最終話 サレマの絵葉書
それから数か月後。
すっかり物の減った伯爵邸へ、一通の絵葉書が届いた。
「特別郵便でーす。」
玄関先で郵便屋が差し出した絵葉書を見つけ、レオンは嬉しそうに駆け寄った。
「僕宛て?」
表には、大きな文字で名前が書かれていた。
『レオンへ』
見覚えのある筆跡だった。
レオンは胸を高鳴らせながら、絵葉書を裏返す。
「……わあ!」
そこには、眩しいほど青い海と白い砂浜が写っていた。
中央のデッキチェアには、純白のドレスを纏ったサレマ。その側にはアイスコーヒーを手にしたクロードが立ち、浮き輪の上ではノアが大きく手を振っている。
写真の左の隅では、慌てて画角に入ろうとした元執事長が、転んだまま見切れていた。
全員が、穏やかな笑顔を浮かべている。
「お母様だ!」
レオンの顔がぱっと明るくなる。
「あれ、これってクレイス先生!?」
よく見ると、眼鏡を外したクロードは、確かにレオンが知る家庭教師と同じ顔だった。
「ノアお兄ちゃんも!」
絵葉書の余白には、サレマからの短い言葉が添えられていた。
—レオンへ—
—次に会った時、あなたが考えた魔法を見せてね—
—もう一人のお母様より—
レオンはその文章を何度も読み返した。
「次に会った時……。」
胸に、絵葉書を抱き寄せる。
もう二度と会えないわけではない。
その事実だけで、胸の奥が温かくなった。
「レオン!今、何と言った!?」
突然、二階の書斎からレオルドの大声が響いた。
ドドドド——。
書類を抱えたまま勢いよく階段を駆け降り、そのまま玄関ホールへ飛び込んでくる。
「今、クレイスと聞こえたが!?」
「うん。言った。」
「どれだ!」
レオルドはレオンの手から絵葉書を奪い取ると、目を血走らせながら写真の隅々まで確認する。
「どこだ!?私のクレイスはどこにいる!」
そして、サレマの隣に立つクロードを見つけた瞬間。
「おお!」
安心したように息を吐くと、写真へそっと指先を添えた。
「ふうむ……元気そうではないか。」
ほっと息をついたのも束の間、今度は不満そうに唇を尖らせる。
「ところでクレイス。なぜ、私へ一言も寄越さないのだ?」
写真へ向かって本気で問い掛けるレオルド。
そんな父を見て、レオンは困ったように首を傾げた。
「お父様……写真は返事しないよ?」
そのとき――。
バァーーン!
リビングの扉が勢いよく開いた。
「ふたりとも、何をぐずぐずしてるの!」
旅行鞄を両手いっぱいに抱えたリリアが、息を切らせながら立っていた。
上質な服装ではあるものの、以前のような派手な宝石は身に着けていない。ただ、その表情だけはいつものリリアに戻っている。
レオルドとレオンは、同時に目を丸くした。
「リリア?何だ、その荷物は。」
「何って、決まってるでしょう?」
リリアは鞄を床へ置き、腰へ手を当てる。
「私たちも行くのよ!」
父と子は一度顔を見合わせ、もう一度リリアに目を向ける。
「……どこへ?」
腰に手を当てるリリア。
「どこって、お姉様のところに決まってるじゃない!」
そう言って、ビシィっとあさっての方向へ指を指す。
玄関がしーんと静まる。
やがて、その意味を真っ先に理解したレオンが、両手を上げて飛び上がった。
「あっ……やったぁぁぁ!」
驚きの声の直後、顔いっぱいに笑みが広がる。
「行く行く行く行く行く!海でお母様に僕の魔法を見せるんだ!」
レオルドも絵葉書を握り締めたまま、大きく頷いた。
「う、うむ……そうだな!伯爵家の再建は、クレイスを連れ戻してからでも遅くはないだろう!」
近くにいた執事とメイドが思わず口を挟む。
「いやいやいや、旦那様!」
「突然、困りますよ!」
だが、そんな使用人たちの言葉は、三人の耳には届いていなかった。
リリアは満足そうに頷く。
「じゃ、そういうことで!」
許されたとは思っていない。
すべてが元通りになるとも思っていない。
けれど、このまま大人しく引き下がれば、姉には一生追いつけない。
それに。
姉や弟たちだけが南の島で優雅に過ごしているなど、到底許せるものではなかった。
「こんなことで、へこたれてたまるもんですか。」
リリアは旅行鞄をひょいと持ち上げ、玄関を勢いよく指差した。
「さあ!南の島へ、出発よ!」
「おー!」
レオンも負けじと拳を高く突き上げる。
「クレイス、今行くぞ!」
レオルドが一番に駆け出すと、リリアとレオンも競うように後を追う。
三人は、荷物を抱えたままあっという間に屋敷の門を抜け、その姿は通りの向こうへ消えていく。
残務整理に追われていた使用人たちは、ただ呆然と三人の背中を見送るしかなかった。
・・・・
その頃――。
南の島には、王都の騒動など嘘のような穏やかな時間が流れていた。
真っ青な海。
雲一つない空。
白い砂浜には、色鮮やかな日傘が並んでいる。
ザザーッ……ザザーッ……。
サレマは波音を聞きながら、デッキチェアへ身体を預けていた。
白いリゾートドレスの裾から伸びた足先へ、ヴィクターが真剣な表情で細筆を走らせている。
「さあ、サレマ様。」
最後の爪へ丁寧に色を載せると、フゥッと風を送る。
「仕上がりました。いかがでしょう。」
自信に溢れたヴィクターの顏。
サレマは足先を少し上げ、角度を変えながら眺めた。
南国の陽射しを受け、艶やかなラズベリーレッドがキラキラと輝いている。
「あなた、本当に上手くなったわね。」
感心したように言うと、ヴィクターは誇らしげに胸へ手を当てた。
「今後、サレマ様のネイルはすべて、このヴィクターへお任せください。」
「ええ、頼もしいわ。」
サレマは満足そうに微笑む。
少し離れた浅瀬では、浮き輪へ乗ったノアが海面を漂っていた。
日除けの帽子を顔へ載せながら、二人のやり取りを横目で眺めている。
「あーあ。」
気の抜けた声が海風へ混じる。
「ヴィクターさんってば、完全にねーさんの専属美容係になってるじゃん。」
「……ノア様、何か問題でも?」
ヴィクターの問いに、ノアは振り返りもせず答える。
「別にぃ。」
浮き輪の上で、ノアは足をばたつかせた。
「当主の僕には一回も塗ってくれないくせにー。」
「ノア様がひととき、動かずに座っていられるのでしたら検討いたします。」
サングラスごしに太陽を見上げ、考えるノア。
「んー、無理。」
「では、お諦めください。」
即答され、ノアは口を尖らせる。
そんなやり取りを眺めながら、クロードは日陰のテーブルで珈琲を口へ運んだ。
一口含むと、思わず口元が緩む。
「……やはり、この豆は美味しいですね。」
ヴァレンシュタイン伯爵家で毎日のように淹れているうちに、いつしか自分も好きになっていたあの珈琲だった。
「それにしても……。」
再び、ヴィクターとサレマに視線を移す。
「ノア様に、新しいお義兄さまが出来る日も近そうですね。」
ノアは振り返りながら、サングラスを少し持ち上げる。
「―――クロード、冗談はやめて?」
「もちろん、冗談です。」
ひと仕事終え、サレマの隣のデッキチェアでくつろぐヴィクター。しかしその手は、サレマに向けてゆっくりと団扇を仰いでいる。
「……どう思う?」
「さあ……?」
クロードは涼しい顔で珈琲を飲み続ける。
「ふっ……馬鹿な子たち。」
サレマは二人の会話を聞きながら、静かに笑っていた。
復讐は終わった。
失った十年が戻るわけではない。
それでも今、自分の周りには、最後まで側にいてくれた者たちがいる。
静かで、穏やかな時間だった。
——その時。
海の上で揺られていたノアが、突然身体を起こした。
「……ねーさん。」
「どうしたの?」
ノアは水平線の向こうへ目を凝らす。
「なんか、船が来てる。」
サレマも身体を起こし、海の彼方へ視線を向ける。
確かに、大型の客船が一隻、島へ向かって進んできていた。
この島へ来る定期船の時間ではない。
クロードもカップを置き、目を細める。
「随分と騒がしい船ですね。」
まだ距離があるというのに、甲板の方から微かに声が聞こえてきた。
やがて船が近づくにつれ、その内容が潮風と共にはっきりと聞こえてくる。
「……ぉ姉様ぁぁぁぁぁ!!」
海面へ響き渡る、聞き覚えのある甲高い声。
サレマの眉が僅かに動く。
「抜け駆けは許しませんわよぉぉぉ!!」
甲板の先頭では、リリアが大きく両手を振っていた。その隣では、レオンが船から身を乗り出している。
「ノアにいちゃぁぁぁん!」
その声に、ノアは浮き輪の上で固まった。
「え、レオン!?なに?なんで?なんで?」
さらに、その後ろ。
レオルドが手摺へ縋り付き、クロードへ向かって絶叫していた。
「クレイスぅぅぅぅ!迎えに来たぞぉぉぉぉ!」
クロードの穏やかな笑みが、一瞬だけ引きつる。
「……こ、これは。」
ヴィクターは団扇を持ったまま、無表情で船を見つめる。
「サレマ様。沈めましょうか?」
「そうねえ……。」
サレマは迫ってくる船を眺めながら、ゆっくりと足を組み直した。
「まぁ、放っておきましょう。」
リリアの叫び。
レオンの歓声。
レオルドの悲鳴にも似た呼び声。
静かだった南の島へ、波と共に騒音が押し寄せてくる。
それでも、サレマの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「……騒がしくなるわね。」
眩しい陽射しの向こう。
それぞれが失い。
それぞれが過ちを背負い。
それでも、もう一度歩き始めた。
——完璧とはほど遠い断罪。
けれど、以前より少しだけ互いを見ることを覚えた者たちが、また一つの場所へ集まろうとしている。
サレマは海風に揺れる赤い髪を耳へ掛けながら、楽しそうに目を細めた。
今度は、誰かに押し付けられた人生ではない。
自分で選んだ未来を、自分の足で歩いていく。
たとえ、その未来が少々――。
いや。
かなり騒がしいものになったとしても。
FIN




