10 眠れる獅子
『そろそろ、猫かぶるのやめたら?』
その一言で、流れそうになっていた涙がぴたりと止まった。
「……なんですって?」
サレマがゆっくりと顔を上げると、弟は眼鏡の奥から呆れたような視線を向けていた。
「ノア……。」
慰めてくれると思っていたわけじゃない。
一緒に悔しがってくれると期待していたわけでもない。
けれど返ってきたのは、あまりにも予想外の一言だった。
「それ、どういう意味?」
「そのまんまの意味だけど?」
ノアは足を組み直し、眼鏡をくいっと押し上げる。
「ねーさん、昔はそんな泣き虫じゃなかったでしょ。」
「むか、し……?」
ノアの言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
「昔、魔法対決を挑んできた性悪令嬢を一撃で返り討ちにして泣かせてたじゃん。」
「そ、それは……。」
頭の奥で、誰かが泣きながら逃げていく姿がよぎる。
「外交パーティーでさ、『女のくせに』って見下してきた伯爵を、理詰めで返り討ちにしたこともあったよね。」
胸の奥で、忘れていた記憶が少しずつ蘇っていく。
けれど。
「ノア。それちょっと話を盛りすぎ……」
「いや、全然盛ってないから。」
ノアはピシャリと言い捨て、淡々と話を続けた。
「魔法学園に通ってた時も、魔導講師が『もう貴女が教えなさい』って匙を投げてたって聞いたよ?」
サレマの武勇伝の数々に、クロードが懐かしそうに笑う。
「……私も、よく覚えております。」
サレマを、幼少期からすべてを見て来たクロード。
「私が幼い頃、領内のガキ大将に泣かされた時です。」
当時のクロードは、アルディス家へ住み込みで働く使用人見習いの少年だった。
小太りで優しい彼は、年上の子供たちにからかわれることも少なくなかった。
「翌日にはお嬢様が、ガキ大将の家ごと没落寸前まで追い込んでいらっしゃいました。」
「だって!あなたは家族同然だし……。」
サレマは思わず顔を赤くする。
「ほっほっほ。あれは、子供とは思えぬやり口でしたな」
物静かな執事長までもが、静かに参戦する。
「それ、怖すぎっ。てか、父さんの口癖だったよね。」
ノアが肩をすくめる。
「『サレマが男なら、アルディス家が世界をとれる。』って。」
「っぷ……ははは。」
「何度聞いたか分かりませんね。」
その場にいる全員が懐かしそうに笑う。
「お嬢様は誰よりも負けず嫌いでございましたから。」
メイドの、何気ない一言だった。
「負けず……嫌い……。」
負けるのが嫌だった。
道理のないことが見過ごせなかった。
卑怯、裏切り、身勝手なことが許せなかった。
だから言い返したし、だから戦った。
泣いて帰るくらいなら、相手を泣かせて帰ってきた。
なのに―――。
いつからだろう。
両親が亡くなって。
公爵夫人になって。
レオンの母になって。
"誰か"を支えることだけが、自分の役目だと思うようになったのは。
その間に、本当の自分をどこかへ置いてきてしまった。
「わたし……。」
(負けたの?)
(リリアに。)
(レオルドに。)
(……レオンにまで?)
「あとさぁ……。」
ノアが口を開きかけた、その瞬間だった。
(ふっ……冗談でしょ……?)
サレマは小さく笑うと、静かに立ち上がった。
「ノア!それ以上、言わなくてもいいわ。」
黒いドレスの裾の下で、ゆっくりと拳を握りしめる。
「私、負けるのが大嫌いだった。」
「ふっ……。」
クロードは思わず頬を緩める。
「理不尽なんて、ぜっっっったい、許さないから!!」
姉の豹変ぶりに、ノアは思わず頬を引きつらせた。
どうやら、火をつけすぎたらしい。
「ノア。あんたの魔導研究室、まだ生きてるわよね?」
ノアは一瞬きょとんとした。
「ね、ねーさん?何するつもり!?」
「何って、決まってるじゃない。」
サレマの瞳が妖しく光る。
「えっと、研究室は今散らかってて……。」
「ふーん。」
ずいっと一歩近付く。
「なら、一時間あげるわ。」
姉の目を見た瞬間、ノアの背筋がぞくりと震えた。
これは本気だ。
冗談なんかじゃない。
「片付け、いってきまぁぁっす!」
ノアは使用人を連れて、慌ててソファから飛び出した。
・・・・・
きっかり一時間後―――。
サレマはアルディス家の地下深くにある魔導研究室、その中央の席へ静かに腰を下ろした。
背後には、疲弊するノアとクロード。
研究室の正面には六枚の巨大な魔導モニター。
領内各地の様子が映し出され、その下には無数の魔法陣が刻まれた操作盤が並んでいた。
歴代当主だけがこの席へ座ることを許される、アルディス家の中枢だ。
「結界の管理、屋敷内の魔導具、それに監視魔法も全部ここから操作できるよ。」
ノアの話を聞きながら、サレマは部屋をゆっくり見渡した。
「なるほどね。領外との通信は可能?」
「うん。それなら……。」
ノアは収納箱から小さな魔石を取り出した。
「これ、携帯用の魔石。」
サレマの目の前でその魔石へ魔力を流し込むと、ノアは操作盤へ軽く触れた。
「これを持ってる相手の映像と音声は、全部ここへ送られてくるんだ。」
次の瞬間、一枚のモニターが淡く光り、研究室の景色が映し出された。
シュンッ———。
画面の中央に、魔石の正面へ座るサレマの姿が映る。
「ね?もちろん、こっち側から話しかけることもできるよ。」
サレマはモニターへ映る自分の姿を静かに見つめ、小さく頷いた。
「つまり……あなたたちが王都へいても、この部屋で状況を把握できて、指示も送れるってわけね?」
「ま、そうなるね」
サレマは少し考え込んだ。
やがて、その口元がゆっくりと吊り上がる。
その不敵な笑みを見た瞬間、ノアとクロードは思わず顔を見合わせた。
「なあ、クロード……」
「……はい。」
まずい。
「これって……。」
「もう……手遅れです。」
落ち込んだ姉が、少しでも元気になれば。
ただ、それだけのつもりだったのに。
ノアは今さらながらに気づいてしまった。
「見てなさい、リリア。」
―――自分が、眠れる獅子を呼び覚ましてしまったことに。




