第11話 もう一度、走れ
あれから、二年が過ぎた。
桐生の左脚を、走は一度も急がせなかった。休ませて、正しく戻して、また少しだけ負荷をかける。その気の遠くなる繰り返しを、二人は黙々と続けた。桐生はもう、「意味あるのかよ」とは言わなくなっていた。走が「今日はここまで」と言えば脚を止め、「これをやれ」と言えば歯を食いしばる。焦らないこと。それ自体が、治療だった。
最初の冬のことは、桐生もよく覚えているはずだった。
雪が空き地を埋め、走れなくなった時期、桐生は目に見えて苛立った。ようやく脚が良くなりかけているのに、この雪では、何もできない。焦りが、また顔に出はじめていた。だが走はその桐生を、腰まで雪の積もった斜面へ連れ出した。
「走らなくていい。ただ、そこを、いちばん上まで登ってこい。歩くだけでいい」
「……こんなの、意味あるのかよ」
「ある。今のお前に、これ以上ない」
桐生は不服そうに雪へ足を踏み入れ、すぐに、言葉を失った。深い雪を掻き分けて登るのは、走るより、よほどきつい。脚の付け根が、太ももが、悲鳴をあげる。だが――膝の下の、あの脆い場所には、いつもの嫌な突き上げが、まるで来なかった。踏み込むたびに関節を打っていたあの衝撃を、雪が、根こそぎ消していた。
「わかったか」下から、走が言った。「お前の脚が壊れたのは、地面を叩きすぎたからだ。雪は、その"叩き"だけを消してくれる。脚には、しっかり効くのに、患部には、響かない。この冬いっぱい、雪の上で脚をつくる。春には、走れる土台ができてる」
桐生は雪まみれで斜面を登り切り、白い息を吐きながら、自分の左脚を見下ろした。きつい。だが、痛くない。その二つが、両立している。それは、二年間で初めて味わう感覚だった。少し離れた雪原では、アカネたちが雪玉を投げ合って、けたたましく笑っている。桐生はその輪をちらりと見て、それから、もう一度、雪の斜面に向き直った。冬が明ける頃には、桐生の脚は、雪を掻き分けるぶんだけ、静かに強くなっていた。
夏になると、走は桐生を、学校のプールへ連れていった。
人のいない午後のプールで、走は桐生を胸まで水に浸からせた。
「そこで、走る真似をしてみろ。腿を上げて、地面を蹴るつもりで」
「……水の中で?」
「いいから」
桐生がおそるおそる、水の中で脚を回した。そして、はっと、動きを止めた。走れる。水の中では、身体がふわりと浮いて、左脚に、体重がまるでかからない。荷重の消えた脚は、二年前まで当たり前にしていた"走る"という動きを、なんの痛みもなく、なぞりはじめた。脚が、覚えていた。腿を上げ、水を後ろへ蹴り、また上げる。その一連を、桐生の身体は、忘れていなかった。
「これは、地上で本気で走る前の、下ごしらえだ」プールサイドから、走が言った。「脚がまだ体重を支えきれなくても、"走る形"だけは、水の中で先に取り戻せる。動きを思い出させてから、少しずつ、本物の重さを乗せていく。順番を守れば、脚は、ちゃんとついてくる」
水の中で走る桐生の目に、久しぶりに、光が差していた。冬に脚の芯をつくり、夏に走る形を取り戻す。その一年一年の積み重ねが、少しずつ、桐生を、ピッチへ近づけていった。
最後の関門は、跳ぶことだった。
両足で踏み切り、片脚で着地する。ただそれだけの動作を、走は何度も桐生にやらせ、そのたびに、着地の瞬間の膝の内側を、指先と眼で確かめた。走りは、突き詰めれば片脚での連続着地だ。ここが痛みなく吸収できるなら、もう、走らせていい。三十回目の着地を見届けて、走は小さく頷いた。
「よし」
*
次の朝、走は桐生を、一人だけ空き地に呼び出した。アカネたちは、まだ来ていない。夜のあいだに降りた露が、伸びかけた夏草の先で、朝日に細かく光っている。土の匂いが、いつもより濃かった。
「陸。今日から、走っていい」
桐生が息を呑んだ。
「……いいのか。ほんとに」
「ああ。脛の炎症は、もう引いてる。二年かけて、走れるところまでは戻した」
「じゃあ、もう平気なんだな」
「平気じゃない」走は言った。「背が伸びてるあいだは、同じ場所がまた鳴ることがある。……だから、痛かったら黙るな。それだけ守れ」
走の声は静かだったが、その下で、走自身の心臓も速くなっていた。前世で、脚は何百と診てきた。だが、治して、また走らせるところまで見届けたことは、ついに一度もなかった。医者は、退院までしか付き添えない。その先の、ピッチで駆けるところは、いつも他人の領分だった。だからこれは、走にとっても、生まれて初めての瞬間だった。
「行ってみろ。思いきり」
桐生は少しのあいだ、自分の左脚を見下ろしていた。二年間、この脚に裏切られ続けてきた男の顔だった。信じて踏み込んで、また崩れるのが怖い。その怯えが、まだ抜けきっていない。
だが、桐生は走った。
最初の三歩は、こわごわだった。地面をそっと確かめるように、脚を庇って。四歩目で、桐生の顔つきが変わった。
痛くない。
その一事が、全身に火をつけた。五歩、六歩。ストライドがみるみる伸び、地面を叩く音が、乾いて鋭くなっていく。かつて名門で一人だけ格が違うと言われたその脚が、二年ぶりに、本来の回転を思い出していった。朝の光を裂いて、桐生陸がまっすぐに加速する。速い。走の眼が読んでいたより、ずっと速い。
走はその背中を"視た"。診断の眼に映る走りに、あの赤い警告は、もうどこにも灯っていなかった。過不足のない運動連鎖と、伸びやかな出力だけが、そこにある。二年かけて、取り戻したもの。奪われかけた才能が、いま、持ち主のもとへ返っていく。
空き地の端で足を止めた桐生が振り返った。息を弾ませ、目を真っ赤にして。
「走れた……! 俺、痛くないぞ! 全力で走れた!」
子供みたいに、いや子供なのだが、桐生はその場で跳ねた。走も気づけば笑っていた。少しだけ、ではなかった。医者の分別も、六十八年ぶんの用心も、その一瞬だけ、どこかへ吹き飛んでいた。走は駆け寄ってきた桐生と、柄にもなく、拳をぶつけ合った。前世では、ついに一度も、味わえなかったことだ。
「知ってる。ずっと視てたからな」
「お前のおかげだ。お前がいなかったら、俺は――」
「違う」走は首を振った。ここは、間違えてはいけないところだった。「治したのは、お前の脚だ。俺は、道を示しただけ。二年、腐らずに歩いたのは、お前だろ」
桐生がくしゃりと顔を歪めた。走はその肩を軽く叩いて、ずっと言うと決めていた言葉を口にした。
「陸。俺は、お前のプレーが好きだ」
桐生の目が見開かれた。
「壊れる前のお前は、知らない。でも、視ればわかる。お前の脚が、どんなふうに走りたがってるか。だから、また見せてくれ。道具じゃない。俺が、見たいんだ」
桐生がこれまで一度もかけられたことのない言葉だった。上手いか、壊れたか――大人が測るのは、いつもそこだけで、誰も「好きだ」とは言わなかった。二年間凍りついていた最後の氷が、その一言で、音もなく溶けた。
*
その午後、二人は初めて組んだ。少し離れて、アカネがボールを抱えたまま、こちらを見ていた。
「陸。俺が後ろから球を出す。お前は、アカネの一歩前じゃなく、一歩"後ろ"に構えろ。アカネが相手を引きつけた、その裏に、後から飛び込む。前にいたら、消される。後ろから湧いてくるやつは、消せない」
「後ろ? 俺、前で受けたいんだけど」
「まあ、やってみろ」
最初の三本は、噛み合わなかった。走の球が早すぎたり、桐生の踏み出しが半歩遅れたり。二人の頭にある地図が、まだ、ぴたりとは重ならない。だが四本目。走が球を離す前に、桐生がもう走り出していた。走の眼がその走り出しの角度を読んで、脚が、勝手にそこへ球を送る。相談したわけでもないのに、二つの判断が、同じ一点で出会った。
桐生の脚が、二年ぶりに、決定的な場所へ届いた。ネットが、鈍く鳴る。
「……なにそれ。あたしの知らない技じゃん」
アカネが口を尖らせた。だがその目は、悔しさより、好奇心で光っていた。強いやつがいるほうが面白い。それが、この女の揺るがない一点だった。
「よし、決めた。次は、あたしも混ぜろ。あたしが引きつけて、あたしが決める。あんたら二人がかりでも止められないやつに、してやるから」
勝手に話を進めるアカネに、桐生が面食らい、走は思わず吹き出した。速さで敵わない走が後ろから設計し、掴まらないアカネが前で暴れ、その裏を桐生が突く。誰に頼まれたわけでもない、子供の負けん気だけの右サイドだった。
「ほら、突っ立ってないで。もう一本!」
アカネがボールを蹴り出す。まだ、日は高い。三人はいっせいにそれを追って、駆け出した。




