カノン
すこし落ち着いてきて久中と話した。カノンはカウンセラーが気に入らなかったこと。自分をカウンセラーに押し付けたことの不満を言った。久中は頬を掻いた。
「教頭に特定の女子生徒とあんま仲良くすんなって釘刺されたんだよ。ほら、おまえらってすーぐメロつくだろ」
カノンはムッとしたが、うまく言い返せなかった。
もちろんカノンに久中への恋愛めいた感情はない。久中はただ教師の中では若い方なだけの軽薄な先生に過ぎない。べつに格好良くもない。
一方で両親に頼れない、友人のことも心の底から信頼しているわけではないカノンは安心して相談できる信用のできる大人を。言い換えれば「メロつける相手」を探そうとしていたのも事実のような気がした。そういう相談事が恋に近い感情に変わっていくこともあるような気がした。久中の手が背中に触れたときカノンは安堵を感じたし、手が背中から離れたときそのことを少し惜しんだのだ。
「つーか俺の前任の先生、セクハラで飛ばされたらしいし。まあ教頭先生が敏感になってるのもわかるよ」
はじめてきいた。おそらくカノンの入学前のことなのだろう。
「落ち着いたか?」
カノンは頷いた。久中がスマートフォンを確認する。「戻るまで十五分くらい」と言っていた時間をかなり過ぎている。
「んじゃ、いくか。“声かけようとしたら霧島先生が驚いて足を踏み外しちゃった。ひどいことをしてしまったと思って混乱して逃げ出してしまった。驚かせてしまったことを反省している。霧島先生に謝りたい”、このストーリーでいくけど、かまわんか?」
「……ほんとにいいんですか?」
「おまえが反省してるなら、いいんだよ。突き落とそうとしたとか言い出すと話がややこしい」
久中は未成年の罪に甘すぎると思う。面倒を避けているだけかもしれない。
でもそのズルさに、カノンも便乗することを決める。
立ち上がり、服の埃をはたいた。
体育倉庫を出る。雨のおかげか校庭には誰もおらず、誰にも見られずにカノンと久中は脱出することができた。「体育倉庫から二人で出てきたとか外聞悪すぎるからな……」久中がホッとしていたことがすこしおもしろかった。職員室にいき、待ち受けていた教頭先生にさっき久中が言ったような説明をして、病院にいる霧島先生をお見舞いしたいと言う。久中が車を出してくれることになった。
車内ではとくに話はしなかったが、居心地の悪い沈黙ではなかった。
久中が掛けていた音楽に耳を傾けていた。J-POPのようだが知らない曲だった。
病室で、カノンは深く頭を下げて謝ったが、何も知らない霧島が「私のほうこそごめんなさいね」と言っていたことは心苦しかった。
無事な姿を見て、カノンは深い安堵を感じた。
人を傷つけるのは向いていないと思う。
少し話してから病室を出た。
「家まで送ってやろうか?」
久中が言ったけれど、自転車が置きっぱなしなので学校で降ろしてもらった。職員室に戻る久中と別れて、カノンは家に帰る。玄関の扉を開ける。
「おかえり」
母親が言う。「連絡あったけど、例の女、すっころんだんだって」楽しそうな声色だった。カノンは澄んでいた気分が一気にざらつくのを感じた。
「流れたの?」
母親が訊く。カノンは首を振った。
「なぁんだ。つまんないの」
「おまえ冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ」
せせら笑うような声に対して、カノンは瞬間的にキレてしまった。
わかっている。カノンの母親は実際には「そんなにひどい人間ではない」のだ。
困っている人がいたら嫌々と平凡に、人並みに助けたりする。日常が退屈でゴシップに飢えていて言葉だけが強くなっている。実際には悪行を成せるような人間じゃない。ある意味でそんな度胸のある人間ではない。もしも目の前で霧島が倒れていたら救急車を呼び、手を握って励ましてやりさえするだろう。咄嗟に逃げ出してしまったカノンよりもよほど情がある振る舞いをする。誰もが見て見ぬふりをしていたスーパーマーケットで泣いていたあの少年を放っておかなかったように。それがわかっていても親としてカノンの手本になってくれようとしない母親に対してカノンは憎しみを覚えた。
口を開けてぽかんとしている母親を残してカノンは自室に引き上げる。
警察官になろうと思った。
それで銃を手にして家族を全員撃ち殺すのだ。それから最後に自分のこめかみを撃ち抜く。それが自分にふさわしい生き方だと思った。お腹の中の真っ黒を終わらせる唯一の方法だと思った。
夕食時になって呼ばれてカノンと母は黙々と食事をした。互いに目をあわせようとしなかった。反抗したカノンを叱ることすらしないことがさらに嫌だった。




