カノン
カウンセラーだという若い女と顔をあわせて、カノンはすぐにこの人には何も話したくないなと思った。
「はじめまして。藤宮詩織です。小島カノンちゃんね」
女の声は優しく、丁寧で、そしてどこか事務的だった。
「どういうことがあったのか、お話ししてくれる?」
カノンの語る言葉を聞きながら、彼女はカノンの目を見ていかにも私はお話をよく聞いていますよという顔をしていた。時折頷いた。
この人はカノンのことを大別して、類型化して、処理しようとしている。カノンの問題を個別の人間の抱える個別の問題だと思っていない。と、そう感じた。
カノンは仕事としてカテゴリ分けして「処理」されたくなかった。おそらくはこちらの緊張を和らげるための控えめな笑みもどこか鼻についた。声色も。眼鏡も。化粧も。少し高い背も。話すときの眼球の動きも。一つ括りにした長い髪も。この女のすべてが嫌いだった。
カノンは本音を覆い隠してありがちな悩みを適当に話して、へらへらと笑って礼を言って部屋を出た。カウンセラーは「なぜあの子はカウンセリングにきたんだろう?」という風に小首を傾げているのが見えた。ドアを閉める。
裏切られた気がした。
誰でもよかったといえば誰でもよかったのかもしれないけれど、カノンは大人たちのなかから確かに久中先生を選んで話したのだ。でも久中はカノンのことをカウンセラーに押し付けた。カノンが久中にだけ打ち明けた大切な秘密を盗まれてしまったような気がした。勿論先入観や偏見の排除のために久中からカウンセラーに向けてカノンの内面が話されていたわけではなかった。カウンセラーはカノンの持つ家族に対する憎悪や友人に対する見下しを知らなかった。それでも。
実際に久中が何を考えていたのかはわからない。
でも大人たちは信用できないと感じた。
余計なことに時間を取られたせいで塾の時間が迫っていた。仕方なくカノンは学校からそのまま塾に向かった。
塾には綾香がいて、授業の前に少し話す。
家に帰るのが嫌だった。
翌日の学校で五時間目と六時間目の間の休み時間に霧島先生を見かけた。お腹が膨らみが目立ち始めている。女子階段の一番上で女子生徒と談笑している。教室から出てきたカノン方は見ていない。カノンは不意に憎しみを覚えた。霧島の顔は幸福に充ち満ちていて、それがカノンの中の線に触れた。近づいていく。自分が何をしようとしているのかわからなかった。憑りつかれた感覚があった。霧島の姿が近づいてきてようやく「突き落とそうとしている」と、カノンは自分の衝動に気づいた。
霧島の幸福は自分たちから盗まれたものでそれを取り戻さなければならないと思った。見せつけるような幸福を放つあのいやらしい下品な女を自分たち(カノンは複数形を使った。自分を取り巻く不幸を与える人間達を背景として。おそらくはおそらくは責任を分散させるために)の手でどうにかしなければならなかった。
話を終えた女子生徒がカノンとすれ違う。霧島が伸びのような仕草をした。階段の下へと意識を向けている。お腹を慮る意思を感じる。それがカノンの苛立ちを加速させた。カノンは霧島の背中に手を伸ばした。霧島はカノンに気づいていなかった。
手が触れる寸前で、カノンは正気に戻った。
自分がどれほど恐ろしいことをしようとしていたかを瞬時に悟った。手を引き、これほど近づいたことの体裁を整えるために「霧島先生」と声をかけた。
霧島が振り返った。驚いた顔。左足が階段を泳いで靴の側面が段の一番上に着いた。両手でお腹を庇った。カノンは咄嗟に手を伸ばした。霧島を掴もうとした。間に合わなかった。その手を擦り抜けて霧島の体が階段を転がり落ちていった。血が流れた。




