第10話 早く治せよ
帰りの車の中は、静かだった。
親たちが運転する数台に分かれて、五人と桐生は名古屋から高山への長い道を、揺られて帰った。窓の外を、街の灯りが流れ、やがて、暗い山道に変わっていく。
誰も、口をきかなかった。
勝てなかった。守れたのに、勝てなかった。その事実が、幼い胸に、重く沈んでいた。
走は暗い窓に映る自分の顔を見ながら、さっきの試合を、頭の中で何度も巻き戻していた。守備は、機能した。相手のエースは、最後まで一点も割れなかった。だが――アカネが相手を三枚も引きつけた、あの決定的な一瞬。その裏に、飛び出す二人目さえいれば。走の眼には、そこにぽっかりと空いた、決められたはずのスペースが、いまもはっきりと視えている。誰かが、あそこへ走り込めていれば。たった一人、あの穴を埋められる"才能"さえ、このチームにあれば。
そして走はその"誰か"の顔を、知っていた。いま、すぐ後ろの座席で、窓の外を睨んで、唇を噛んでいる。
「……あたしのせいだ」
ぽつりと、アカネが言った。走の隣で、膝を抱えて。
「あたしが、最後、決めきれてたら」
「アカネのせいじゃない」
走は静かに首を振った。
「お前は、十分すぎるくらい、やった。一人で、あそこまで持っていった。足りなかったのは、お前じゃない。お前の、次に飛び出すやつが、いなかった。それだけだ」
それは、慰めではなく、走の、冷静な分析だった。
守備は、設計で、なんとかなった。位置取りと連携で、個の力の差を、埋めることができた。だが、攻撃は――ゴールを割る最後の一撃だけは、どうしても、"才能"を必要とした。アカネ一人の才能では、束になった相手を崩しきれなかった。二人目の、才能が要る。
設計だけでは、勝てない。
走はその現実を、この日、はっきりと突きつけられた。自分の"科学"には、まだ、埋められないものがある。それを埋めるのは、才能だ。アカネのような、桐生のような、天賦の才。両方が、噛み合ったとき、初めて、チームは、本当に強くなる。
*
車が、山道にさしかかった頃。
ずっと黙っていた桐生がうつむいたまま、絞り出すように、言った。
「……ごめん」
走は驚いて、隣を見た。
「なんで、お前が謝るんだ」
「だって」桐生の声が、震えていた。「俺が、動ければ。俺の脚が、ちゃんとしてれば。俺が、アカネの後ろから、飛び出せてれば。……勝てた。俺は、それが、できるのに。できるってわかってるのに、脚が」
桐生の目から、ぽたぽたと、涙がこぼれた。
スタンドで、ずっと見ていたのだ。仲間が、あと一歩のところで、勝てずにいるのを。自分になら、埋められる穴が、目の前にぽっかりと空いているのを。それでも、動けない自分の脚を、呪いながら。
走は言葉に詰まった。
この少年の焦りは、自分のためじゃない。仲間のためだ。「自分が輝きたい」んじゃない。「みんなを、勝たせたい」。その、まっすぐな思いが、行き場を失って、桐生の中で、澱のように、沈んでいく。
――早く、治してやらないと。
走は思った。医学的には、焦りは禁物だ。時間をかけて、正しく戻すのが、いちばんいい。頭では、分かっている。だが、この涙を見てしまうと、その"正しさ"が、少しだけ、苦しかった。
*
家の近くで車を降りるとき、桐生が走の袖を、そっと掴んだ。
「なあ、走」
その顔には、もう、涙の跡しか残っていなかった。かわりに、まっすぐな、静かな光が、宿っていた。
「早く、治せよ」
掴んだ袖を、桐生は離さなかった。
「お前なら、治せるって、信じてる。だから……早く、俺を、治してくれ。あいつらと、一緒に、勝ちたいんだ」
走は桐生の目を、まっすぐに見返して、頷いた。
「ああ。任せろ」
――待ってろ。必ず、また走れるようにしてやる。お前の、その才能を、もう一度、あのピッチに、返してやる。
山あいの町に、夜の帳が下りていく。負けた悔しさと、それでも消えない仲間の温もりを抱えて、少年たちは、それぞれの家へ、帰っていった。
*
その夜、走が寝つけずに窓の外を見ると、月明かりの空き地に、小さな影が一つあった。
桐生だった。
走らない。走れないと分かっているから、走らない。その代わり、走が教えたとおりに、脚に負担のかからない動きを、黙々と、繰り返している。誰に言われたわけでもなく、たった一人で。上半身をひねり、体幹で身体を支え、片脚で、そっとバランスを取る。走の眼が暗がりの中でも、その動きを"視た"。まだ、ぎこちない。だが、形は、正しい。あれを毎晩積み重ねれば、走れない今も、身体は錆びない。それどころか、ほかの子が眠っているあいだに、少しずつ、前へ進んでいける。負けた夜に、泣いて終わるのではなく、こうして、次の一歩を、自分で踏み出している。
走はその影を、しばらく見ていた。
――こいつは、必ず、戻ってくる。
そして、いつか。走の頭の奥に住みついた、あの顔の見えない男――九十分を走り抜き、最後の最後に、誰よりも速かった、あの男。もしかしたら、あそこへ続く道は、こんな田舎の、月明かりの空き地から、もう、始まっているのかもしれなかった。
走はそっと窓を閉め、明日のために、目を閉じた。




