40 完璧なる断罪 リリア編
盛り上がった石畳を突き破り、幾重にも絡み合った木の根で形作られた巨大な顔面が姿を現した。
「コォォォォォ……。」
異形がゆっくりと口を開くと、腹の底へ響くような低いうなりが庭園を震わせる。
「あはっ……あははははっ!」
リリアが両腕を大きく広げると、全身から溢れ出した緑色の魔力が濁流のように庭園中へ流れ込んでいく。
「もう、どうでもいいわ!」
その叫びに応えるように大地が一斉に唸り始めた。
庭園全体が波打つように隆起し、地中から巨木同士が絡み合い、枝は腕となり、幹は胴体となって、一つの巨大な人型を形成していった。
根はなおも大地へ深く食い込み、その巨体を支え続ける。
やがて十数メートルはあろうかという木の巨人が、ゆっくりと立ち上がった。
「今度は腕だけじゃないわよ、お姉様!」
涙と笑みが入り混じった顔で、リリアは誇るように叫んだ。
「こんな家……。」
巨人は天へ向かって咆哮を上げ、そのまま巨大な拳を高く振り上げる。
「……全部壊してやるんだから!!」
ドォォォォォン――――!!
振り下ろされた拳はサレマではなく、屋敷全体を包む黄金の防護壁へ叩きつけられた。
耳をつんざく轟音とともに黄金の結界へ巨大な波紋が走る。その衝撃だけで屋敷中の窓ガラスが激しく震え、廊下に飾られた絵画までもが揺れた。
「う、うぉぉ!?」
「きゃぁぁあ!!」
ヴィクターと共に避難していた使用人たちの悲鳴が屋敷中へ響き渡る。
屋根の上ではノアが顔をしかめた。
「ぐっ……おっも。」
防護壁は破られていない。
だが、その一撃は決して軽いものではなかった。
その様子を見つめるクロードは、ただ静かに腕を組み、その前に立つサレマだけを見つめていた。
「サレマ様……ここまでかと。」
サレマは静かにうなずくと、黄金の結界を見上げた。
「……リリア。」
先ほどまでの穏やかな声はもうない。
「なぜ、関係のない人たちまで巻き込むの。」
サレマがゆっくりと妹へ視線を向けると、リリアは肩で息をしながら笑った。
「あはっ……!」
「みんな、お姉様の味方なんだから!」
「だったら、まとめて潰れてしまえばいいのよ!」
サレマは静かに目を閉じた。
「……そう。」
短く息を吐き再び目を開くと、その瞳にはもう、迷いはなかった。
「なら、教育は終わり。」
サレマは両手へ魔力を込め、空間そのものを引き寄せるように静かに両腕を引いた。
「教育って、何様のつも――」
言い終わる前だった。
巨人の首が、見えない力に掴まれたように前へ引き寄せられる。
「っ!?」
同時に、リリアの喉元へ強い圧迫感が走った。
「んぐっ……!」
反射的に自分の首を押さえる。
その瞬間―――。
パンッ!!
サレマは巨人の頬を払うように、手のひらを軽く横へ振った。それだけで十数メートルの巨人の顔が真横へ弾け飛ぶ。
パンッ!
パンッ!
パンッ!
サレマが手を払うたびに、巨人の頭部が操り人形のように左右へ振り回される。その衝撃は、魔力を通じてリリアへと伝わった。
「ちょっ!?」
パンッ!
「いたぁ!!」
パンッ!!
「やめっ!!」
パンッ!!
次の瞬間。
パパパパパッ―――。
巨人の頭部が高速で左右へ弾かれ、もはや残像しか見えない。
パパパパパパパパパパパッ――――――!!
連続する衝撃波が庭園を薙ぎ払い、木々を根元から吹き飛ばしていく。
ミシッ。
ついに巨人の首が悲鳴を上げた。
だが、サレマの表情は変わらない。
ただ静かに、手のひらを左右へ往復させる。
ミシミシミシミシッ――。
そして。
―――パァァァ………ンッ。
最期の一撃だけは、音すら置き去りにした。
次の瞬間。
――ボゴォォォォォォンッ!!!
巨人の頭部が首ごともげ、砲弾のような勢いで夜空へ撃ち上がる。
雲を突き抜け、色づき始めた夕日を横切ると、そのまま夕暮れの彼方へ消えていった。
その瞬間、リリアの首へ凄まじい激痛が走る。
「――ひっ!?」
自分の首まで吹き飛ぶ。
一瞬、本気でそう思った。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
———ドサッ。
つながったままの首と引き換えに、リリアの意識はプツリとそこで途切れた。
・・・
一方、頭を失った巨人は、踏み出すたびに巨木が砕け、枝が弾け飛ぶ。
バキッ。
バキバキバキッ――。
やがて巨体は支えを失い、ゆっくりと前のめりに傾いた。
ドォォォォォォォォン――――!!!
大地が激しく揺れる。
その轟音の中、サレマは静かに呟いた。
「還りなさい。」
その言葉に応えるように巨人の身体は紫色の炎に包まれた。
ゴォォォォ……。
灰すら残さず燃え尽き、その巨体は夜の闇へ溶けるように消えていく。
やがて庭園に静寂が戻った。
・・・
「は……っ。」
荒れ果てた庭園で目を覚ますリリア。
「……首!あ、あたひの首!?」
サレマは足元へ落ちていたメイド服を拾い上げると、何も言わずにそっとリリアの肩へ掛けた。
「……は、はれ……おねえしゃま……?」
赤く腫れた頬で、呆然と姉を見上げるリリア。
「着なさい。恥ずかしいでしょう。」
リリアはハッと我に返ると、慌ててメイド服を胸元へ抱き寄せた。
そして縋るように両手を掲げ、魔力を練る。だが、指先で緑色の光がかすかに揺らめくだけで、先ほどまでの圧倒的な奔流は二度と生まれない。
「も、もう……らめ……。」
自分の両手を見つめたまま崩れ落ちると、メイド服を抱き締めたまま、乾いた笑いが漏れた。
「はー……あたひ、終わったわ……。」
サレマは静かに見下ろした。
「ええ、終わったわね。」
リリアは舌打ちしながら顔を背ける。
「でも、当然でしょう。」
静かな声だった。
「それだけのことをしたのだから。」
サレマは、地面に座り込むリリアを見下ろしながら、その周りをゆっくりと歩く。
「伯爵夫人になれば、幸せになれると思ってた?」
リリアは痛む頬を手で押さえるようにして、サレマからその表情を隠す。
「綺麗なドレスを着て。」
「みんなに羨ましがられて。」
「何不自由なく暮らせるって?」
小さく鼻で笑った。
「ほんっと、幼稚だわ。」
反論しかけたリリアの唇が、何か言いかけたまま止まる。
そこへ。
「サレマお嬢様。」
クロードが静かに歩み出ると、一束のはがきをサレマへ差し出した。サレマがその絵葉書を目にした瞬間、リリアの肩がびくっと震える。
「南の島、ねえ……。」
さらに一枚。
「ビーチ。」
もう一枚。
「こっちは温泉。」
サレマは最後の一枚を見てふっと笑うと、そっと手放した。
「これがあなたの十年……。」
何枚もの絵葉書がひらひらと舞いながら、リリアの目の前へ散らばっていく。
うまくいくと思っていた。何も知らない姉を出し抜いて、追い出して、悠々自適に暮らせると思っていた。
そんなリリアの幻想は、散らばった絵葉書と一緒に足元へ転がっていた。
「こんなもののために、奪ったの?」
散らばった絵葉書をかき集めようとしたリリアの手が止まる。
「レオンから。」
サレマはゆっくりとしゃがみ込み、リリアの目の前へ人差し指を突きつけた。
「あなたという"本当の母親"を。」
咄嗟に、その指先から目を逸らそうとしたリリア。
しかし次の瞬間、サレマの指先が顎を捉え、その視線を逃がさなかった。
「―――十年も。」
・・・
やがて。
静まり返っていた庭園では、使用人たちが壊れた植え込みや石畳の修復をはじめていた。
「そっちは大丈夫か!」
「二人来てくれ!」
ヴィクターの怒号が飛び、クロードが軽々と倒木を運ぶ。
誰もが自分の仕事に追われる中、リリアだけがその場へ取り残されていた。
「誰も、私なんて見てないのね。」
やがてリリアは静かに立ち上がると、そっとその場を後にする。
屋敷の窓枠を修復していたノアだけが、その背中に気づく。
「リリ姉……。」
弟は、その背中をただ静かに見送った。
・・・・・
——夕暮れ。
赤く染まったアルディスの街道を、リリアは一人歩いていた。
身にまとっているのは、地味なメイド服だけ。
「何もない……。」
「全部、なくなった。」
「家も……。」
「家族も……。」
「全部。」
その声には怒りも悲しみもない。
ただ足だけが、行く当てもなく前へ進んでいく。
そのときだった。
「……?」
メイド服のポケットへ入れた手が、一枚の手紙に触れる。
リリアは足を止めると、震える指先で手紙を取り出した。
そこには、見慣れた文字が綴られていた。
—あなたは、すべてを失ってはいない―
リリアの瞳が、ゆっくりと文字を追う。
—あなたを、お母様と呼ぶ子が待っている—
—あの子を傷つけたのなら、あなたから向き合いなさい—
—母親らしくなんて、無くていい—
夕陽が手紙を赤く染める。
―ただ、慈しみなさい—
差出人の名前は、書かれていなかった。
それでも、誰の手紙なのかは分かっていた。
「……帰っても、いいのかな。」
夕暮れの風が、リリアの言葉をさらっていく。
リリアはしばらく立ち尽くしていた。
やがてメイド服のポケットに手紙をしまうと、王都へ続く道へ目を向ける。
もう、豪華な馬車もどこにもない。
それでも――。
リリアは長い長い家路を、自分の足で歩き始めていた。
・・
「ちょっと、遠過ぎ……だわ……。」
その足が伯爵家に辿り着く頃には、空は白み始めていた。
かつて豪華な馬車が絶えず出入りしていた門前には、差し押さえの荷車が残した深い轍だけが刻まれている。屋敷を見上げれば、明かりの消えた窓がいくつも並び、人の気配も以前とは比べものにならないほど少なかった。
リリアは泥に汚れた素足のまま玄関へ立ち、目の前の扉へそっと手を伸ばす。
だが、その指先は途中で止まった。
「はぁ……。」
本当に自分が戻っていいのだろうか。
何度も扉へ手を伸ばしては、その手を引っ込める。
そのたびに不安だけが大きくなっていった。
その時だった。
ドタドタドタッ——。
屋敷の奥から慌ただしい足音が近づき、勢いよく玄関の扉が開く。
「お母様!?」
飛び出してきたのは、寝間着のままで靴もきちんと履けていないレオンだった。
リリアの姿を見つけた瞬間、その目から大粒の涙が溢れる。
「もう!どこに行ってたの!」
叫ぶように言うと、そのまま勢いよく飛びついてくる。
「ずっと帰ってこないから、いなくなったのかと思った!」
小さな身体が震えている。
そんなレオンを前に、リリアは両手を宙へ浮かせたまま動けずにいた。
―――パァァァンッ!!
試験場で叩いた頬。
『もう、いらない』
突き放すように浴びせた言葉。
それでも、この子は自分の帰りを待っていてくれた。
「レオン……。」
ようやく震える声が漏れる。
「こんな私を、許してくれるの……?」
リリアがしゃがみ込むと、レオンはリリアの顔をまっすぐに捉えた。
「あのね。」
少し照れたように、でもその目線はリリアから離れない。
「お母様がボクをいらないって言っても、僕はもうお母様を捨てない。」
ハッキリとした口調。
「―――そう決めたんだ。」
想像していなかった言葉。
本当に自分の子供なのかと、疑いたくなるほどの寛大さ。
「ごめん……なさい。」
生まれて初めて、心から口にした謝罪だった。
恐る恐る腕を伸ばし、小さな背中を抱き寄せる。
「ごめんなさい……。」
その一言を繰り返すたび、胸の奥へ押し込めていた後悔が溢れていく。
レオンは何も言わず、母を抱きしめていた。
・・・
その光景を、玄関ホールから一人の男が静かに見つめていた。
以前の威厳は影を潜め、その顔には短い間で刻まれた深い疲労が滲んでいる。
リリアはレオンを抱いたまま、その視線に気付いた。
自然と身体が強張る。
レオルドはゆっくりと玄関の外へ歩み出ると、二人の前で足を止め、小さく息を吐いた。
「……帰ってきたのか。」
それだけだった。
「あの……私……。」
ようやく絞り出した声は震えていた。
レオルドはしばらく何も言わないまま、母へ必死にしがみつくレオンの小さな手へ視線を落とす。
「リリア。私がお前を許すことは、ない。」
その一言に、リリアはゆっくりと目を閉じた。
当然だった。
それだけのことを、自分はしてきたのだから。
「だが……。」
レオルドは静かに続ける。
「レオンはまだ、お前を母親と呼んでいる。その事実だけは、誰にも変えられない。」
真っ直ぐにリリアを見据え、穏やかに言葉を結んだ。
「母親として償いたいのなら、今度は……この子から目を逸らすな。」
リリアの瞳から、新たな涙が零れ落ちる。
「……ありがとう。」
その返事に、もう虚勢はなかった。




