9 リリアの絵葉書
ポチャン———。
湯気が立ちこめる浴室で、サレマはゆっくりと湯船へ身体を沈めた。
「はぁ……。」
思わず大きな吐息が漏れる。
熱いお湯が、冷え切った身体へじんわりと染み渡っていく。
こんなふうに、一人でゆっくりお風呂へ入るのはいつ以来だろう。
「レオン中心の生活だったから……。」
好き嫌いしないよう食事を工夫して。
朝から晩まで入学試験の対策に付き合って。
熱を出せば付きっきりで看病して。
寝顔を見届けてから、自分は急いで身体を流すだけ。
そんな毎日だった。
―――全部、無駄だった。
「……っ。」
胸がずきりと痛む。
十年間、あの子のために、あの家の為だけに生きてきた。
それなのに最後に残ったのは―――。
『あの人、怖い』という一言だけだった。
サレマはぎゅっと目を閉じる。
「私……、何のために生きてきたの?」
小さく呟いたその一言は、白い湯気の中へ消えていった。
・・・・・
衣装部屋へ通されると、懐かしい洋服がずらりと並んでいた。
その中で、一着のドレスへと自然と手が伸びる。
淡い水色のドレス。
レオルドと初めて顔を合わせる日、用意した一着だった。
(リリアとは、あの時すでに?)
込み上げる吐き気。
「……っ!」
サレマは水色のドレスをくしゃくしゃに握り潰し、床へ叩きつけた。
「レオルド!
……なぜ、私と結婚したのよ!!」
愛してもいないのに。
「リリア!
……最初から私を利用するつもりで!!」
言いたくても言えなかった言葉。
「レオンまで――」
その名前だけは、続かなかった。
「はぁ……はぁ……。」
静まり返った衣装部屋に、自分の荒い息遣いだけが響いていた。
サレマは目についた飾り気のない黒いドレスへ手を伸ばした。
静かに袖を通すと、鏡を見ることもなく、そのままリビングへ向かった。
・・・・・
ガチャ。
扉を開ける。
すると、ソファへ寝転がりながら本を読んでいた青年が顔を上げた。
「……。」
眼鏡の奥の目が丸くなる。
「えぇぇぇぇっ!?ね、ねーさん!?」
「久しぶりね、ノア。」
「いやいや!
なんでここにいるの!?
っていうか、何その髪!?
てか、てか――」
「慌てないの。」
昔と変わらない姉の一言。
ノアは口をぱくぱくさせたまま固まる。
「それよりノア?」
サレマは腕を組む。
「クロードから聞いたわよ。」
ノアの身体が分かりやすくギクッと跳ねる。
「な、なんのこと……かな?」
「あなた、当主付き合いをみんなへ押し付けてるんですって?」
「あー、って、いや、それ違うってば!」
ノアは勢いよく立ち上がる。
「得意なことは得意な人がやればいいんだって!」
「適材適所ってやつ!」
「ちゃんと、それで屋敷が回るように組織も人材配置も考えてるんだから!」
サレマがクロードを見ると、クロードは微笑しながら小さく頷いた。
「それは確かにその通りでございます。」
「ほらぁ~!」
ノアは胸を張る。
「ぼくがあくせく外を飛び回るより、その方がみんな働きやすいでしょ?」
ノアの言い分に、サレマは呆れて苦笑する。
「もう……。」
確かにこのアルディス家にいる皆は、良い顔をして働いている。
お父様たちが存命だったころと同じように。
おそらくそれもノアの采配の賜物なのだろう。
「……うまいこと言って。」
「でしょ?」
得意げに笑う弟を見て、使用人たちも思わず笑みを浮かべた。
部屋の空気が少しだけ和らぐ。
だが―――。
「……で?」
ノアはふと真顔になった。
「ねーさんは何があったの?」
「……っ。」
「みんな、それが一番気になってる。」
サレマの表情から笑みが消える。
「そう……そうよね。」
サレマは少し考えて、それからゆっくりと口を開いた。
十年前、夫レオルドが赤ん坊を抱いて現れたこと。
妹リリアがその子を残して亡くなったと聞かされたこと。
自分がその子の母として、十年間、過ごしてきたこと。
しかし、その子の魔法学園への主席入学が決まったその日。
死んだはずのリリアが突然現れた。
そして―――。
静かな部屋へ、サレマの嗚咽だけが響く。
クロードは拳を握り締める。
侍女は涙を拭っていた。
執事も険しい顔で目を閉じる。
「……。」
ノアだけが黙って眼鏡を押し上げた。
「……ねーさん、ちょっといい?」
サレマが涙を拭う。
「なに?今さら、何を聞いても驚かないわ。」
ノアは短く深呼吸して、サレマの目を捉えた。
「リリ姉が死んだなんて、そんな話……本当に信じてたの?」
「だってレオルドが!赤ちゃんまで連れて来て、それで……。」
狼狽する姉を横目に、ノアはクロードを見る。
「クロード、あれを。」
「はい。」
クロードはササっと棚から数枚の絵葉書を持ってくる。
「こちらです。」
「……?」
サレマは震える手でそれを受け取った。
一枚。
また一枚。
ここ数年、ノア宛に届いていた絵葉書。
青い海。
白い砂浜。
水着姿ではしゃぐリリア。
『いえーい!ノア元気ー?』
『今年も南の島でーす♪』
『今年もいっぱい遊ぶぞー!』
どれも能天気な笑顔だった。
「ねーさん宛てにも知らせ出したんだけど、見てない……?」
「そんな……ことって……。」
手から絵葉書が滑り落ちる。
アルディスからの知らせがあったのだとしたら、それを握りつぶしていたのはおそらく……。
(レオルド……!)
「私は、何も知らずに……十年間もリリアの子を……。」
サレマはその場へ崩れ落ちた。
使用人たちは誰も言葉を発せない。
ただ、崩れ落ちるサレマを見つめるしかなかった。
カチ…コチ…カチ…コチ…———。
時計の針の音だけが響く。
ノアはソファへ深く腰掛けたまま、膝に肘を乗せ、手の甲へ顎を預けていた。
眼鏡をくいっと押し上げる。
「……ねーさん。」
サレマがゆっくり顔を上げる。
「そろそろ、猫かぶるのやめたら?」




