5 十年間、お疲れ様
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
皆が控える控室に、リリアの悲鳴が響き渡った。
「っは!?なんだ!?」
リリアの悲鳴に、レオルドは顔色を変え、会場に飛び込んだ。
その目に飛び込んできたのは、白い肌を赤く染める鮮血。苦しそうに胸元を押さえ、今にも倒れそうなリリアの姿だった。
「リリアァァァ!!」
レオルドは駆け寄り、その身体を力強く抱き留める。
「ああ……レオルド……!」
震える声。
苦しげな息遣い。
今にも意識を失いそうなその姿は、誰が見ても哀れな被害者だった。
「お姉様が……突然……。」
それだけ言い残すと、リリアは力尽きたようにレオルドの胸へ顔を埋める。
「リリアァ!しっかりしろ!」
血に染まった手を見たレオルドの表情から、理性が消えた。
「この女がリリアを刺した!」
夫の怒声が広間を震わせる。
「医者を呼べ!この女を即刻捕らえろ!」
命令と同時に、衛兵たちが一斉にサレマへ襲い掛かった。
「待って!レオルド、話を聞いて!」
「黙れ!!」
二人の衛兵は容赦なくサレマの両腕をねじ上げ、そのまま床へ引き倒した。
「いやっ!」
膝が石床へ叩きつけられる。
控えめなドレスの裾は裂け、白く染まった髪も無惨に乱れていく。
それでもサレマは必死にもがいた。
「私は何もしていない!リリアが自分で刺し――!」
しかし。
必死の訴えは、誰の耳にも届かなかった。
「来い!」
乱暴に引きずられるサレマ。
その行く手には、寄り添うレオンとリリアの姿があった。
(だめよ。このままなんて。)
レオン。
せめて一度だけ。
最後に一度だけ、この子だけは。
(このまま別れるなんて――)
「レオン……!」
震える声で名を呼ぶと、レオンはゆっくりと顔を向けた。
十年連れ添った、母子の視線が重なった。
その一瞬、サレマの胸に小さな希望が灯る。
伝わるはず、この子ならきっと。
「レオン。お母様の話を聞いて!」
しかし。
レオンはサレマからそっと視線を逸らすと、怯えたようにリリアの背中へ身を隠した。
そして、レオンは震える声で、小さく呟いた。
「お母様……あの人、怖い。」
サレマの呼吸が止まる。
この子は。
今、この子は。
わたしを『あの人』と呼んだの?
毎日名前を呼び、抱き締め、眠れぬ夜も、この子だけを想って生きてきた。
そのすべてを知っているはずの息子が。
わたしを『怖い』と言ったの?
サレマの中で、十年間積み重ねてきたものが、音もなく崩れ落ちていく。
「歩けっ!」
衛兵が腕を乱暴に引く。
サレマはもはや抵抗することも忘れ、力なく引きずられていった。
そして、リリアのすぐ横を通り過ぎようとした、その瞬間。
リリアは誰にも気付かれぬよう、そっとサレマの耳元へ顔を寄せた。
「……十年間、お疲れ様。」
「――――っ。」
サレマの瞳が、大きく見開かれた。
妹の一言。
その一言だけで、すべてを悟った。
目が離せない幼い時期。
母親として一番苦しく、一番手の掛かる十年間。
その苦労を、この妹は全て分かっていて。
――すべてを私に押し付けたのだ。
そして。
立派に成長し、神童と呼ばれ、今日という晴れ舞台を迎えたこの瞬間を待っていた。
若さも美しさも、何一つ失うことなく。
一番おいしい実だけを、何食わぬ顔で掻っ攫うために。
最初からすべて、妹の計算だったのだ。
リリアはすぐに身体を離すと、再び涙を浮かべる被害者に戻り、何事もなかったようにレオンを抱き寄せる。
レオルドはサレマを見下ろした。
「離縁だ。」
たった一言。
十年間連れ添った夫は、たった一言で妻を切り捨てた。
この男にとってサレマの利用価値は、さながら無料で使える家庭教師を兼ねた世話係。
立派な跡取りが完成すれば、そこで用済み。
それだけのこと。
夫に裏切られ、子にも見放された。
——こうして、母として生きた十年は、一瞬にして全て妹に奪われた。




