アカネが聞いた。
「ユースに上がって、たぶん、その先だ」
「その先って?」
「分からない」
「分かんないのかよ」
ケンジが笑った。
「分からない」
走は言った。
「上に行くたびに、持ってるものが全部、当たり前になる。だから、上がるまで次に何が要るかは分からない」
「なにそれ」ハルが土手から言った。「終わんないじゃん」
「終わらない」
走は言った。
「終わらないほうが、いい」
アカネが、走の横顔を見た。
夏の空き地で、この男は泣いた。
いつ、なぜ終わらされたのか、アカネはいまも知らない。
ただ、この男が「終わらないほうがいい」と言うとき、その声に何が乗っているかだけは、少し分かるようになっていた。
「次に集まるときも」
走は言った。
「ボールは持ってこいよ」
「持ってくるって」ハルが言った。「おれ、それしか持ってねえもん」
日が落ちて、四人は帰った。
走は最後に、空き地を振り返った。
杭が四本。刈られた草。壁もない、ゴールもない、線も引かれていない土地。
ここで、走は始めた。
明日、また出る。
今度は、ユースへ。




