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カノン  作者: 月島 真昼
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3/8

カノン

 

 夕食を食べているときに「霧島先生が妊娠したんだって」と言う。

「霧島って誰だっけ」

「去年の担任の先生、英語の」

 母が顔を顰めた。

「ああ、思い出した。あのこまっしゃくれた顔の女ね。若い女ってこれだから、たまらなないわ。無責任よね。教職なんだと思ってるの」

 吐き捨てるように母が言った。

 カノンは最初、同意を得られたことが嬉しかったが次第にこの共感は間違っているのではないかと思い始めた。だって子供ができることは素敵なことのはずなのだ。祝福されるべきなのだ。先生にだって自分の人生を生きる権利があるし、出産というのはその権利の中央に座るものの一つだと公民の授業で習った。そもそも社会的に許容されないことであるならば産休休暇という制度があることそのものが間違っている。だから先生が妊娠したことは決して教職を蔑ろにした結果ではない。霧島先生は責められるべきではない。

 そもそもカノンは社会的責任から霧島先生に嫌悪感を抱いたのではなく、そこにセックスの匂いを感じたことが嫌だったのだ。霧島先生のあの細い腰に男性の手が回り、腰が打ち付けられたことを想像してしまって、ぞっとしたのだ。

 子供ができることは素敵なことだ。

 なのにカノンは勝手に性の匂いを感じ取って、勝手に妙な嫌悪感を抱いているだけなのだ。であれば母はそれを咎めるべきなのではないか。カノンを正しい方に導いてくれるべきなのではないか。

(親のイヤなところばかり似ている)

 カノンは銃を想像した。Cannon。こめかみに突きつけた銃口から、バン、音と共に銃弾が発射される。カノンの右側から脳を貫いて左へと突きぬけていく。血を流してカノンは倒れる。それが正しい気がした。

 流れるようにテレビの中のタレントへの悪罵に続いていく母親の言葉が食卓の上にぶちまけられる。毒の粉をまぶせられたようにパスタがまずくなっていく。ミネストローネが苦くなっていく。カノンは無理にそれらを咀嚼する。

 今日は兄と父がまだ帰ってきていないのが幸いだった。

 みんな揃っていたら耐え切れなかったかもしれない。




 カノンはベッドの中で、世界から爪弾きにされてしまう恐怖に怯えていた。

 真依ちゃんも美紀ちゃんも本当のカノンを知らない。だから仲良くしてくれている。でも本当のカノンはお腹の中まで真っ黒で出来ているのだ。友達のことだって例外ではなくみんなのことを見下して、呪って生きているのだ。いつか誰かがきっとカノンを糾弾する。指を突き付けて暗い内心を暴き出し、醜いと罵る。恥ずかしさでカノンは消え入りそうになる。

 それでも朝が来て、学校に行かなくてはいけない時間になる。

 サボって問い詰められるのが嫌で、面倒で、カノンはどうにか体裁を整えて家を出た。

 一限目が終わっての休み時間で「次の最初で霧島先生にお祝い言うから、そのつもりで」と布藤さんがカノンたちのところに言いにきた。「OK」美紀ちゃんが言い、頷いた布藤さんが自分のグループに戻っていく。チャイムがなって霧島先生が入ってきて二限目の授業の前に、起立、礼のあとで着席の前に布藤さんが「せんせい、おめでとー!」と言った。みんながぱちぱちと手を叩く。

「ありがとう」

 霧島先生が微笑む。お腹はまだ目立ってはいないが膨らみ始めている。

 みんなは、特に女の子は、心の底から先生を祝福しているように見えた。カノンはそういう気持ちにはなれなかった。

「あかちゃん産まれたら、先生やめちゃうの?」

「産休はもらうけれど、続けるつもりだよ」

 優しい声で先生が言い、続くいくつかの質問に答えたあとで「はーい、そこまで。授業はじめるよ」と言って、教科書を開いてページ数を言った。


 授業が終わっていつも通り、美紀ちゃんや真依ちゃんとお話をしながら休み時間を過ごしていると、久中先生が教室に顔を出して「小島、放課後職員室」とだけ言われる。咄嗟に頷いて返す。久中先生がそのまま出て行く。

「どうしたんだろ」

「さあ」

 曖昧に頷くしかない。

 放課後になり、職員室の久中の元を訪ねる。

 久中先生の手元にはカノンの、例の感想文がある。

 土日に読むと言っていたのに。

「これな」

 久中先生は腕組みする。

「おまえぐらいの年のころだと、俺は家族のことを無神経で妙な干渉ばっかりしてくるアホの塊だと思ってたけど、おまえの憎しみはそれとは違うものなのか?」

 カノンは返答に窮した。

「ああ。いや、そりゃ俺の家族とおまえの家族は違うからどういう憎しみかってのも違うものなんだけどさ」

「“これ”は多かれ少なかれみんなが普遍的に持っているもので、別に特別なものではない、ということですか?」

「そうなんだけど、そうじゃないよな。だって近いものはあってもおまえの憎しみはこの世にたったひとつのオリジナルだもんな」

 久中先生が言った。カノンは頷いた。

「その憎しみってどういう感じなんだ? “ぶっ殺してやる”、的なやつ?」

「胸がきゅーってなる感じです」

「ああね」

「あと自分が汚いもので出来ている感じがして、とっても恥ずかしいです」

「ほぉん」

「例えば美紀も真依も全然勉強できないですよね」

「そうだな」

 短い相槌が、嫌ではなかった。目と顔がカノンの言葉にきちんと耳を傾けていたから。

「なのにのうのうと生きてるんですよ。あんな点数とって恥ずかしくないのかなって、私なら思うのに。遊んでるんです」

「なーるほど」

「こんなふうに身近な人やテレビの中の人をバカにしてるのが、親に似ててとっても嫌で憎いんです」

 久中先生の口元が引き結ばれた。

 カノンの憎しみがカノン自身にも及んでいることに危機感を抱いたようだった。

「二人に言わないでくださいね」

「俺が言っても信じないだろ、あいつら」

 それはそうかもしれない。

 カノンは少し笑った。

「んー、まあ、俺で助けになれるかはわからんが、しんどくなったら喋りにこい。贔屓にならん程度にはなんかしてやるから」

 久中先生は机の引き出しを開けて飴を取り出した。ブドウ味だった。カノンのてのひらの上に落とす。

「そんだけ。行っていいぞ」

「ありがとうございました」

 カノンは職員室を出て、包装を開けて飴を口に入れた。後ろで「久中先生、ちょっと」と誰か他の先生が久中を呼ぶのが聞こえた。カノンは靴を履き替えて学校を出る。



「久中先生、ちょっと」

 教頭に声を掛けられて久中は振り向いた。

「はい?」

「さっきの女子生徒ですが」

「小島ですか」

「悩みごとの相談ですか?」

「まあそんなとこです」

 久中はさりげなく感想文の名前のところを肘で隠した。

 たぶん知られたくないだろうと思った。

「女子生徒とあまり親密になりすぎないように。気をつけてください。悩み事があるようならカウンセラーの手配を」

 久中は一瞬だけ考えた。手続き的にはそうかもしれない。専門家であるカウンセラーを頼るのはきっと間違っていない。ただそんなに大事おおごとにしていいのだろうか。「先生」にだけ打ち明けられた小さな悩みごとにいちいち専門家を手配して、きみたちの悩み事はこんなに立派で手のかかるものだ、と教え込むのは正解なのか? 思春期の悩み事の多くは時間と周囲の小さな助力が解決してくれるものなのではないか。そりゃいじめだとか虐待だとかなら久中の手には負えないけれども。

 それでも教職免許を持っているだけの半ば素人の自分たちが対応するよりはずっといい。結論を出して、久中は「はい、気をつけます」と言って会釈した。

「では、お願いしますね」

 教頭が離れていった。

 久中は胸の中で小さくため息をついて、カウンセラーの手配をはじめた。



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