第105話 名簿の季節
三月に入った。
三年三十人のうち、上がれるのは五人から、多くて十人。
残りは、ここでサッカーの道を細くする。
三年前、走はこの空気を外から見ていた。あのときは他人事だった。走は中一で、上がるのは黒木岳たちで、走はまだ二年先の話をしていた。
今年は、自分の番だ。
三年生の会話が減った。
廊下ですれ違うときの目線が、少し落ちる。全員が同じことを考えていて、全員がそれを口に出さない。
口に出すのは、たいてい、上がる可能性のない子だった。
「おれ、無理っしょ」
江口はいつもの調子で言っていた。
「三年間、レギュラー半分だし。おれ分かってるもん」
誰も否定しなかった。
否定できる材料がなかったからだ。
二年前、走はその席を狙って、上がれないと言われた三年から取った。
卒業のとき、「あの右、頼むわ」と言われた。
走はそれを、三年守った。
三月の第二週に、面談があった。
鬼塚と、一人ずつ。
部室の隣の小さな部屋で、机を挟んで座る。三年生が一人ずつ呼ばれて、五分か十分で出てくる。
出てきた顔で、だいたい分かった。
走の順番は、後ろから三番目だった。
廊下の椅子で待っているあいだ、走は自分の膝の上で指を組んでいた。
組んで、外して、また組んだ。
落ち着いている顔をしているつもりだった。つもりだったが、二回、廊下の壁のボードを見た。
名簿はまだ、貼られていない。
貼られていないことを、二回確かめた。
部屋に入ると、鬼塚は机に何も置いていなかった。
資料も、名簿も、何もない。
走が座ると、鬼塚は腕を組んだ。
「東」
「はい」
「三年、なにを覚えた」
予想していた質問と、まるで違った。
走は少し考えて、答えた。
「二つあります」
「言え」
「一つは、言わずにやる方法です」
走は続けた。
「高山にいたころ、俺は言えば直る場所にいました。ここでは、言っても誰も直しません。だから、飯の順番を変える、遊びの形で身体を作らせる、数字を人に取ってもらう。自分の名前が出ない形で、人の身体を動かす方法を覚えました」
「もう一つは」
「三音で言う方法です」
鬼塚の眉が、動いた。
「去年の五月に、マネージャーに数えられました。俺は八十分で四回しか喋っていませんでした」
「四回か」
「四回です。いまは三十回くらいです」
走は言った。
「上がる、戻る、任せた。三音にして、相手の名前を先に呼ぶ。それだけで、大村さんが半歩早く動きます。相馬さんが、逆から返してくれます」
「そっちのほうが、効いたか」
「効きました」
走は正直に答えた。
「言わずにやる方法は、一人ぶんしか動かせません。三音は、十一人に届きます」
鬼塚はしばらく黙っていた。
「準決勝の三十四分」
「はい」
「あれは何だ」
「出し手を見ました」
「対面じゃなくてか」
「はい」
「三年、対面しか見とらんかった奴が、最後の試合で見る場所を変えたか」
鬼塚は鼻から息を吐いた。
「あれで一本、前半に獲った。三年で、前半の一本は、あれが最初だ」
走は黙っていた。
この人は、数えていた。
「後半に取り返す選手は、二十年でいくらでもおった」
鬼塚は言った。
「前半から取りにいける奴は、数えるほどだ」
「……ありがとうございます」
走は言った。
言ってから、自分の声が少し上ずったのが分かった。
鬼塚はそれを、聞き流した。
「二年前、おれはお前を外した」
鬼塚は続けた。
「間違っとったとは、いまも思っとらん」
「はい」
「だが今年、お前の右は一年で一度も割れとらん。去年の秋は、お前が入った二十分で一つ拾った。おれは、勝ちに貢献する奴しか使わん」
鬼塚は腕を組み直した。
「お前は、貢献した」
走はうなずいた。
褒め言葉ではない。評価の訂正でもない。
条件を満たした、という報告だった。
それでも、腹の底が熱かった。
「東。上で、なにを伸ばす」
鬼塚が聞いた。
走は少し考えてから、答えた。
「二つあります」
「また二つか」
「一つは、相手の出力を読むほうです。いまは、対面の脚と、出し手の腰の二つを見ています。上の出し手は、蹴る前の形を隠します。隠された形から読む方法を、探します」
「もう一つ」
「味方と、判断を合わせるほうです」
走は言った。
「俺が前へ出ると、後ろが空きます。空いた場所を誰が埋めるかは、その日の十一人で変わります。いまは、海さんと財前と大村さんまでしか合っていません」
「どうする」
「一人で間に合わないところを、先に伝えて守りたいです」
走は言った。
「出てから叫ぶのではなく、出る前に」
鬼塚の口の形が、わずかに変わった。
笑ったのかもしれない。走には判断がつかなかった。
「行け」
それだけ言って、鬼塚は顎で扉を指した。
走は立ち上がって、頭を下げた。
扉を閉める瞬間、背中に声がかかった。
「東」
走は振り返った。
「小手先、取り消さんぞ」
「はい」
「取り消さんが、あれで一年うちの右を保たせたのは、事実だ」
鬼塚はもう、こちらを見ていなかった。
走はもう一度頭を下げて、扉を閉めた。
閉めてから、廊下で息を吐いた。
長い息だった。自分でも、こんなに息を止めていたとは思っていなかった。
廊下の椅子に、次の順番の三年が座っていた。
目が合った。
「……どうだった」
「分からない」
走は正直に言った。
「分からないけど、話は聞いてくれた」
「そっか」
その子は少しだけ笑って、それから膝の上で指を組み直した。
走はその横を通って、階段を下りた。
下りながら、さっきの一言をもう一度思い出した。
前半から取りにいける奴は、数えるほどだ。
三年かけて積んだものの中から、この人が一つだけ拾って、名前をつけて返してきた。
(――嬉しかった)
走はそれを、そのまま思った。
打ち消さずに、そのまま階段を下りきった。




