37 偽りの王子様
一方、書斎を飛び出したリリア。
「ったく……どいつもこいつも……。」
苛立ちをぶつけるように衣裳部屋の扉を開く。
しかし――。
壁一面に並んでいたはずのドレスは、一着残らず消えていた。慌てて引き出しを開けても、すべて運び出されたあとだった。
その光景を前にして、ようやく現実が胸へ押し寄せる。
「う、嘘……。」
レオンは神童ではなくなり、レオルドはあろうことか自分を見放した。味方でいてくれると思っていたクレイスにさえ拒まれた。
昨日まで当然のように自分の周りにあったものが、何一つ残っていない。
「ふざけんじゃないわよ……!」
吐き捨てるように呟いたものの、答える者はいない。
少し前までなら、声を荒らげただけで使用人が駆け寄ってきたはずだった。けれど今は、廊下の先にいた者たちでさえ、リリアの姿を見るなり無言で端へ寄り、通り過ぎるのを待っている。
リリアは苛立ちに任せて玄関まで進むと、そのまま外へ出ようと扉へ手を掛けた。
そこへ。
「奥様。」
振り返ると、業者のような男が、数人の侍女を伴って立っていた。
「そのドレスは、ヴァレンシュタイン伯爵家の財産でございます。」
リリアはしばらく相手の顔を見つめたまま、言葉の意味を理解できずにいた。
「……は?だからなに?」
「差し押さえの対象となりますので、速やかにお脱ぎください。」
そう告げられた直後、侍女たちがリリアを取り囲む。何をされるのか分からず立ち尽くしているうちに、一人が背後へ回り、別の侍女が腰元の留め具へ手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと……何をしてるのよ!」
慌ててその手を振り払おうとしたが、侍女たちは少しも怯まなかった。何度も着替えを手伝ってきた慣れた手つきで飾りを外し、紐を解き、身体を包んでいた豪奢な布地を次々と取り去っていく。
「やめなさい!離しなさいよ!これは私のドレスよ!」
「伯爵家の資金で仕立てられたものでございます。」
叫びながら抵抗しても、誰一人として手を止めない。
むしろ侍女たちは、これまで溜め込んできたものをぶつけるように乱暴にドレスを引っぺがすと、屋敷の奥へ姿を消した。
「ちょっと!!返しなさいよぉぉぉぉ!」
昨日まで伯爵夫人として振る舞っていた女が、薄い肌着一枚で立たされているというのに、助けに来る者はいなかった。
耐えられず、リリアは乱れた髪を振り払いながら玄関を飛び出した。靴すら履いていないことに気づいたが、今さら屋敷へ戻ることなどできない。
冷たい地面へ足の裏を打ちつけながら門へ向かうと、その前に一台の馬車が停められているのが見えた。
「そうよ、そうだわ!」
息を切らしながら立ち止まり、リリアは思いついたように顔を上げる。
「実家へ帰ればいいのよ。」
姉は追放されたあと、実家で使用人のように働いていたはずだ。私の寝る場所も服も食事も、すべて姉に用意させればいい。
そう考えると、何も残っていないと思っていた胸の中に、わずかに希望が戻ってきた。
リリアは馬車へ駆け寄ると、御者の男に命令した。
「今すぐこの馬車でアルディス家へ向かいなさい。」
しかし、御者は動こうともせず、無表情で顔をそむけた。
「あの馬車はもう差し押さえられてるよ。」
「……何ですって?」
「うるさいな。財産整理で、もうすぐ債権者のもとへ回収される予定だって。」
リリアは目を見開いたまま御者を見つめた。
屋敷の中でドレスを奪われたばかりだというのに、今度は馬車まで使えないと言われ、理解するより先に怒りが込み上げてくる。
「そんなこと私には関係ないわ。さっさと出しなさい!」
「しつこいなぁ。」
「ふざけるな!私は伯爵夫人なのよ!」
リリアは御者の胸ぐらへ手を伸ばした。ところが男はその手首を掴むと、乱暴な仕草でリリアの手を払いのけた。
「うるさい!……いつまで伯爵夫人気取りなんだ。」
低く吐き捨てられた言葉に、リリアの動きが止まる。
「こっちは、あんたのおかげで明日から職無しだ。散々好き勝手しておいて、まだ人を使えると思ってるのか!」
これまで一度として向けられたことのない目だった。そこに敬意も恐れもないことを悟った瞬間、足から力が抜け、リリアは石畳の上へ尻餅をついた。
「あんた……。」
悔しさのあまり声を震わせても、御者は顔を背けただけだった。
「……今度会ったら、覚えてらっしゃい。」
裸足のまま、薄い肌着一枚で地面へ座り込み、誰にも相手にされない。その惨めさを認めまいと唇を噛んだ、その時だった。
「リリア様。」
聞き覚えのある穏やかな声が背後から届く。
弾かれたように振り返ると、そこには自分の誘いを拒んだはずのクレイスが静かに立っていた。
「クレイス様……!」
絶望に沈んでいた瞳へ、一瞬にして光が戻る。
やはり、この人だけは違ったのだ。
レオルドも、使用人たちも自分を見捨てたが、クレイスだけは最後に迎えに来てくれた。そう思った途端、張り詰めていたものが一気に緩み、リリアの目に涙が浮かぶ。
クレイスは何も言わずに歩み寄ると、馬車の扉を開き、いつもと変わらない穏やかな笑みを向けた。
「どうぞ。お乗りください。」
その優しい声を聞いた瞬間、リリアは救われたような気持ちになった。
「やはり、あなたは私の王子様だったのね。」
立ち上がると、縋りつくようにクレイスの腕へ手を添え、涙を滲ませたまま甘えるように見上げる。
「ねえ。このまま私をさらってくださらない?もう、こんな家には一秒だっていたくないの。」
クレイスは拒絶することも、手を振り払うこともしなかった。ただ、穏やかな微笑みを浮かべたまま、リリアが馬車へ乗り込むのを待っている。
「申し訳ありません。この馬車を、主のもとへお届けしなければなりませんので。」
「……主?」
聞き慣れない言葉に首を傾げたものの、扉は静かに閉じられ、ほどなく馬車が動き始めた。
行き先がどこなのか、クレイスの言う主が誰なのか、確かめるべきことはいくつもあった。それでも心も身体も疲れ果てていたリリアは、柔らかな座席へ身を預けると、規則正しい車輪の音に誘われるように瞼を閉じていった。
———数刻後。
「……っは。」
どれほど眠っていたのだろう。
規則正しく続いていた車輪の音がゆっくりと弱まり、やがて馬車が静かに止まった。その揺れで目を覚ましたリリアは、重たい瞼を開き、ぼんやりと窓の外へ目を向ける。
深い森の向こうで、夕暮れの光を受けた湖面が静かに輝いていた。その奥には、幼い頃から見慣れたアルディス家の屋敷が建っている。
「アルディス……着いたのね。」
リリアは小さく息を吐いた。
ヴァレンシュタイン家を追い出された今、戻れる場所はここしかない。
しかしクレイスはなぜ、自分をアルディス家まで連れてきたのだろう。実家へ帰りたいと思っていたのは確かだが、まさかクレイスが自分の実家を知っているとは思わなかった。
私の故郷を調べ、行く場所がないことを察してくれたのだろうか。
「クレイス様?」
先に降りたのだろう。
リリアは特に疑うこともなく、馬車の扉へ手を伸ばした。
扉を開けると、懐かしい風が頬を撫でる。靴を履いていない足で慎重に地面へ降り立ち、乱れた髪を手で整えながら周囲を見回した。
「クレイス様、どちらにいらっしゃるの?」
返事はない。
馬車の反対側へ回ってみたが、そこにも姿はなかった。御者台もすでに空になっている。
「中へ入ったのかしら。」
そう呟いた時、屋敷の扉が静かに開いた。
中から姿を現したのは、質素なメイド服を身にまとったサレマだった。
「お姉様。ちょうどよかったわ。」
リリアは当然のように石畳を進み、サレマの前まで歩いていく。
「部屋を用意してちょうだい。お風呂にも入りたいし、お腹も空いてるの。それから服も。こんな格好ではいられないでしょう?」
サレマは何も答えなかった。怒ることも、困った顔をすることもなく、静かにリリアを見つめている。
その態度に、リリアは眉をひそめた。
「ねえ、聞こえなかったの?」
「聞こえているわ。」
「だったら、早くしてちょうだい。今日は本当に散々だったのよ。」
リリアは屋敷の中へ入ろうとしたが、サレマは道を譲らなかった。
「あなたを迎える準備など、していないわ。」
「は?」
思いもよらない返事に、リリアは目を瞬いた。
「準備なんて今からすればいいでしょう。空いている部屋くらいいくらでもあるじゃない。」
「ここは、あなたの家ではないわ。」
冗談を言っている様子はなかった。
リリアは呆れたように笑う。
「何を言ってるのよ。メイドの分際で何様のつもり?」
「あなたは自分からこの家を捨てたのよ。」
「そんな昔の話、今はどうでもいいの。私は困っているのよ。」
「だから?」
あまりにも素っ気ない言葉に、リリアの笑みが止まった。
「かわいい妹が困っているから、私がまた何もかも用意すると思ったの?」
サレマは声を荒らげなかった。それでも、その静かな眼差しに見つめられると、なぜか以前のように命令を重ねることができなかった。
リリアは苛立ちを誤魔化すように周囲を見回した。
「そんなことより、クレイス様はどこ?」
「クレイス?」
「ええ。私をここまで送ってくださった方よ。先に屋敷へ入ったのでしょう?」
サレマは一瞬だけ目を細めた。
「そのような者は、ここにはいないわ。」
「何を言ってるの?」
リリアは鼻で笑った。
「さっきまで一緒に馬車へ乗っていたのよ。あなたたちの誰かが案内したんでしょう?」
その時だった。
「リリアお嬢様。」
屋敷の奥から、穏やかな男の声が聞こえた。
「クレイス!?」
リリアはすぐに振り返る。
けれど、扉の奥から現れたのは、無造作におろした金髪に田舎臭い服の一人の青年。
「……誰?」
リリアは眉をひそめた。
青年は目の前まで来ると、丁寧に頭を下げる。
「私を、お忘れですか。」
「知るわけないでしょ!」
「……そうでしょうね。」
青年はゆっくりと顔を上げた。
前髪の奥にある瞳を見た瞬間、リリアの胸の奥に小さな違和感が生まれる。
どこかで見たことがある。
けれど、それがいつなのか思い出せない。
「あなた……。」
「クロードでございます。」
その名を聞いた瞬間、遠い記憶が不意に蘇った。
子供だった頃、アルディス家で働いていた太っていて冴えない少年。動きが鈍いと笑い、姿を見るたびにいじめ倒し、何度も酷い言葉を浴びせた使用人の見習い。
「……クロード、ですって?」
思わず一歩後ずさる。
クロードは穏やかな笑みを崩さないまま、静かに髪を掻き上げた。
「醜くて、太っていて、生きている価値もない――クロードでございます。」
その名乗りを聞いた瞬間、リリアの全身から血の気が引いた。
目の前に立っているのは、間違いなくアルディス家で働いていたあのクロードだった。その面影は痩せた輪郭や整った顔立ちに隠れていても、穏やかに細められた瞳だけは昔と変わっていない。
だが、その瞳を見つめた途端、リリアの胸の奥で別の記憶が重なった。
書斎で微笑んでいたクレイス。
穏やかな声で紅茶を淹れてくれたクレイス。
自分を美しいと褒めたたえ、誰よりも優しく寄り添ってくれたクレイス。
そのすべてが、今目の前に立つ青年の笑顔と寸分違わず重なっていく。
「まさか……。」
掠れた声が唇から零れた。
「クレイス様、というのは……。」
クロードは静かに眼鏡へ手を添え、落ち着いた口調で答える。
「そのような人物は、最初から存在いたしません。私がヴァレンシュタイン家へ潜入するために用いた仮の名でございます。」
リリアは何度も首を横へ振った。
「嘘よ……!そんなはずないわ!!」
否定しようとしても、頭の中では記憶が勝手につながっていく。柔らかな笑みも、穏やかな話し方も、自分を安心させるような眼差しも、すべて最初からクロードのものだった。
クレイスなんて、初めから存在しなかった。
「じゃあ……あの馬車も……。」
「もちろんです。」
クロードは少しも表情を変えなかった。
「この馬車を、主のもとへお届けしなければなりませんので。」
「……主、ですって?」
その一言に、リリアは思わず聞き返した。クロードは答える代わりに、ゆっくりとサレマに視線を向け一礼をする。
つられるようにリリアも姉を見た。
目の前にいるのは、伯爵家から惨めに追放され、メイドになり果てたはずの姉だ。飾り気のない服をまとい、髪も質素にまとめ、屋敷の一使用人であるかのように静かに立っている。
それなのに――。
「――ひぐっ。」
不意に息が詰まり、胸の奥を何かに掴まれたように呼吸が浅くなる。
その場に立つサレマからは、幼い頃、自分が決して逆らえないと本能で悟っていた、あの圧倒的な魔力の気配が静かに滲み出ていた。
「そろそろ終わらせましょう……リリア。」




