4 偽物のお母さま
サレマへ非難が集中する中、祝宴の主役であるレオンは、ゆっくりと顔を上げた。
その青い瞳が見つめるのは、二人の母。
今まで母として自分を育ててくれたサレマ。そして今日初めて現れた、本当の母だという美しいリリア。
レオンは唇をきつく結ぶと、小さな拳を胸の前でぎゅっと握り締めた。
まだ幼い肩が、小さく震えている。その姿を見つめるサレマの胸もまた、張り裂けそうなほど苦しかった。
(いいのよ、レオン……。)
無理をしなくていい。
誰より戸惑っているのは、この子なのだから。
しばらく俯いていたレオンは、小さく息を吸うと、意を決したように顔を上げた。
「僕の……お母さまは……。」
会場中の視線が、一斉にレオンへ集まる。
一瞬の静寂。
そして。
「僕のお母様は、一人だけだ!」
澄み切った少年の声が、静まり返った祝宴会場へ響き渡った。
その言葉を最後に、レオンはゆっくりと歩き始める。
一歩。
また一歩。
真っ直ぐこちらへ向かってくる小さな姿に、サレマの頬を一筋の涙が伝った。
「ああ……レオン。」
胸の奥に張りつめていたものが、ふっとほどけていく。
この子だけは。
この子だけは、私を信じてくれた。
泣き虫だった幼い日も。
眠れない夜も。
熱にうなされ、小さな身体で苦しんだ夜も。
何度も何度も、この腕の中で抱き締めてきた。
だから今日も。
今日もきっと、大丈夫。
サレマは震える両腕を、そっと広げた。
「おいで、レオン……。」
二人の距離が縮まっていく。
あと三歩。
あと二歩。
あと一歩。
抱き締められる。
そう思った、その瞬間だった。
――スッ。
レオンはサレマを一瞥することもなく、そのすぐ脇を静かに通り過ぎた。
「えっ……。」
サレマの掠れた声が零れる。
そのまま真っ直ぐ駆け抜けると、広間の奥で涙を流すリリアへ勢いよく飛び込んだ。
「お母様!」
リリアは涙を溢れさせながら、レオンを胸へ強く抱き寄せる。
「ああ!レオン……。」
レオンはリリアの腕の中で、そっと顔を上げた。
淡いピンク色の髪は輝き、雪のように白い肌を伝う涙は、その美しさを際立たせていた。
その姿に、貴族の男たちは誰もが見惚れ、先ほどまでサレマを笑っていた子どもたちでさえ、羨望の眼差しを向けている。
神童と讃えられ、誰よりも将来を期待されながら育ったレオン。
少年は、誰もがリリアへ向ける羨望の眼差しを見ていた。
美しいお母様。
神童である自分にふさわしいお母様。
十年間、命を削って育てた息子は——
その日、自らの意思で母を捨てた。
・・
美しいリリアと神童レオン。
それは、誰の目にも、感動的な親子の再会に映っていた。
静まり返った祝賀会場に、やがて一人の貴族が震える声で口を開く。
「……本物です。」
「この親子鑑定書、王家公認の正式なものです!」
その一言をきっかけに、張りつめていた空気が一気に崩れた。
「親子の絆は誤魔化せなかったな。」
「レオン殿は本当の母親を選んだんだ!」
レオルドはゆっくりと会場を見渡すと、勝利を確信したように口元を歪めた。
「もう観念するんだ、サレマ!」
そう言って、立ち尽くすサレマへ冷たい視線を向ける。
「この子が自ら本当の母を選んだ。これ以上、何を疑う必要がある。」
その言葉が、最後の一押しとなった。
祝賀会場に残っていた最後の疑いは、音を立てて崩れ去った。結果として、誰一人として憔悴したサレマへ歩み寄る者はいなかった。
「衛兵。」
静まり返った広間に、レオルドの低い声が響く。
「この女を、伯爵家から追放しろ。」
レオルドの命令に、衛兵たちは一瞬だけ顔を見合わせた。
しかし、逆らう者は誰一人いない。
二人の衛兵が静かに歩み寄り、サレマの両腕へ手を伸ばした。
その時だった。
「……お待ちください!」
凛とした声が広間へ響く。
振り返ると、レオンを優しく抱き寄せたまま、リリアがゆっくりと立ち上がっていた。
「今日は、レオンの首席合格を祝う大切な日です。」
その瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。
「これ以上、騒ぎを大きくしたくありません。」
「リリア、何を言っている!せっかく――」
レオルドが声を荒らげると、リリアは小さく首を振った。
「お願いです。どうか、最後だけは姉妹だけの時間をください。」
瞳を揺らしながら懇願するリリアに、何も言えなくなるレオルド。
「リリア様、なんというお優しい方だ。」
「自分を苦しめた相手にまで情けを掛けるとは。」
貴族の一人が感嘆の息を漏らす。
「お母様……?」
レオンも不思議そうにリリアを見上げる。リリアは優しく微笑み、その頭をそっと撫でた。
「レオン。少しだけ待っていてくれる?」
「……はい。」
レオルドは大きく息を吐くと、小さく頷いた。
「リリアたっての願いだ。全員、席を外してくれ。」
その声に、使用人も貴族たちも次々と広間を後に控室へ移動していく。
やがて、大広間にはサレマとリリア、アルディスの聖女姉妹の二人だけが残された。
・・・・・
静寂が流れる大広間。
先に口を開いたのは、リリアだった。
「やつれたわねぇ、お姉様。」
その声には、先ほどまでの優しさと品の欠片もない。
「私ほどじゃないにしても、もう少しマシな姿を想像していたのだけれど。」
「リリア!そんなことは今、どうでもいいでしょう!?」
サレマは震える声で叫ぶ。
「それより、この茶番はどういうことなの!?」
リリアは肩をすくめ、くすりと笑う。
「どういうことって?さっき、みんなの前で話した通りよ?」
「ふざけないで!あなたは婚儀の日が決まったとたんに突然姿を消したのよ!」
リリアは姉の言葉など無視して、銀食器を手に自分の前髪を直す。
「それが今さら現れたと思ったら、あんな嘘までついて!」
「嘘ぉ?」
リリアは口元に笑みを浮かべたまま、一歩近づく。
「嘘じゃないわ?レオンは本当に私とレオルドの子よ?
……まぁ、予定外だったけどね」
「な、なんですって!?」
「仕方ないじゃない。
イケメン伯爵様をちょっと味見しただけなのに。
あの男ったら初めてで興奮しちゃってさぁ……。」
気持ち悪い―――。
妹が何を言っているのか理解できない。
そもそも、これは本当に自分の知ってる妹なのか?
「ふふっ。かわいかった妹がどうして――っとか、思ってる?」
心を読まれたサレマは、ハッと顔を上げる。
「昔っからムカついてたのよねぇ、優秀なあんたが」
「……っ!?」
「魔力がすごいだか何だか知らないけど、
あんただけみんなにちやほやされて、神童とか言われちゃって。」
ペラペラと動く、赤い唇。
もう、目の前の女が妹にすら見えなかった。
「……リリアが、あたしの事を嫌いだったのは分かった。」
「……でも!」
「でもぉ?」
「レオンの事よ!!」
「レオルドとの間に子供が出来たんだったら、
十年前の婚姻の儀の前に言ってくれれば良かったのよ!」
「そうすれば私だって、身を引いたのに!」
大広間にサレマの叫びだけがむなしく響く。
「はぁ……相変わらず能天気ね、お姉様は。」
手にしていたの銀食器をサレマへ向ける。
「ほら。自分の顔を見てごらんなさい?」
サレマは、リリアを見つめていた目を、恐る恐る銀食器に移す。
白銀に染まった乱れた髪。
やつれ切った顔。
リリアと一つしか違わないはずのサレマの顏からは、その精気がほとんど失われていた。
「こんな醜い姿になって。
そんなんだから、育てた子どもにまで捨てられるのよ。」
「リリア!あなた、もう許さないわよ!!」
怒りに震えたサレマが、一歩踏み出した。
その瞬間。
リリアはテーブルの上のフォークを掴むと――。
「ふふ。本当に、お姉さまらしい最後だわ。」
そう言って自らの手の甲へ、勢いよく突き刺した。




