36 完璧なる断罪 レオルド編
さっきまで響いていた怒鳴り声が嘘のように、書斎は静まり返っていた。
机の上には財産目録や差し押さえに関する書類が乱雑に広げられ、その向こうでレオルドが、冷え切った目をリリアへ向けている。
「この伯爵家に不要なのは、お前だ。リリア」
リリアは目を見開いたまま、それを自分へ向けられた言葉として受け入れることができなかった。
「レオルド。あなた、何を言ってるの?」
やがて乾いた笑みを浮かべると、冗談を聞かされたかのように肩を揺らした。
「ほら、いい加減そんなお芝居はやめなさいよ。」
当然、すぐに謝るものだと思っていた。怒りに任せて口を滑らせただけだと、そう弁明すると思っていた。
しかし、レオルドはそれ以上何も答えない。
すでに話は終わったとでもいうように視線を机へ戻すと、広げられた財産目録を手に取り、再び書類へ目を通し始めた。
その態度には怒りすらなく、もはや言葉を交わす価値もないという完全な無関心だった。
それを感じ取った瞬間、リリアの胸の奥で何かが切れた。
「……あっそう。」
唇を震わせながら、それでも負け惜しみを隠すように無理やり笑みを作る。
「お金がない男なんて、こっちから願い下げよ。」
レオルドにそう吐き捨てると、勢いよく身を翻した。
その視線の先にはクレイスが静かに立っている。その姿を見つけた途端、リリアの表情からふっと怒りが消えた。
「さあ。もう行きましょう、クレイス先生。」
甘い笑みを浮かべながら一歩近づき、まるで当然のように手を差し伸べる。
「こんなしみったれた家、私にもあなたにもふさわしくないわ。二人で新しい生活を始めましょう?」
ところがクレイスは、差し出された手を取ろうとはせず、静かに目を閉じると小さく頭を下げた。
「このまま、ご一緒することはできません。」
リリアは一瞬、その言葉が自分へ向けられたものだと理解できなかった。
「私は、レオルド様のお力になりたいと思っております」
ようやく意味が頭へ届いた途端、顔に浮かんでいた笑みがそのまま凍り付く。
「……え、なに?」
聞き間違いだと思った。いや、そうでなければならなかった。
「美しいわたくしより、こんな甲斐性無しの男を選ぶと言うの!?」
声が裏返り、縋るようにクレイスの顔を覗き込む。
「じょ、冗談でしょう?」
しかし、クレイスは少しも迷うことなく首を横へ振った。
「冗談ではございません。私は『最後まで』この方のお側におります。」
その言葉を聞いた瞬間、それまで黙っていたレオルドがゆっくりと椅子から立ち上がった。
そして次の瞬間、胸の内に溜め込んでいたものを一気に吐き出すように、初めて心の底から笑った。
「……は、はは……はははは!」
レオルドの笑い声が書斎中へ響き渡り、呆然と立ち尽くすリリアに容赦なく降り注ぐ。
「聞いたかリリア。クレイスが最後に選んだのは、この私なのだ!」
言い渡されたその一言は、怒号よりもはるかに重くリリアへ突き刺さった。
そんなこと、認められない。
なんとか言い返そうと口を開いたものの、言葉が出てこない。
レオルドとクレイスを交互に見つめ、どちらかが「冗談だ」と笑い出すのを待ってみる。
しかし。
「もういい!!」
やがて耐えきれなくなったリリアは、乱暴に扉を開け、そのまま書斎を飛び出していった。
バタン――。
再び訪れた静寂の中で、レオルドはしばらく閉ざされた扉を見つめ続けていた。やがて全身から力が抜けたように椅子へ腰を下ろすと、大きく息を吐く。
「はあ……。」
そんなレオルドに向かって頷くクレイス。その口は何も語らなかったが、「よくぞ言いました」と、そう褒めてくれている気がした。
この男なら。
クレイスなら、なんでも受け止めてくれる。
そう思った瞬間だった。
「……私は、本当に愚かだった。」
思わず、レオルドが本音を漏らした。
・・・
その頃、アルディス家の地下深くにある研究室では、六枚の魔導モニターが青白い光を放っていた。
中央の画面には、椅子へ沈み込むようにして項垂れるレオルドの姿が、正面から映し出されている。サレマはその様子を、目を逸らさずに見つめていた。
聞きたくても聞けなかったことがある。問いただしたくても、その機会さえ奪われ、胸の奥へ押し込め続けてきたこと。
「……ねぇ、レオルド。」
届くはずのない声だと分かっていながら、それでも自然と唇が動いた。
「リリアとは———」
サレマがそう口にしかけた、その瞬間だった。
画面の向こうで、クレイスがレオルドの前へ静かに一歩進み出る。
『……リリア様とは、どのような経緯でお知り合いになられたのでしょうか。』
それは、サレマの聞きたかった言葉だった。
信頼する男クレイスにそう聞かれると、レオルドはゆっくりと目を閉じ、遠い過去を辿るように語りだした。
『……私が初めてアルディス家を訪れた時だ。婚約者であった姉のいぬ間にリリアに誘惑され、私は一度だけ過ちを犯した。』
研究室の中で、サレマの指先がわずかに震えた。
『やがて、リリアが妊娠した。突然そう告げられた私は、パニックになりリリアを町はずれの病院に隠すように入院させたのだ。』
リリアが突然姿を消した、その裏側が明らかになっていく。
『そして……、姉のサレマとの婚約を解消しようと決めた。』
モニター越しに、レオルド本人の口から語られる真実。
「だったら、私となぜ―――」
思わず漏れたサレマの声を引き取るように、画面の中のクレイスが問いを重ねる。
『ではなぜ、サレマ様との婚儀を執り行ったのですか?リリア様はそう望まなかったのですか?』
レオルドは自嘲するように、口元を歪めた。
『あいつも最初はそのつもりだった。だがリリアが子を産んだ後、突然予定どおり婚儀を進めろと言いだしたんだ。』
その言葉を聞いたサレマは、静かに目を閉じた。続きなど聞かなくても、その真相はもう分かっている。それでも、思わず唇から声が漏れた。
「私にレオンを――」
その言葉へ重ねるように、クレイスが淡々と続ける。
『サレマ様に、レオン様を育てさせるためですか……。』
『……ああ。おそらく。』
レオルドは顔を上げることもできず、深く俯いた。
『……仕方なかったのだ。言うことを聞かなければ、婚約者の妹を孕ませて捨てた外道だと告発すると脅されたのだ。』
クレイスの眼差しから、それまでの柔らかさが消えていく。
『つまり、あなたはサレマ様ではなく、伯爵の地位を選ばれた。』
真正面から突きつけられた言葉に、レオルドはしばらく答えられなかった。
『……ああ、君の言う通りだ。』
それでも逃げることはせず、震える息とともに、ようやく認める。
ひとり、研究室で無言になるサレマ。
しかしクレイスは――。
『あなたが、最初からすべてをサレマ様へ打ち明けていれば、これほどの犠牲は生まれなかったのではありませんか?』
『……サレマへの罪悪感はあった。しかし、時と共にそれも薄れていったのだ。』
レオルドに詰め寄るその言葉は、もうサレマの代弁者ではなかった。
『あなたは!信じていた男性に突然捨てられる気持ちを――』
「もういいわ、クロード!!」
堪えきれなくなったサレマが、机上の通信魔石へ声を叩きつけた。その瞬間、画面の向こうでクレイスの言葉が止まる。
これ以上聞いたところで、過去が変わるわけではない。どんな理由を並べられても、失った十年が戻ってくることもない。
それでも、レオルドはなおも言葉を続けた。
『私は、ずっと間違え続けてきた。サレマにも、レオンにも……本当に大切にすべき者を、私は一度も見ようとしなかった。』
遠く隔てられた二つの部屋へ、長い沈黙が落ちた。
けれど、どれだけの懺悔を聞いても、サレマの心は少しも救われなかった。
「結局、この人は……。」
サレマに向けられた愛など、何一つなかった。
リリアの言いなりになった理由も、自分を十年間見捨て、追放した理由も、すべては地位と体面を守るためだった。
ただ、それだけのことだったのである。
・・・
すべてを吐き出したレオルドは、やがてゆっくりと顔を上げ、目の前に立つクレイスを見つめた。
「だが、ようやく分かった。」
絶望に沈んでいた男の瞳に、初めてわずかな光が宿る。
「この私に必要なのは、お前だけなのだ。クレイス!」
それは、レオルドにとって生まれて初めて口にした、偽りのない心からの言葉だった。
まっすぐに向けられたその視線を、クレイスは穏やかな微笑みで受け止める。
「私の身は、主人の御心次第です。」
その返答に、レオルドの瞳が大きく揺れた。
「こんな愚かな男を……私をまだ、主と呼んでくれるのか。」
感動するレオルドに、クレイスは目を伏せたまま静かに答えた。
「私の主人は、生涯ただ一人にございます。」
・・・
研究室で、サレマが静かに瞼を閉じる。
レオルドの懺悔も、十年間知らされることのなかった真実も、すべて胸の内へ受け止めた。
十年続いた偽りに、終止符を打つ時――。
ゆっくりとチェス盤へ手を伸ばし、白いキングの上へ黒いナイトを滑らせる。逃げ道を塞ぐように、その駒を静かに重ねた。
「――さあ、断罪よ。クレイス!」
・・・
画面の向こうでクレイスが小さく頷いた。
「旦那様、よくぞお話しくださいました。」
その一言に、張り詰めていたレオルドの肩からゆっくりと力が抜けていく。
誰にも打ち明けられず、十年間胸の奥へ押し込め続けてきた罪を、ようやく口にすることができた安心が、疲れ切った表情へわずかに滲んでいた。
そんな様子を見つめながら、クレイスは優しく包み込むような微笑みを浮かべる。
「ではそろそろ、すべて清算する時です。」
「あ、ああ。そうだな、残りの債務整理をはじめよう。」
顔を上げたレオルドへ背を向けると、クレイスは書斎の扉へ向かって歩き出した。
「……コーヒーを淹れて参ります。」
ドアノブへ手を掛けたまま一礼し、静かに部屋を後にする。
その背中を見送ったレオルドは、満足そうに椅子へ深く腰掛けた。
もう何もいらない。
爵位を失っても、屋敷を失っても構わない。クレイスが側にいてくれるのなら、どこからでもやり直せる。
そんな穏やかな未来を思い描きながら、レオルドは静かに彼の帰りを待ち続けた。
しかし――。
十分が過ぎても、二十分が過ぎても、クレイスは戻ってこなかった。
「……遅いな。」
壁の時計へ目を向けながら、レオルドは小さく苦笑する。
「ふふ。私のために、豆からローストしているのか?」
あの男なら、あり得ない話ではない。
自分が疲れていると知れば、豆の挽き方から湯の温度にまで気を配り、少しでも心が休まる一杯を淹れようと、時間を惜しまないだろう。
そう考えると、待たされていることさえ嬉しく感じられた。
だが、それからさらに時間が過ぎ、とうとう三十分が経った頃には、さすがに胸の奥へ不安が広がり始めた。
「さすがに遅い。」
レオルドは椅子から立ち上がると、書斎の扉へ手を掛けた。
コツン――。
開いた扉が、廊下に置かれていた何かに小さく当たる。足元へ目をやると、そこには銀の盆が置かれていた。
その上には、すっかり冷めた一杯のコーヒーと、一通の封筒が載せられている。
「……クレイス?」
廊下の左右を見渡しても人影はなく、呼びかけに答える声もない。
胸騒ぎを覚えながら封筒を拾い上げると、震え始めた指で封を切る。中に入っていたのは、たった一枚の紙だった。
『契約終了にて――クレイス。』
書かれていたのは、それだけ。紙を裏返してみても、封筒の中を覗いても、匂いを嗅いでも、その以上何もなかった。
「……契約?」
その二文字が、胸の奥へ冷たく沈んでいく。
この家との契約が終わった……?
あの男は、あくまでも契約で雇われた家庭教師にすぎなかったというのか。
自分を主と呼び、最後まで側にいると言った言葉も、すべては契約の一部だったのか。
いや。
クレイスの言う主人というのは、そもそもこの私のことでは―――。
そこまで思い至った瞬間、レオルドは弾かれたように廊下へ飛び出した。
「待ってくれ、クレイス!」
声を張り上げても、返事はない。
廊下を見渡しても、二階から玄関ホールを見下ろしても、どこにもあの金色の髪は見当たらない。
そこでようやく、レオルドは理解した。
「クレイスーーーーーッ!!」
心の底から絞り出された悲痛な叫びが、広い伯爵邸の中へ虚しく響き渡った。
・・・
アルディス家、地下。
「どう?レオルド」
研究室で、サレマは白いキングの駒を手にしていた。
「信じていた『男』に捨てられた気持ち、少しは理解できたかしら?」
指先を開くと、白い駒は彼女の手からこぼれ落ちて、静かな音を立てて研究室の床へ転がった。




