カノン
朝。目を覚ましたカノンは一階に降りて、シャワーを浴びた。髪を拭いて制服に着替える。台所にいた母親の「おはよう」に「おはよう」と返す。焼いてくれたトーストにマーガリンを塗って食べる。テレビ番組が今週のお天気を教えてくれている。今日は晴れだった。父が起きてきてカノンの向かいに座ってトーストを食べ始めた。兄は起きてこない。ぎりぎりまで寝ているつもりのようだ。カノンが家を出るときに母親が「あの子、最近ますます陰気になってきたわね」と言ったのが聞こえた気がした。気のせいだと思って自転車に乗る。途中のコンビニでお昼用のパンと飲み物を買う。
校舎脇の自転車置き場に停める。靴箱で上履きに履き替える。階段を登って、2年2組の教室に入る。美紀がカノンに気づいて小さく手を振った。カノンが手を振り返す。教室の後ろで男の子たちが体操服をいれた袋を使ってドッジボールをしている。
「ねえ、聞いた?」
美紀が言った。
「何?」
「霧島先生、妊娠したんだって」
驚いた。去年の担任だった霧島都美子先生はいつでも微笑んでいるようなやわらかい雰囲気を持った人で。そんな性的な匂いはすこしも感じさせなかった。お祝いするべきことのはずなのにカノンは奇妙な嫌悪感を覚えた。けがらわしいと思った。そんなことを思うべきではない。カノンは感情を打ち消して「すごいね」と言った。他に言うべきことが思いつかなかった。
ぽふ。カノンの頭に柔らかいものが投げつけられた。「やべ」男の子の声。誰かが投げ損ねてカノンにあたった体操着の袋を拾い上げる。
「にーしーみーやー!」
カノンが怒るよりも先に美紀ちゃんが言った。「いや、いま投げたの吉崎……」「だまらっしゃい」ずんと立ち上がって大股で詰め寄っていく様子にカノンは少し笑う。美紀ちゃんは最近よく西宮くんのことを目で追っていて、カノンのことを西宮くんに話しかけるための出汁にしたんだなと解釈する。
こっそり席に戻っていった吉崎くんに、拾い上げた体操着の袋を渡す。
「あ、ごめん。さんきゅ」
ばつが悪そうに受け取った吉崎くんに頷いて、カノンも席に戻る。
美紀ちゃんはまだ西宮くんに詰め寄っている。
そのうちチャイムが鳴って先生がやってきて、ホームルームがはじまる。
吉崎くんが手をあげて「せんせー。霧島先生の授業どうなるの?」と言った。
「産休に入るまでは普通だよ」
久中先生がどうでもよさそうに答えた。
一限目はそのまま久中先生が担当の数学の授業だったので先生は中間テストを返し始めた。カノンの番が回ってきて久中先生が答案を返しながら「昼休み職員室来い」と小さな声で言う。カノンは答案に視線を落とす。92点。なにか言われるような点数ではないはずだけれど。昨日の感想文のことだろうか。
「べつに説教じゃねーよ」
「わかりました」
先生が視線を外し、次の名前を呼んだのでカノンは席に戻る。
答案をすべて配り終えたあとで久中先生が牧田くんを呼んだ。
「牧田が今回のテストの学年一位だ。牧田、よくがんばったな。おまえら、拍手」
大して賞賛している風でもないけれど一応みんなが手を叩く。牧田くんが照れくさそうに笑う。
「んじゃミスが多かったとこを軽く復習してくぞ。ノート開け」
牧田くんを席に返して、先生がチョークを取った。
昼休みになり、美紀たちと昼食を食べ終えたあとでカノンは職員室に向かった。デスクでなにかの書類を睨んでいる久中先生に声をかける。
「おう」
久中先生が短く言う。書類を伏せる。
「おまえさぁ、俺のテストの最後の二問は毎回絶対間違えてるの、あれわざとだよな?」
一応「違います」と答えたがどこかしらじらしく響いた。
「あれか。俺が“こいつが学年一位だー”って言うの、ヤなのか? あの二問ミスってなかったらおまえ、牧田と同率だったもんな」
間違え方がへたくそなんだよ。
可笑しそうに言う。
「ま、計算途中で掛け算間違えて一問落としてるのはおまえらしいけど」
図星だったからカノンは何も言えなかった。
「次からおまえは前に呼ばないでやるから、ちゃんとテスト受けろよ。そんだけ」
「わかりました」
「ああ、あと、よくがんばったな」
話はこれで終わり、という風に久中が手を振った。
カノンは「昨日の感想文って読みましたか?」と訊ねた。
「いいや、土日にまとめて読むつもりだけど。なんだ?」
「変なこと書いちゃったから……、なんていうか、気にしないでください」
「なんか知らんがわかった」
会釈をしてカノンは教室に戻った。
注目を浴びるのが苦手なのをわかってくれたこと、褒められたこと、自分を褒めるために久中先生が時間をとってくれたことが、単純に嬉しかった。
真依が寄ってきた。
「なんの話やったん?」
「もうちょっとがんばれって」
「テスト? 何点?」
見せびらかすのも隠すのもいやらしい気がして少し迷ったけれど、カノンは答案を見せた。
「うげー。それでがんばれって言われるの大変やね」
「真依は?」
「見せたくなーい……。私を軽蔑しないでぇ」
「しないよ」
「ねえ、カノンは私に勉強を教えるべきだと思うの」
「私なんかよりちゃんとしたところで教わった方がいいよ」
「だめ。塾とかは、こう、大人たちの視線が、世界が私を見下してる気がする」
大丈夫、私もちゃんと真依のことを見下してるよ。とは言えなかった。
人間的な評価と勉学的な評価でカノンの心は二分されていて、友達としての真依はとっても好きだけれど母が口を酸っぱくして言っていた「バカとはつるんじゃダメ。うつるよ」という言葉がカノンを呪っている。自分の方がテストの点数がいいことに優越感を覚えている。相対的に真依を見下している部分がカノンの中に確かに存在する。
美紀も来て三人で少し話したあたりで昼休みが終わった。
そのあとはとくになにごともなく、カノンは家路についた。




