第104話 残り十五分
後半、走は削りはじめた。
外を半歩空ける。リクが縦へ出る。走は追わずに、行き先だけを潰す。
通れそうな道が、毎回、直前で消える。
リクは前半、走と正面からぶつかることに全部を使っていた。その脚に、後半のこの形は重かった。
四十五分で、リクの踏み込みが浅くなった。
五十分で、走の前へ来なくなった。
左へ回った。
走はそれを見送った。
逃げたのではない。
こちらの右で消耗するより、逆で仕掛けたほうが点に近い。前半にぶつかり合ったからこそ、この男はその判断ができている。
走はそれを、正しい工夫として受け取った。
受け取ったうえで、悔しかった。
(――まだやりたかった)
六十二分に、青嵐が右から組み立て直した。リクのいない側だ。
走は前半と同じように、出し手を見た。
読めなかった。
同じボランチの腰が、前半とは違う開き方をしている。角度が毎回ずれる。疲れた身体は、同じ形を二度作れない。
(――消えたか)
走は前へ出るのをやめた。
やめて、待った。
パスが出た。
遅かった。
前半なら、読んでいなければ届かない速さだった。いまは、見てから足が届く。
走は出た。
二本目だった。
運びながら、走は頭の中で二本を並べた。
前半の一本は、読んで先に立った。
後半の一本は、読めないまま、見てから届いた。
相手が元気なら、型が正直だ。読める。かわりに速いから、読まなければ間に合わない。
相手が疲れれば、型が崩れる。読めない。かわりに遅いから、見てからで間に合う。
どちらかが、必ず立っている。
九十分のあいだ、走の手が止まる時間は無い。
――ただし、走の脚が残っていればだ。
見てから届いたのは、走の脚がまだ落ちていないからだった。
六年かけて作った、九十分落ちない身体。
前半にも、後半にも、走はそこへ行けた。行けた回数が、今日は増えていた。
一つだけ、繋がらない時間があった。
後半の頭。あの十分だけ、走は一度も入れなかった。
型はもう崩れていたのに、脚はまだ落ちていなかった。読めないのに、速い。
人は疲れると、まず形を崩して出力を守る。遅くなるのは、そのあとだ。
崩れてから、遅くなるまでの、あいだ。
走はその窓に、まだ名前をつけていない。
五十五分に、走は上がった。
手を上げてから、右の外を駆け上がる。海が落ちるのを、振り返らずに確かめた。
「大村!」
「おう!」
クロスは合わなかった。
六十分に、もう一度上がった。合わなかった。
六十五分に、三度目。
レオが飛び込んで、キーパーが弾いた。
レオが両手で頭を抱えた。走も、膝に手をついて声を出した。
「レオ、もう一回いく!」
「来い!」
残り十五分で、風間空が動いた。
この試合で初めて、ソラが右へ来た。
走の側だ。
走の背中が、冷たくなった。
(――来る)
海が塞いだのは、ボールが入る場所だった。
ソラ自身が動いてしまえば、その塞ぎは意味を失う。
この男は、八十分のうち十五分だけ、自分から場所を変えた。
理由は、たぶん、退屈したからだ。
「財前!」
走は叫んだ。
「一回だけだぞ!」
「一回でいい!」
財前が中央から外へ寄った。前の日に決めた一回が、いま来た。
走はソラの前に立った。
三年で、五度目だ。
中一の秋に、何もできなかった。中二の冬に、十分だけ触らせなかった。中三の六月に、一本だけ止めた。止めた次の一本で、この男は初めて走に対して形を変えてきた。
積み上がっているものが、走の側にもある。
あちらにも、たぶんある。
ソラは走を見て、いつものように首を傾けた。
「あ」
そして、言った。
「きみ、また同じとこにいる」
走は答えた。
「います」
「なんで」
ソラが聞いた。
本当に不思議そうだった。
「きみ、いつも、おれが行くとこにいるじゃん。なんで分かるの」
走は、そこで一つだけ答えた。
「分からない」
ソラの眼が、少しだけ開いた。
「分からないから、行きそうな場所を全部、先に潰してる」
走は言った。
「あんたが決める前に、選べる場所を減らしてる」
ソラはしばらく走を見ていた。
それから、笑った。
この男が笑うのを、走は初めて見た。
「へえ」
ソラは言った。
「それ、つまんないね」
仕掛けてきた。
重心が傾く。軸足が入る。それが何も意味しないことを、走はもう知っている。
走の身体は動かなかった。動けば、そこを通られる。
六月に幅をゼロにしたときは、三人要った。いまは財前と二人だ。海は上がっている。
だから走は、幅を消すのをやめた。
かわりに、この男が幅のない場所へ落ちてくる、その先だけに身体を置いた。
六月の二度目に見た、あの動き。順番が逆になる一手。
一度見たものは、走の中に残っている。
ソラが、走の左へ流れた。
傾いたまま、幅のない場所へ落ちてくる。
走は追わなかった。追えば置いていかれる。ただ、落ちてくる先に、身体を半歩だけ入れた。
ソラが進もうとした先に、走の胴があった。
接触した。
ソラの身体が、わずかに流れた。
止まってはいない。ボールも失っていない。ただ、進む先が半歩ずれた。
その半歩の先に、財前がいた。
財前が身体を入れて、ボールが外へ出た。
スローインになった。
「財前!」
「言ったろ、一回はやるって!」
財前が親指を立てた。
走は息を吐いた。
自分で奪ったのではない。触って、半歩ずらして、それが財前のところへ運ばれただけだ。
六月は三人要った。今日は、二人で一本切れた。
走が取れたのは、半歩だ。その半歩に、財前が一人で間に合った。
ソラは起き上がって、自分の身体を見た。
それから、走を見た。
「いま、なんかした?」
「……しました」
「へえ」
ソラは首をひねって、それから、また笑った。
「なんかさ」
ソラは言った。
「きみといると、行きたいとこ、減るね」
そして、前へ歩いていった。
走は、遠ざかる背中を見ていた。
六月は「あれ」の二文字だった。今日は、文になっている。
止められない。奪えない。
だが、行きたい場所を減らせる。
それが、走がこの三年で見つけた唯一の答えだった。
答えというより、入口だ。
残り五分で、こちらにも一度だけ決定機が来た。
江口が右で粘って、走が上がって、折り返しをレオが叩いた。青嵐のキーパーが片手で弾いた。
こぼれ球に、財前が飛び込んだ。ポストに当たった。
「入れよ!」
走は叫んでいた。
試合は、〇対〇のまま終わった。
延長はなく、そのままPK戦になった。
尾張が先に蹴った。
一人目、レオ。決めた。青嵐も決めた。
二人目、海。決めた。青嵐も決めた。
三人目、財前。左に蹴って、キーパーに止められた。青嵐は決めた。
四人目、相馬。バーの上へ外した。
青嵐の四人目が決めて、そこで終わった。
二対四。
走の順番は、来なかった。
五番手だった。
走はセンターサークルの手前に立ったまま、それを見ていた。
脚は、残っている。八十分走って、まだ走れる。
走れるのに、蹴る番が来ない。
青嵐の選手が走り出して、こちらの何人かが芝に座り込んだ。
走は動かなかった。
動けなかった、というほうが近い。
「勝ちたかった」
声が出た。
誰に言ったわけでもなかった。
財前が、ゴール裏で膝をついていた。
走は歩いていって、その横に立った。
「財前」
財前は顔を上げなかった。
「……悪い」
「お前だけの負けじゃない」
走は言った。
「俺は、五人目だった。蹴ってない」
「……」
「まだ、やりたかった」
財前が、はじめて顔を上げた。
目が赤かった。
「お前も、そういう顔すんだな」
「する」
走は言った。
「悔しい」
財前はそれを聞いて、袖で顔を拭いた。
拭いてから、立ち上がった。
「準々決勝の膝、まだ笑ってる」
「知ってる」
「見るなって言ったろ」
「音で分かる」
「うるせえ」
二人は並んで、ベンチへ歩いた。
バスの中は、静かだった。
江口が窓の外を見ていた。この三年で、江口の最後の公式戦だった。
走はその横顔を、一度だけ見た。
何か言おうとして、言葉が出なかった。
出ないまま、バスは名古屋へ戻った。
三年間、走は青嵐に一度も勝てなかった。




