カノン
カノンは走り出した。
靴箱を擦り抜けて校舎を飛び出す。何人かの生徒とすれ違って、彼らは不思議そうにカノンを見ていた。今朝がたには降っていなかった弱い雨がカノンを打つ。カノンは体育倉庫の中に飛び込んだ。体育教師がよくそこにカギをかけ忘れていることをカノンは知っていた。埃と砂と黴の匂いの中で倉庫の隅の一番薄暗い場所でカノンは蹲った。
そんなはずがなかった。転がり落ちた霧島の驚いた顔が目に焼き付いて離れなかった。
そんなはずがなかった。自分は手を止めたのだ。霧島が勝手に転がり落ちていったのだ。
カノンは自己弁護を思いついたけれどそれが自己弁護に過ぎないことをカノン自身が一番よくわかっていた。突き落とすつもりで近づいた。あまりに近かったから霧島は驚いた。驚いたから足を踏み外した。とても簡単で明快な結論だった。小学生にだってわかる。なによりもカノンの手がまだ殺意を覚えていた。
呼吸が浅くて考えがまとまらなかった。どうすればいいのかわからなかった。涙がこぼれた。カノンの悪意が、お腹の中で留まっていたはずの「真っ黒」が外にあふれ出してカノンの手を染め上げていた。
責任が取れなかった。
私が赤ちゃんを殺した。
この言葉が頭の中をぐるぐると回り続けた。終業を示すチャイムが鳴ったがカノンは気づかなかった。どこかのクラスが行うはずだった六時間目の体育は雨のせいで体育館を使うことになったようだった。
帰宅する生徒たちの外のざわめきが、次第に薄れていく。窓から差しこむ光が、夕方が近づいて赤くなっていく。
随分時間が経っていた。
外にでなければならなかった。裁きを受けなければならなかった。けれど勇気が出なかった。カノンは膝を抱えて啜り泣き続けた。
不意に、横開きの扉が滑った。
反射的にカノンはそちらを見た。
久中が立っていた。大きくため息をついた。スマートフォンを取り出して操作した。耳元にあてる。
「もしもし。はい、いました。ええ。戻るまでに十五分くらいかかると思います。はい、連れて帰るんで、待っててください」
耳から離して、通話を切る。倉庫の扉を閉める。
「霧島先生、大丈夫だってよ」
久中が言った。
カノンは頭の中が真っ白になった。
「あかちゃんは……?」
「そっちも」
久中が近くにやってきて、カノンの横に座った。お尻が砂ぼこりで汚れるのを気にした様子もなかった。
「霧島先生、おまえに謝ってたよ。目の前でびっくりして転んで、心配かけただろって。大丈夫だから気にすんなってよ」
カノンは腕と膝の中に顔を隠して首を振った。そんなのは結果論なのだ。カノンは殺意を持って近づいたし、どうなっていてもおかしくなかったのだ。
「どうした?」
無事だと聞いても安心した様子のないカノンを見て、久中は不審がったようだった。
迷った様子でひかえめな手が背中をかるく触れた。ただ触れられただけなのに、人の手が不安感を弱めてくれることをカノンは知った。両親の手をこんな風に感じたことがかつてあったはずなのにカノンはその感覚を忘れてしまっていた。
「せんせい、わたし、つきおとそうとしたんです」
「はぁん?」
久中が小首を傾げた。
「できなかったけどやろうとしたんです。幸福な人が憎かったんです」
「やらなかったんだな?」
カノンは首を振った。
「押してはいません。でもやろうとしたんです」
とぎれとぎれにカノンは突き落とそうと近づいたけれど思いとどまったところを、霧島先生が驚いて足を縺れさせたことを話した。
久中は全部聴き終えたあとで「よくなかったな」とだけ言った。
「反省はしてるのか?」
カノンは頷いた。
「ん。じゃ、いいだろ」
…………は? と、カノンは思う。
「思想・良心の自由。内心の自由。おまえは思った。でもやらなかった。そりゃ別に犯罪じゃない。そしておまえは心から反省してる。同じことはもう絶対にやらない。やろうと思わない。霧島先生には謝ろうと思っている。そうだな?」
「はい」
なによりも罪が恐ろしかった。傷つけることそのものよりも。自責に耐えられえなかった。
「霧島先生は無事だったし、怒ってもいない。だからおまえがしっかり反省してるなら大丈夫だよ。なんも問題ない」
結局のところ、久中はカノンの話を頭から信じていなかったのだ。
小島奏音という、この少しばかり思い込みが強くてさかしいところのある、真っ当で自分は悪かもしれないだなんて思い悩むふつうの少女に、妊婦を階段の上から突き落とすなんてことができるとは到底思えなかった。もしそんなことを考えても実行に移せるような人間ではない。「先生」をやっているとそれくらいのことはわかるようになる。この子は悪ではないと、いい加減に、軽薄に、力強くカノンを信じていた。
カノンはなにか言おうとしたけれど言葉がでなかった。
代わりにカノンは声をあげて泣いた。




