8 おかえりなさいませ
馬車の窓の外に広がる景色を見つめ、サレマは小さく呟いた。
「……アルディス。」
それは、幼い頃に何度も馬で駆け回った懐かしい風景だった。
コンコン―――。
控えめな音とともに、御者席との小窓が叩かれた。
「お目覚めになられましたか。」
落ち着いた青年の声が聞こえる。
「……。」
「少々失礼いたします。」
馬車がゆっくりと速度を落としていく。
やがて完全に止まると、車体が小さく揺れた。
ガチャリ。
現れた青年を見た瞬間、サレマは思わず息を呑んだ。
整った顔立ち。
長い睫毛。
澄んだ琥珀色の瞳。
飾り気ひとつない服装にもかかわらず、王都の貴公子のような気品を漂わせていた。
「……あなたが、助けてくださったのですか?」
青年は静かに頭を下げる。
「はい……街で倒れておられるお嬢様をお見かけしましたので。」
その物腰は丁寧で、それでいてどこか懐かしい。
サレマは首を傾げる。
「あの……どこかで、お会いしたことが?」
青年は少しだけ困ったように笑った。
「覚えておられませんか。」
「え……?」
「昔、お嬢様によくお菓子をいただいておりました。」
「お菓子……?」
胸の奥で、何かが引っ掛かる。
ぽっちゃりとした少年。
いつも厨房を覗いては、お腹を空かせていた使用人見習いの男の子。
「ま、まさか……。」
青年は優しく微笑んだ。
「クロードでございます。」
「……クロード!?」
思わず目を見開く。
「うそ……。」
あの頃の面影はある。
優しく笑う目元だけは、あの日のままだった。
「あなた……あのクロードなの?」
照れくさそうに頬をかく。
「少し、痩せました。」
その言葉に、サレマは思わず小さく笑ってしまう。
「す、少しどころじゃないわ。」
あの頃は、屋敷中の使用人たちからも「食いしん坊」と笑われるほどのぽっちゃりさんだった。
食堂で会えば、焼き菓子を半分こして。
庭で転べば、一緒になって泥だらけになって。
身分は違っても、兄弟のように育った少年だった。
それが今では、見違えるほど凛々しい青年になっている。
サレマが力なく笑うと、クロードはどこか訝し気に目を細めた。
「お嬢様も……変わられましたね。」
その一言に、サレマの肩がぴくりと震える。
「十年……ですものね。」
白銀へ変わった髪に触れながら、視線を落とす。
十年前の自分とは、何もかも違っていた。
クロードもまた、自分の失言に気付いたのか、小さく目を伏せた。
「立ち入った物言いでした。申し訳ございません」
「いいのよ。……本当のことなのだから。」
サレマは淑女の欠片もない出立ちに、急に恥ずかしさが込み上げる。
「ご安心ください。お嬢様の帰る場所は、いつでもこのアルディスにございます。」
その一言に、サレマは小さく唇を震わせた。
「……ありがとう。」
その言葉を口にしただけで、胸の奥に張りつめていたものが少しだけほどけていく。
しばらく馬車の中に静かな時間が流れた。
ふと、サレマは思い出したように顔を上げる。
「そういえば……。」
クロードへ視線を向けた。
「あの子は元気にしている?」
「ふふ、坊ちゃまでございますか?」
サレマは静かに頷く。
「ええ。立派に当主を務めているかしら?」
その言葉に、クロードは困ったような笑みを浮かべた。
「立派……と言いますか。」
頭をかきながら、小さくため息を漏らす。
「当主としてのご判断に誤りはございません。」
「それなら安心だわ。」
「ですが……。」
クロードは苦笑した。
「人前に出ることを極端に嫌われまして。」
「え?」
「お客様との面会も、社交も、催しへの出席も、ほとんど全て我々へ押し付けられております。」
「まあ……。」
「ご本人は研究室へ籠もりきりで、朝から晩まで魔法研究ばかり。」
「食事をお持ちしても、『そこに置いといて〜』一言でございます。」
「執事長も侍女長も、『もう少し外へ出てください』と毎日のように申しておりますが……。」
「聞く耳を持たれません。」
サレマはぽかんと口を開けた。
「……もう。」
額へ手を当て、小さくため息をつく。
「あの子ったら〜〜!」
呆れたように笑う。
「昔から一つのことに夢中になると、周りが見えなくなる子なのよ!」
「宿題を始めたら、ご飯を呼んでも返事もしないし。」
「本なんて読み始めたら、一日中部屋から出てこなかったでしょう?」
「まったく!当主になっても変わってないんだから。」
クロードはその横顔を見つめる。
そして、ふっと目を細めた。
「……クスッ。」
「ん?どうしたの、クロード」
「今のお顔。」
クロードが穏やかに微笑む。
「昔のお嬢様が、お戻りになられたようです。」
「もう……。」
サレマは照れくさそうに微笑んだ。
その時だった。
ガタン。
馬車がゆっくりと速度を落とす。
「到着したようです。」
クロードが静かに立ち上がる。
「お嬢様。」
扉を開き馬車を降りると、丁寧に手を差し伸べた。
「アルディス家でございます。」
サレマはその手を借り、ゆっくりと馬車を降りる。
懐かしい門。
幼い頃から見慣れた屋敷。
胸の奥が熱くなる。
すると――。
「あら……どちらのお客様……。」
「……え?」
「お……、お嬢様!?」
庭を掃いていた侍女の手が止まる。
目を丸くしたまま、何度もサレマの顔を見つめた。
「みんな!サレマお嬢様がお戻りよ!」
その一声だった。
庭中の使用人たちが、次々と馬車に集まり、姿勢を正す。
息を呑む音が重なった。
そして――
クロードが深々とお辞儀をする。
「おかえりなさいませ、サレマお嬢様。」
クロードのその姿に続くように、屋敷中の使用人たちが一斉に深く頭を垂れた。
「おかえりなさいませ!!!」




