カノン
カノンはぞっとするほど強く自分の家族を憎んでいることに気づいた。
不意のことだった。中学二年のカリキュラム。道徳の時間。視聴覚室で映画を見ていたとき。画面の中の家族が互いに助けあって生きているのを見て、なんとなく「自分の家族はこうではないな」と思った瞬間だった。でもどうして? とカノンは思う。べつにカノンには家族を憎むような理由はないはずだった。確かに自分の親には際立った美点はないに思う。そしてもっとひどい親は世の中にたくさんいる。学校をくまなく探せば虐待に近いような扱いを受けている子供がきっと一人や二人は見つかるだろう。テレビでは子供を殺した親の話なんて一か月に一回は流れている。きちんと数えてはいないけれどきっと。
世の中に不幸はありふれているし、不幸であることは平凡なことだ。
そんな中でカノンの家庭は、少なくともそれらの種類の不幸とは無縁だ。そんな目に見えた大きな不幸が原因ではない。カノンの中で薄い黴のような憎しみが、増えるのと減るのを繰り返して、「増える」量が「減る」量よりも多くて、いまではすっかりとカノンの心を覆ってしまっている。
映画が終わり、カノン達は視聴覚室を出た。教室に戻り、内容の感想を文章にすることを求められる。何を書けばいいのか迷い、カノンは思ったことをそのまま書いてみた。映画そのものは平凡で退屈でつまらなかったこと。そして途中で自分の持つ、家族に対して強い憎しみに気づいたこと。念のためにこのことを家族には言わないで欲しいことも書き添えて、提出した。
授業が終わり、仲良しの美紀ちゃんと真依ちゃんと少し話したあと一度家に帰る。カギを捻り玄関を開く。家の中が静かでカノンを安心させる。両親が仕事で、兄は学校が終わったあと帰らずに遊びにいく。朝と夜の短い時間だけがカノンと家族の接点である。そのことがカノンには救いに思える。カノンは制服を脱ぎ、着替えてから小さなベッドに体を横たえる。目を閉じる。塾に行くまでの隙間の時間。少しでいいから眠りたかった。眠ることで憎しみを整理して自分の心から遠ざけたかった。眠気は訪れなかった。仕方ない。
まだすこし早いけれど、カノンは塾用の鞄を手にして家を出た。
十五分ほどの道のりを行き、小さなビルの前に自転車を止める。階段で三階に向かい、自習室のドアを開ける。誰もいなかった。カノンは数学のノートと問題集を開き、問5の問題を解き始めた。あまり集中できなかったが手癖で解ける難度の問題だった。
時間が近づいてきたから栞を挟んでノートを閉じた。教室に移動する。綾香ちゃんがカノンに気づいて小さく手を振っていて、カノンは彼女の隣に座った。
「なんか暗い?」
綾香ちゃんが言った。
「うーん、ちょっと」
カノンが答え、続けて綾香ちゃんが「なんかあったん?」と聞いたところで講師が入ってきた。隣で興味津々な様子の綾香ちゃんの明るさになんだか少しだけ救われながら数学の講義を受ける。数学は苦手ではなかったが中学二年生になってからぐっと問題が難しくなった。小テストが配られてカノンはそれを解く。十五分して解答が配られる。自己採点する。くだらないケアレスミスで三問も間違えていた。講師がホワイトボードで一問一問解説するのを聞く。
「まあいまさらこんなとこ間違うような粗忽者は綾香くらいだろうけどな」
講師が軽口を言い、綾香が恥ずかしそうに頭を掻いた。答案を盗み見ると綾香は確かにその関数の問題で単純な計算ミスをしていた。カノンも同じ問題を似たような計算ミスをして間違えていたので小さな声で「お揃いだね」と言った。綾香がカノンの答案を見てくすりと笑った。
二時間が経って塾が終わり、綾香と少し話してからカノンは帰路についた。
自分が落ち込んでいたことをもう一度訊いてくるかなと思っていたが、綾香はとっくにそのことを忘れているようだった。聞いてほしかったのか、訊かれたくなかったのか、複雑な気分だった。少なくとも上手く説明できる自信はなかった。
家に帰る。居間を覗くと食事の準備が出来たところだったようだ。頬杖をついてスマホを見ていた兄のリクトが冷めた目でちらりとだけカノンを見て「おかえり」と言った。「ただいま」カノンが答えた。二階にある自分の部屋に塾用の鞄を置いてから居間に戻る。
母が焼き魚と煮物、みそ汁を並べる。カノンもそれを手伝う。別に母を気遣ったからではなく早くこの時間を終えたいからだった。配膳が終わってから父がソファーから体を起こした。「いただきます」と言ったのは母とカノンだけで父はテレビを見ている。リクトが邪魔くさそうにスマホを置いて箸を取った。
テレビの中では少し古い楽曲CDの売り上げランキングをやっていた。
春になると毎年かかっている定番の曲が流れている。
「こいつら、この曲だけの一発屋やったな」
父が言った。「せやね」母が同意した。
カノンはそのアーティストのCDを持っている。動画サイト等で聴けるようになった今の世の中でわざわざ小遣いをはたいて手に入れた。彼らの代表的なヒットソングだけでもあと三曲は挙げることができた。他にもいい曲はたくさんあった。近々¥ライブがある。行きたいけれどカノンのお小遣いはそんなに多くない。
カノンは焼き魚に醤油を垂らした。他にもいい曲いっぱいあるよ? 父母に反論したかったけれどしても意味がなかった。「へぇ。そうなんや」これで終わりだ。一晩で今日のことを忘れている。彼らの曲が流れればまた「こいつら一発屋やったな」と言うのだろう。
父母の会話はこの一曲だけでこのアーティストがどれだけの金額を稼いだのかに流れていく。なんでこんなにきれいな歌詞で、こんなにきれいな曲なのに、歌の話をしないんだろうとカノンは思う。曲が終わった。
「こいつ、また顔いじったんかなぁ」
兄が言った。音楽番組の司会をしているタレントの女性に向かって。
カノンは煮物の揚げをつまんだ。体調とかで見え方が違うだけじゃない? 思ったけれど言わなかった。言えば兄は内容がどうこうではなく妹が自分の意見に反対したことに腹を立てる。そういう人だ。
母と兄の会話は誰と誰も整形顔だと流れていく。
女優さんが整形したかどうかなんてそんなに気になることなのだろうか。画面の中の彼女を見る。ぱっちりした目。口元を手で覆って上品に笑んでいる。昼のバラエティにもよく出演していて、ひどく多忙なように思う。整形したあと顔の腫れをとったりするためのまとまった時間があるのだろうか? ない気がした。カノンの知らないところですぐに腫れや熱の取れるすごい施術が開発されているのかもしれない。
「ごちそうさま」
食事を済ませて自分の分の食器を流しにつけた。部屋に戻る。
ベッドに横になる。目を閉じる。
わたしはぞっとするほどつよく家族のことを憎んでいる。
もう一度思う。




